ボロ雑巾みたいになっている沙織は思ったより重かった。
昔は毎日のように痩せたいと言いながら、考えられないような時間帯に甘いものを摂取していた。
今はあの頃よりもっと痩せているのに、彼女も人一人分の重さは持っているんだな、と思うと不思議なかんじがした。
それと同時に、まだ沙織がここにいることを実感できて、私はどこか安心したような切ないような気分になっていた。
耳元で流れている、さっきまで乱れていた呼吸が穏やかに変わる。生え際から5センチぐらいは真っ黒の髪が伸びている、アッシュブラウンに染めた長い髪の毛が頬にふんわりと当たる感覚も、一定のリズムを刻む呼吸と、鼓動、それから背中を覆う体温も心地よかった。
でも、きっともうしばらく歩いたら疲れるのでバスに乗ろうと思う。疲れさえ来なければ、このまま彼女をおぶってどこまででも歩き続けたいけれど。


私たちのあいだに、こんなに平和に寄り添い合える瞬間がどれだけ長い間なかったことかと考えると恐ろしい。
そもそも私たちは一緒に生活していていいのだろうか。だいぶ、喧嘩が多い。私はそもそも沙織を包容できる器の人間じゃない。
いつも自分の利益のことばかり考えてきた。恥ずかしくない経歴が欲しくて、人に自慢できる功績が欲しくて、そのためなら他人を蹴落とすことぐらい容易で。そんな性格と根っからの負けず嫌いのおかげで、名門大学を出て一流企業に就職することができたのだけれど、そういう面での成長は、自分でも期待できない。人をどう思いやればいいのか、献身とはなんなのか。私には分からない。
沙織は私と対極に存在する人間だった。芯から完全に脆く、少しつついたら簡単に崩れる性質で、本当のところ、私はそういうタイプの女が大の苦手だった。沙織は高校時代の恋人に薬漬けにされ、厚生施設を出てきたばかり。他人の心や他人の目ばかり気にしすぎて、断ったり自分の意見を口に出すのが極端に苦手な所為で、そんなことになってしまったのだ。施設を出てからも変な行動が多くて、何だろうと思って病院に連れて行くと、鬱病だった。精神的にやたらとタフというか、無責任な私の目には、まるで狂ってるようにしか見えなかった。
私がもっとも苦手とする面倒くさい女とどうして知り合ったのかといえば、高校の先輩後輩の関係であり、しかも遠い親戚同士だったというだけのことだ。私のほうが一学年上で、彼女は私の父の姉の旦那の姪。血は繋がっていないし、親戚と呼べるかどうかも微妙なところだが、歳が近いというだけの理由で、おせっかいなうちの両親が私と沙織を引き合わせた。孤独な彼女には、たったひとりでも友達が必要なんだと説得されて。
私はそんな善人みたいなことは面倒くさくてしたくなかったのだが、表向き社交的な性格が親戚一同に期待されてしまって、ここで落胆されても困ると思って沙織には出来る限り優しく接した。すると彼女はいとも簡単に心を開き、私に懐いた。聞けば、高校時代から憧れの存在だったらしい。どうりで、初対面のときから目を輝かせていたはずだ。私は学生時代は生徒会なりなんなりでやたらと顔が知れていたので、そんな後輩がいてもおかしくなかったし、私はこの性格なので、そう言われてまんざらでもなく、沙織に好意を抱くようになった。


