しんと静まり返った部屋。
静寂に溶けるように眠っている陽奈の身体が、ゆっくりと落ち着いた呼吸とともにかすかに上下していた。俺はその一定のリズムを崩さないようにそっと布団から這い出し、低いテーブルのうえの煙草とライターを掴んでベランダへ出た。春先の午前2時半、風は強く、空は雲で薄ら白く覆われている。
俺はどうしようもなく浅い人間なのかもしれない。加えた煙草にライターで着火しながら、毎度のごとく思考が停止するたびそのことばかり考えていると気付いた。
誰かを好きになるのは、相手が今までの経験の中で構築してきた性格や考え方に愛着が湧くことから始まる。それはひどく曖昧な概念かもしれないが、誰だって、“その人である”という他者との相違――すなわち人格に惹かれるものだろう。やれ外見だ、やれ収入だと、恋をするにもさまざまな着眼点があるが、相手の人格を気に入っていないことには相当の苦労を要する。そんな苦労をしてまでその人と一緒にいるのは、果たして純粋な愛と呼べるものなのだろうか。呼べないとしたら、俺は彼女を愛せているのだろうか。
そもそも、今夜俺の家で寝ている陽奈が誰なのかすら、まだ分かっていない。東條陽奈は、私立女子大に通う1つ年下の女子大生で、俺の部屋の隣室に住んでいる。綺麗な長い黒髪で、背は低く、華奢で、どちらかというと華はないが、美人。そんなことしか、知らない。彼女の心には幼少の頃から積み重なった、ある原因の数々がついにメーターを振り切って、彼女という核を守るためのいくつかの人格が存在する。その全てを俺は受け入れ、認め、平等に接し、その全てにキスして、抱きしめて、愛していると告げてしまった。
俺はどうしようもなく浅い人間なのかもしれない。
医者が言うにはそれでいいらしい。人格をえこひいきしてはいけない、全てに対して平等に接してやるのがいい、と。陽奈のためなら俺のちんけな恋愛観なんてもちろんどうでもいいのだが、どうにも、後ろめたい。彼女の姿をしていれば、なんだっていいのだろうか。何を目当てにこんな献身的に“優しい恋人”を目指しているのか。俺には昔から、何をしていても、ふとした拍子に音が消え、空間が消え、“静”の世界がやってくることがあった。全部わけがわからなくなって、空虚なものにしか思えなくなって、宇宙が全部消し飛んでしまったような気になる。ただ、その奇妙な感覚はすぐにまた消えて、そもそものがむしゃらな“動”の世界が戻ってくる。すると、俺はその瞬間の冷静で客観的な思考はどこへやら、またその空虚な動作を続けるのだ。無意味に支配されているに違いなかった。意味を問うことを自ら禁じているのだ。問うてしまう“静”の世界は、あまりにも切なくて胸が締め付けられるから。しかし、陽奈のことに関しては、たとえ心がもたなくても真剣に悩み続けたいと思える。無意味のままで、彼女を愛するぐらいなら、彼女の前から去ったほうが賢明だとさえ思えた。
隣室に美人が越してきた。
それが陽奈と出会ったときの、一番最初の印象だった。俺の家に挨拶に訪れた彼女は、恥ずかしそうにはにかんだ笑い顔を見せて、小さな声で名前を名乗った。無論、俺は綺麗な隣人とお近づきになりたいと考え、アパートの廊下ですれちがうたびに何かと声をかけて、内気な彼女に心を開いてもらいたい一心でしつこいぐらいにアプローチをしかけた。そんな俺の努力が実ったのか、ある朝陽奈は満面の笑顔を見せる。
「あ、三谷さんおはようございます」
その時点で違うと気付いた。
「おはよう。今日早いね」
「久々に早起きできたんで」
この子はこんなに上手く愛想笑いが出来ただろうか、と違和感を感じた。それから駅までふたりで話しながら歩いた。別れたあとに、きっと別の人格だ、とぼんやり思ったが、その後の付き合いで、この積極的な女の子は、沙耶というまったくの別人であることが分かるのだが、そのときはまだそこまで深刻に捉えていなかった。そんな病気の人は初めて見たのだ。すぐには現実味が湧かなかった。
次に別人格が現れたのはそれから数日後のことで、俺の部屋に彼女を招いて一緒にご飯を食べているときだった。直前まで普通だったのに、陽奈がトイレに立った直後、子供の泣き声が聞こえてきた。しかも、外ではなくこの室内で。なにがなんだか分からず俺が廊下に出て行くと、廊下の真ん中に陽奈がうずくまっていた。子供の泣き声にしか聞こえないその声は、紛れもなく陽奈のものだった。
「と、東條さん、大丈夫?」
「お兄ちゃん……誰?」
顔をあげたのは、19歳の陽奈ではなく、4歳の緋莉。そのとき初めて彼女に対して恐怖を感じた。沙耶は陽奈と同い年ぐらいの人格で、コミュニケーションに差し障りがなかったので、大して気にしていなかったのだが、緋莉は19歳の陽奈の身体に反して幼児の心を持ち、そのうえ俺をひどく警戒しているようだった。
