触れることに微塵の躊躇いも恥ずかしさもない。
もちろん、下心もないだろう。
「はい、ケツの穴しめて。足の裏で床を掴む。上半身は乗ってるだけ。肩に力が入れなーい」
意味が分からない。でも分かる。
「先輩、女子にケツの穴はさすがに」
「すまん」
私の肩を大きな手でほぐしながら、先輩は間髪入れずに謝った。
「あのねえ、構えすぎ」
前に回りこんできて、先輩が腕を組んだ。下ネタの直後にこの真面目な語り口。心底おかしな人だ。
先輩は背が高い。目の前で仁王立ちされると威圧感は尋常ではない。しかも基本的には怖い人だ。私は怖いなんてほとんど思ったことがないけれど。
「歌うぞ! ってしすぎなの。横山は」
「はい」
なぜなら、彼はいつでも正しいから。
「よし、じゃあもう一回この音から」
いつのまにかピアノのところにいる先輩が、ひとつ音を叩く。私は自分のタイミングですぐに歌いだす。なるほど、肩の力が抜ければ幾分声が通りやすい。いや、もともと分かってはいる。でも、緊張してしまう。先輩の前では。
決して、これは恋などではないのだけれど。
「口に余計な力が入ってんのー。口は開けるだけー」
自分で弾いている発声練習の伴奏の音に負けないぐらい声を張って、先輩は怒鳴る。それを皆怖いと言うが、私は思わない。
「そうそうそうそう」
彼はただ率直で、言いたいことをまとめるのが上手いだけだと思う。
「はいストップ。一回休憩しようか。うん、でもまだ力入ってるよ。舌に力入ってたら歌えないよ? どうやったら力抜けるかね、キスでもしようか」
ピアノの椅子から立ち上がりながら、先輩はにやりと笑った。
「自分でどうにかします」
「はあ、毎回毎回、横山の返しには悪意がある……」
「ありませんよ」
「横山さあ、不思議だよね、役入るとあんなにいろんな顔するのに、普段ほとんど感情ゼロじゃん」
先輩は音楽室の机の上に座って、ペットボトルの水をごくごくと飲んだ。私は通路挟んで隣の椅子に座る。
「感情ならありますよ、省エネなだけで」
「ストレス溜まるでしょう」
「いえ別に。私は先輩みたいに、思っていることを分かりやすく表現できないので、黙って無表情が楽なんです。発散なら、役がしてくれます」
「へー」
とても感心しているとは思えない顔で、先輩は頷いた。
「恋も役がしてくれんの?」
と、こちらに身を乗り出してくる。やっぱり興味があるのはそんなことか。
「そうかもしれません」
「じゃあ、ロジャーに恋してる?」
ロジャーは、先輩の今回の役名。
「ミミはしてます」
ミミは、私の今回の役名。
「前田先輩には?」
「前田先輩としては好きですが、前田淳博さんとしては特に」
「最悪な回答。待ってどういうこと?」
先輩は私にウケないと分かりつつも、両手で頬を下にひっぱって白目をむいた。
「先輩は歌も演技もダンスも上手くて、おまけに後輩の指導も上手くて、仕事もてきぱき要領よくやりこなしてらっしゃるので、尊敬しているという意味です」
「そんなこと聞いてないから」
先輩はピシャリと言って、机から飛び降りた。
「尊敬とかどうでもいいから。俺のことどう?」
「どうもこうも」
私は首を傾げた。
先輩に対する尊敬のバロメーターは振り切れんばかりだ。出会ったときから。こんなふうになれればいいのに、と思うが、なれないから、ただ眺めてうっとりする。恋ではない。技能に惚れこんでいるだけ。
「あっそ」
先輩はピアノのほうに歩き出した。ポケットに両手を突っ込んで、猫背で歩く。彼だって舞台に立てばまるで好青年という具合に変身するではないか。普段はまったく、ヤンキーあがりの大学生そのもの。
「俺は横山好き」
完璧、完璧とまわりから言われ続けている前田先輩の背中が悔しそうに見えたのは、なんだか申し訳ない。