そんな経緯や繋がりが、なんだ。性的趣向の一致が、なんだ。
全て私と沙織が付き合い、同棲するには不十分すぎる理由だった。
私が、そんな彼女の療養のために田舎まで一緒についていき、せっかく手につけた職までかなぐり捨てた意味って、何なんだ。
精神的に元気でない彼女に、普通のテンションで喧嘩をふっかける私の精神もちょっとだけ可笑しいのではないかと思う。でも、そんな疑問と自分に対する苛立ちで、私はどうしようもなくなっていた。
今までずっと賢く生きていた。道徳や人情よりも、自身の成功と外面を最優先して要領よく歩んできた。そんな私を、沙織を含め誰しもが羨み、羨望のまなざしを向けたはずじゃなかったのか。
それならどうして、私は今こんな重たい鬱女をおぶっていることなんかに幸せを感じたりしているのだろうか。こんな馬鹿な真似をしているのは、どうしてなのか。自分でも分からない。
仕事がないからお金もない。二人で一緒に作った小さな畑の世話も、近頃じゃ沙織がまったく動けないから私がひとりでやっていて、味気ない。腹が立つ。何、のん気なことしてるんだって思う。余生かよ、と叫んでニンジンを投げつけたら泣かれた。あれは私が悪かった。
それでもたまに沙織が笑っていると嬉しくて嬉しくて、天国みたいで、泣き疲れて私の膝で寝てしまう沙織はまるで天使みたいに見えた。沙織が引きこもりがちになると私も苛立って、馬鹿な言い合いをするのだけれど、というか、無気力状態の沙織は言い返してこないから私が一方的に何かわめいているだけなのだけれど、それを除いたほんの少しの平和な時間が幸せすぎた。
こんな感覚は私の今までの人生に一度もないことで、どうしたらいいか分からなくて、戸惑って、自分自身が沙織に特別な感情を抱いて、心のそこから愛していることにすら納得できないでいた。


それが今、こうしてただおぶって歩いているだけで、妙に納得してしまって、困る。
ことあるごとに怒りをぶつけ、沙織に完全に怖がられていた。でも、今の彼女は私に全体重を預けて、命まで預けてそこにただ存在している。ここ最近感じていた、消えてしまいそうな不安感はどこにもない。
真冬なのに、パジャマにカーディガン一枚はおって、裸足で、夜中にどうして外へ出て行ったのだろう。泣き叫びながら歩いているのを村の住民に目撃されていた。私はよく知らないのだけれど、鬱病の人はたまにこういうことをやるらしい。
私が沙織を発見したときは、彼女は田んぼ道に死体みたいに転がっていた。ずいぶん気味が悪くて、死んでいるのかと思って心臓が止まりそうなぐらいびっくりした。でも、はっきりと、生きててよかった、という喜びを感じて、私はこの人のことが好きなんだなと分かった。普段の生活では、そんな単純な肯定すらできなかった。
ベンチのあるバス停を発見した。そこで私はやっと、こんな時間にバスが来るはずもなければ、ここは東京ではないので朝が来てもそんなに多くのバスが来るわけではないことを思い出した。
なんだか笑えた。ずいぶん歩いた所為で、コートを沙織に貸してしまっていても、私の身体は暖かかった。私は沙織をそっとベンチに寝かせ、着ていたパーカーまで脱いで枕にした。汗が冷たい夜風に吹かれて、流石に寒い。
私は車も人も通らない道路をぐるぐる歩き回っていた。沙織は背から降ろされた衝撃にも全く起きる気配がなく、まだ爆睡している。昨日までなら苛立っていたところだが、今の私には滑稽にしか見えなかった。
沙織が寝ている。バス停のベンチで。私はありえないぐらい薄着で意味もなく歩き回っている。満天の星空が綺麗で、なんだかでかい声を出したい。でも、沙織が寝ている。だから我慢して、私は空を見上げたままクルクル回る。
馬鹿だ。
生まれてから一番馬鹿なことをしているかもしれない。もう諦めよう、賢い生き方は。利口な生き方は。
あんなもの、何が面白いんだろう。きっと私が馬鹿になったら、沙織の鬱も治るに違いない。一緒に馬鹿をやって暮らせばいい。心配ない、沙織は十分既に馬鹿だと思う。彼女は利口に生きられないことをいつも嘆いていたが、嘆く必要なんてどこにもない。
開けた大地の向こう側に、一筋キラリと光った。
白い光が、ほんの少し顔を出していた。
私は静かに沙織に歩み寄り、彼女の寝顔を見下ろす。ふと、彼女は静かに目を開けた。驚くほど冷静に私の目を見て、起き上がり、振り返って大地の向こう側を見た。
「日の出だよ」
私がそう言うと、急に沙織はわっと泣き出した。私はパーカーを着ながら彼女の横に腰を降ろし、沙織の顔を見て笑った。こんな馬鹿みたいな状況なのによく泣けるなーと思った。
沙織の肩を抱きながら、私はもう一度日の出を振り返る。空が薄紫色に染まってきていた。最高に幸せな朝が来て、最高に幸せな人生が始まった色だ。

(2012/11/12)

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