正直、この先陽奈とどう接していけばいいかすら、見失いかけた。
「ごめんなさい、三谷さん」
緋莉をなだめて部屋に連れ戻し、あれこれ要求を聞き入れている途中で、ふと彼女の表情が変わり、陽奈の声がそう言った。
「あ、戻った、大丈夫?」
俺は内心で胸をなでおろした。
「はい、あの……今まで全然、なにも説明してなくてすみません」
彼女はこたつに入って座ったまま、深く頭をさげた。台所に立ったままだった俺は、「いや、そんな、謝らないで」と言いながら彼女の向かいに戻って座った。
「もう分かっちゃったとは思うんですけど、私、多重人格なんです」
確かにもう分かっちゃっていたが、改めてそれが言葉になると、重かった。
「今のは緋莉っていう、一番幼い人格です。それから、しょっちゅう出てきていたよく喋る子は沙耶。沙耶は私と同い年ぐらいです……他にも何人かいますけど、たぶん皆無害だと思います、ただ、緋莉にだけ気をつけてください。凶暴になりやすいみたいなんで……っていうか、」
一通り早口で、目も合わさず、小さい声で喋りきると、陽奈はちらりとこちらを見上げた。俺は呆然と口を開けたまま話を聞いていたので、そこで焦って笑顔を作った。
「こんな人、面倒くさいですよね……ホントに、嫌だったらいつでも付き合いをやめてもらって結構ですからね、っていうか、嫌だと思うし……でも、三谷さんはすごく良くしてくれたから、私、嫌われたくなくって、ずっと本当のことを説明するのが怖かったんです。でも、私が言わなくたってそんなの絶対分かっちゃうし、きっとだんだん、嫌になって離れて行っちゃうんだろうなって、それは分かってるんですけど……あの……今まですごく楽しかったです。いっぱい話を聞かせてもらって、笑わせてもらって。私、ここに越してきてよかったと思います。ありがとうございました、今まで」
陽奈は寂しそうにはにかんで、そう言った。胸がぎゅっと締め付けられたような気になって、彼女の過去について一気に想像が駆け巡った。きっと今まで何人も、そうやって様々な人格の登場に愛想を尽かして彼女のもとを去っていったのだろう。傷つくことに慣れようとしている姿があまりに痛々しくて、俺は衝動のままに、
「今まで、今までって、これからも俺たち隣人じゃん」
と、言い放っていた。今考えれば、単なる同情だけで、なんの責任感もなく、軽率に優しくしてしまってよかったのだろうか、と後悔しそうになる。
「俺は東條さんとこれからも仲良くしたいから、全然面倒くさくないし、嫌になったりしないよ」
「……三谷さんは、ホントに優しいですね」
そう返した声には、“嘘を仰い”というようなニュアンスが含まれていた。信じることすらできなくなっている陽奈を目の前に、自分の無力を痛感した。ただ悔しくて、絶対に有言実行してやる、と決心した。
煙草の灰が、塊になってベランダの手すりの上に落ちた。陽奈が俺に自分の病気について初めて説明してくれたときのことを思い出していたときだ。あれからすぐ彼女に告白して、付き合い始めた。それから俺は、時たま訪れる“静”の世界に怯えながら、基本的にはがむしゃらに、陽奈を好きだ。理由なんてどこにもなければ、疑う時間もないほどに、隙間なく彼女のことが好きだ。しかし、懺悔の言葉を裏側に孕んで、彼女に優しい声で話す。許してほしい、本当の君をいまだに見つけ出せない、なのに愛していると言う自分を。
後ろから突然軽いノックの音がした。振り返ると、暗い部屋の中から、ベランダの窓を陽奈が叩いていた。彼女は俺の顔を見るとガラリと窓を引き開けた。
「真哉くん、冷えちゃうよ、そんな長いこと、外にいると」
「あ、うん、戻る、戻る」
寂しそうな女の子は、まさしく主人格の陽奈だった。俺は急いで煙草の火をサンダルで踏みつけ、家に上がると同時に陽奈を抱きしめた。陽奈はびっくりしてクスクス笑う。
「ねえ、真哉くん」
「ん?」
「いつも一緒にいてくれてありがとう」
「え、どうした? こちらこそどうも」
「不思議になるぐらい優しいんだもん。どうして私と一緒にいてくれるの?」
俺の胸に顔をうずめたまま、陽奈は澄み切った声で訊いた。
「……さあ、どうしてだろう」
俺は“静”の世界の到来をひしひしと感じながら答える。
「陽奈、陽奈はここにいるか? 俺は誰と一緒にいるんだろう。君を愛してるけど、君がどこにいるのか、まだ探してる途中だ。たまに自分が何をやってんだが分からなくなる。それでもいいなら、ずっと一緒にいるよ」
腕の中の空虚は日に日に膨らんでいく。これはいつか、実るだろうか。浅はかにも、俺は理由を求めていた。
「構わない」
陽奈は笑った。
開けっ放しの窓から、春先の強い風が吹き込んで、妥協だらけの甘ったるいキスをするふたりを包み込んだ。


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