「犬が出てくるのよ、犬」
「犬?」
「そう。あと、妖精」
彼女は酷く地味な表紙の絵本を持ってきた。
全面が茶色で塗りつぶされており、その中心に子犬がポツンと描かれている。背景の茶色と全く同じ色の子犬。
それは、今年から社会人になり、保育園で働き始めた彼女が園児に読んでとせがまれた絵本だった。彼女はそれと同じものを図書館の幼児向けのコーナーで見つけ出してきた。その一角は親子ばかり。テーブルで膝を突き合わせて座る、ジーパンにパーカー姿の若い彼女と高校の制服の僕は、びっくりするほど浮いていた。
「暗そう」
「暗いわよ」
「恵ちゃんが好きそう」
「好きよ」
恵は答えて、笑った。笑いながら僕に絵本を手渡す。
僕は絵をしっかり見ることはなくパラパラとそれを読んだ。
「面白いと思わない?」
「いや、あんまり」
僕は正直に答える。恵は「なんでよー」と苦笑し、
「感覚と思考が宇宙なのよ」
と、哲学めいたことを囁いた。よくこんな、薄っぺらな絵本ごときでそこまで言い切れる。
「うちのクラスに色弱の子がいるわ。あの子は人間の肌は緑色だと思ってる。でもそれって、私が人間の肌は肌色だって思ってるのと、同じことでしょ。うわ、肌色って言葉、高慢ちきね」
「恵ちゃん、僕にはこの絵本の真意がそこまでよく分からなかった」
「あ、そう。じゃあ自己流の解釈でいいなら話してあげる」
絵本の主人公はセピアという名前の犬、実際の犬がそうであるように、彼もまた色彩を人間のように認識することはできない。彼の視界はセピアに染まっていた。しかしある日、彼の元に妖精が現われて、彼の目に色彩を与える。セピアは妖精が世界を塗り替えたと勘違いして喜ぶが、結局は自分の目が変わっただけなのだと、あとになって気付く、という話だ。山もオチもない。感動もない。ただ、そうだなあ、と思うだけの作品のように、僕には思えた。
彼女は絵本を開いて僕に見せながら話を始めた。
「誰だって目で見れば信じるでしょ。でも目で見えるものは完全に正しいって、信じきっちゃうでしょ。敦くん、イデア論は知ってる?」
「世界史でちょこっとやった」
「人間は所詮自分が見聞きしたものの記憶で作られた、自分の中のイデアの世界に生きてるだけなのよ。だからそれは人によって違ってる。犬は世界に色がついてるなんて思ってないし、色弱の幼児は世界の大半の人間が人の肌、黄色人種の肌の色を、薄橙色だと思ってることをまだ知らないから、人の肌を緑だと信じて疑わない。自分が犬と違うことは分かるだろうけど、私と敦くんのイデアだって全く違っているかもしれないのよ、いいえ、全く違っているのよ」
「そんなの断言できない」
僕が言い切る前に、恵は反論を重ねた。
「なら違わないとも断言できない。大勢がやっているものの見方は、多数派であることは確かだけれど正解だとは限らないわ。この机が薄い茶色をしていることだって、この床が絨毯で柔らかいことだって、今あなたと私がここに存在してることだって、誰にも断言はできないんだから」
「怖いな」
僕が笑うと、彼女も笑い、絵本を閉じてその表紙を眺めた。
「怖いけど、私はいっそのこと、何も存在していないんだと思ってる」
「え?」
「だって世界を見て、聞いて、感じられるのは、生き物だけじゃない。私が他人や、生物ではない、無みたいな視点から世界を見ることはできないでしょ? 自分の感覚が全て幻想だとしても、それが全てだから誰も疑わない。そういうことよ。感覚と思考が宇宙っていうのは。ホントは何一つ、存在してないの。でもね、命の数だけ世界があって、それは全部違う形をしていて、でも、誰かと必ず重なり合ってるのよ」
彼女は僕のほうに視線をあげて微笑む。難しいことを言っていたのに、その瞳が少女のようで、僕は驚いた。
「ね、素敵だと思わない?」
恵は僕の手をとった。一連の話の所為か、その感覚はまるで夢見心地だった。
「私の世界とあなたの世界、ここで重なり合って調和している部分が多少なりともあるのよ。完全に一致はできないけど。私の幻想の中に、あなたがいるもの」
「僕の幻想にも恵ちゃんがいる」
「それを昔から、運命って呼んでるのね、きっと」
恵は僕にとって、幼馴染である同級生の姉で、ずっと前から知っていたし、僕はずっと彼女のことが好きだったし、この出会いを運命だなんて思ったことはなかった。
当たり前に、いつもそこにいたから。
「この本からそこまで読み取って、さらに僕を口説ける恵ちゃんがすごいよ」
「あら、ありがと」
恵は肩をすくめて僕に微笑み、立ち上がって絵本を元の場所に戻しに行った。僕は両手いっぱいに本を広げて読む幼児にふと目をやった。小さな絵本が巨大に見える。彼の目線の先には大人の膝がある。
なるほど、簡単なことだ。
「どこもかしこもイデアだらけだ……」
僕が呟くと、恵は「アハハ」と屈託なく笑い、「お茶しましょ」と言った。立ち上がった僕の手を握って、歩き出す。この手の感触も、目の前に揺れる栗色の豊かなロングヘアも幻想だと言う彼女は少し酷だけれど、彼女が実際に僕に伝えたかったことは、それではないと思う。要は常識と偏見にとらわれたつまらない大人になるなよ、ということだろう。その話なら何度も彼女に聞かされている。でも、今日の言い方はぐっときた。
個々が持つ全く別の世界、それなのに君がここにいる。僕は君の手を握っていると、イデアに騙されている。


*作中に登場する絵本「セピア」は私が小学5年生の頃に、図画工作の授業で実際に書いた絵本。学年全員の作品がデパートに展示される催しがあり、ある女性からその絵本に感動したというお手紙をいただいたが、いまだ彼女の所在と個人情報は不明。是非お会いしたい所存。


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