ただいま、と、僕は笑った。
真っ暗い部屋の真ん中で、真っ白い女が振り返る。

「遅くなってごめんよ」

エトワール・デュパンは答えなかった。彼女のうっすらと葡萄酒が揺れるような瞳が、僕の姿を探っている。僕はシルクハットを脱ぎ、彼女のプラチナブロンドの髪の毛を撫でた。そして、純白に蝕まれた頬にキスをひとつ。
エトワールは全身を白い呪いに包まれた少女だ。痩せ細った身体には、シルクのスリップと真っ赤なカーディガン。肩の少しうえで、細く丸いフォルムを描いた髪の毛が揺れている。葡萄色の瞳には、何も見えていない。

「リア」
「そうだよ、憶えていたね。よかった。僕は忙しかったけれど、君に忘れられることばかり、心配して気が気じゃなかったよ」
「どうして帰ってきたの」

エトワールの細く擦れた声が囁く。僕は微笑んで、彼女に抱擁した。

「帰ってきたのは当たり前のことだろう? 僕は君の記憶の中にいたいんだ」
「あたしは貴方以外憶える人がいない」
「嬉しいことを言ってくれるね」
「頭が可笑しいと思って、馬鹿にしている」

彼女は特に感情も込めずにそう言い放った。

「違うよ。僕の顔が見えない君が、僕のことを憶えていると思わなかっただけだ」

僕はエトワールの細い四肢を抱き上げ、窓辺まで歩いて来た。古ぼけたカーテンを開くと、空虚な月夜が広がっていた。

「綺麗な月だよ、エトワール。分かるかい?」
「知らない」
「まぁ、構わないよ。月なんて、ただそこにいるだけで、誰でも憶えていてくれるからね。忘れられてしまうのが一番怖いし、もっと怖いのは忘れてしまうことだよ。この宇宙でなく、僕の持つものを世界と呼ぶなら、忘却は滅亡だ。違うかい? ただ、僕が欲しいのは、生きた証だけだ。生きようと、愚かにあがいた形跡。引っかき傷。醜く歪みながら、墓穴の中から手を突き出した細い穴」

僕の歌うような語り口に、エトワールは少し笑って身体を揺らした。

「気持ち悪い」
「だろうね。妄想だから」
「あたしに跡を残してくれる?」
「どういう意味?」
「あたしに忘れられたくないなら、あたしにも跡を残すでしょう」
「ああ……そうだね。どんな跡がいい? 僕は君にとってどんな記憶だい?」

エトワールの乾いた笑い声が、薄暗がりに浮かんで消えた。
笑い続ける。
切れ切れに擦れた、浅ましい笑い声。
彼女は美しい。穢れなき無垢な少女である。ただ、彼女は不幸な生い立ちのうちに常人としての思想を失い、言動は尋常ならざる狂人へと変貌してしまった。

「貴方はどうしたい?」
「聞きたい?」

僕はエトワールを床に下ろし、絡まった髪の毛に指を通した。その手で彼女の首をなぞる。

「君の首に僕の名前を」

爪で、自分の名前を書いた。僕には、彼女の肌に美しい赤色で僕の名前が浮き上がる様が想像できた。それがなんとも愛しくて、その幻の赤にくちづけした。

「この部屋の壁に、赤いペンキで"愛"と書く。大きく、壁いっぱいに。
それから、君に足枷をつけるよ。その鎖の先には僕の足枷だ。僕達は永遠に繋がれたまま。この"愛の部屋"からは出られない。そのまま飲まず食わずで、眠らないで、愛し合い続けるんだ。
とうとう、死ぬと思ったら、お互いにナイフで刺しながら最後のキスをする」

月に、彼女の声のように細く途切れた雲がかかった。
僕は彼女の桃色の唇にキスした。

「素敵」


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