恋の胎教



ざあざあ降りの雨が止まなくて、僕は非常にナーバスになって歩いていた。
雨が降ると、なんとなく次の瞬間には嫌なことが起こっていそうな気がする。いや、気がするだけではなくて、雨の日には僕にとってショッキングな出来事が様々に起こり得るからそう思うのだ。とても、頻繁に。
ランドセルを背負った小さな子供の頃は、雨降りも楽しかった。
僕にとって雨が不吉な存在に変わったのは、彼女と出会ってからだ。
僕は黒いこうもり傘を閉じて、その家の玄関のチャイムを押した。しばらく待っても誰も出ない。僕は引き戸の取っ手に手をかけてガラリと引いた。

「お邪魔しまーす……」

例の如く彼女の家には誰もいなかった。この家に住んでいるのは彼女と彼女の父と年老いた使用人の女がひとりで、母は彼女が小さい頃に他の男と出て行ってしまった。父は金持ちだが愛情のない人で、使用人も無愛想な老婆であった。僕は勝手にあがってトントンと階段を上がって行った。誰も気付きはしないし、気付いたところで怒りもしない。

「孝平さん?」

登りきったところで奥の部屋から声がした。細くて澄んだ彼女の綺麗な声は、まだ外気に触れたことのないような清らかさがあった。

「そうだよ」

このあたりではまだ珍しい洋風の作りで、彼女の部屋も洋室だった。近付いていくと、オルゴールの音色が、ドアの向こうから漏れてくる。
ベッドには天蓋がついていて、彼女はそのベッドにたくさんのぬいぐるみとクッションを置いて、それらに囲まれるようにして息をしている。
ドアを開けると、彼女はいつものようにベッドの真ん中で、ぬいぐるみに囲まれて、裸の身体に薄い布団を一枚かぶって、膝を抱え込むように寝転がっていた。

「今日の学校の連絡を持ってきたよ」
「ありがとう。机の上に置いておいて」
「いつからそうしてるの?」
「まだそんなに経ってないわ」
「いつからそんなに経ってないって?」
「雨が降り出してから」

僕は椅子を引いて座り、机の目の前にある窓から、鉛色の空を見上げた。机の上に置かれたオルゴールが、だんだんゆっくりになって、止まる。

「ネジを巻いて」
「たまには動かないと、身体に悪いよ」

僕はそう言いながらオルゴールのネジを巻いた。また、悲しげな旋律が紡がれ始める。
彼女の方を見ると、彼女は自分の長い綺麗な髪の毛に指を通して、ふわり、ふわりとその細い髪の毛の一本一本が顔に落ちてくるのを感じていた。

「爪が伸びているよ。切ってあげようか」

僕が立ち上がるや否や、彼女は「いいわ」と拒否した。そして、読み上げるように淡々と、

「どうして爪が伸びるのかしら。どうして髪が伸びるのかしら」

と呟いて、のそりと起き上がって、

「どうしてあなたを好きだなんて思うのかしら」

僕の方を見た。まるでまだ何も見えていないような瞳で。
雨の日のざあざあという音は、胎児が胎内で聞いている音に似ているらしい。
彼女の素肌は17年間きっかり空気にさらされていて、彼女は億兆の言葉を発することが出来る。その事実を憎らしく噛み締めるように、彼女は真っ白い歯をギリリと噛み締めた。

「それは僕が君を好きだからじゃないか」
「私、この世界が嫌い。でもあなたが好き。変よ」

僕はクッションとぬいぐるみをけり落としてベッドに膝をついた。

「変じゃないさ」

明日晴れれば、彼女はワンピースを着て、かろうじて机に座っていて、たわいもない話をするだろう。
でも、

「一緒に死にましょう」

今日は雨だ。

「生まれ変わるの。また生まれるの……あなたと手を繋いで胎動を聴きたい」
「そうしたら恋人になれないよ?」
「この世界のことなんて知らないわ」

17歳の胎児は微笑んだ。

「んー……じゃあ、明日死のうか」

雨の日のざあざあという音は、胎児が胎内で聞いている音に似ているらしい。
雨が降ると、なんとなく次の瞬間には嫌なことが起こっていそうな気がする。


明日晴れなかったら。いや、そんなことを考えるのはやめにしよう。


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