「……あーなんかもうイライラする!」
突然の告白に答えないで放っておいたら、ピアノに辿りつく前に先輩が叫んだ。私は驚いて、条件反射のように立ち上がった。
「歌やろう」
振り向いた先輩の顔は笑っていた。あいかわらず性格の悪そうな笑い方だ。でも、なぜ今そうやって笑っているのか。
「はい」
まあ、どうだっていい。
「伴奏いないから、アカペラね」
「はい」
私はピアノのそばに歩み寄り、先輩が鳴らした一音をハミングして耳に焼きつけた。先輩のカウントで歌がはじまる。
今までこんなにそっけない会話しかしていないが、ひとたび始まればじっと見つめあい、甘い雰囲気なんて簡単に作れる。プロではないにしても、演劇をやっている人間なんて、そんなもの。嘘が楽しいからこんなことをやっているのだ。
先輩と私なら、こんな顔をしない。
自分にはない顔や感情が、何故か勝手に生まれてくる。それが、いつしか自分自身の持ち合わせている感覚や表現をはるかに越えて、深くて柔軟な表情へと育っていった。
私の本分は、この嘘と偽りの芸術の中にこそあるのかもしれない。
そこでは彼を愛している。私が知り得ないその命をかけた愛すらも、そこにはある。仮面をつけた彼を愛している。抱き合ってキスも出来る。嘘だからできるのではない。私ではなく、彼ではないからできるのだ。
「よくなったんじゃないの」
「先輩の教え方、やっぱり分かりやすいです」
歌が終われば、目の前にはただの前田先輩。
スラっとしているけれど意外と筋肉はあって、脚が長くて顔が小さい。格好良いと言う人もいっぱいいるし、それは分かる。でも見るからに悪人面で、物言いもきついから怖いと言う人もいっぱいいる。それも分かる。
でも、好きにはならない。
もしかしたら、役よりも私のほうが嘘の存在なんじゃないかとたまに心配になる。そのくらいに、空っぽだ。
「そりゃどうも。俺、横山に期待してるからね」
「そうですか、ありが」
「あと、自分のこと役とプライベートをしっかり切り離せてる現実主義の賢い女だと思ってるのかもしんないけど、」
先輩は私が言い終わる前に強制的に黙らせた。すごい勢いで喋る。声はよく通るし。そりゃ怖いって言われても仕方ないと思う。
「演劇に甘えてるよ。自分の感情は自分の感情。ミミに委託すんな。それじゃいつまでたっても本物の演劇できないぜ」
真顔で言い切ったあと、先輩は俯いてふっと笑った。そしてこちらに顔を向けることなく踵を返し、机の上のペットボトルと、ピアノに置いた楽譜を掴んでドアのほうに歩き出した。
「じゃ、今日の個人練習終わり。発声とか相談あったらいつでも言ってね、あと俺に惚れたらいつでも言ってね」
「ありがとうございました」
業務連絡みたいに言われた。後ろ向きに手を振ってみせる先輩の気障っぽい後姿を大してちゃんと見もせずに、私は頭をさげる。
バタン、とドアが閉まった。
どうせ利己主義、格好つけるのが大好きだし、口は上手いけれど、よく聞けば自分に都合の良い理屈ばかり並べている。
しかし、やはり彼は尊敬できる人だ。なるほど、本物の演劇か。
真実として経験しないと、上手い嘘は吐けない。本物の恋をしないと、演劇で恋はできない。
考えてみればありふれた教訓だった。でも、私はそれに気がつかなかったのだ。先輩はすごい。あんなふうに上手く喋れて、伝えられる。うらやましいかぎりだ。
彼が私を好きだということは全く別次元の事実として保留にしておこう。
嘘の相手は、たまたま彼。
真実の相手は、私の自由だ。
でも、先輩に惚れたらいつでも言おうと思う。

(役名の引用:ミュージカル「RENT」より)

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