身体が重い。
それでも、足を進めずにはいられなかった。立ち止まれば、振り返れば、たちまちあの悪夢のような日々が後ろから襲ってきて、取り込まれてしまう。そんな気さえしていた。
どこか、誰も知らないところへひとりきりで逃げよう。今は頭にそれしかなかった。それ以外のことを考えようものなら、壊れてしまいそうだ。
罪を犯したわけでもないのに、全財産を持って、できるだけ小さくまとめた荷物をかついで、ただただ遠くへ行こうと電車を乗りついだ。このまま空港まで行って、本州を離れよう。そうしたらもう、この禍々しい記憶に触れてくる輩もいないはずだ。
東京は呪われているに違いない。あまりにも、血塗られた事件ばかり起こりすぎだ。一刻も早く、ここを離れたい。
もう、守るべき、愛する者たちの為に戦うことにも疲れた。何が正義だ、何が革命だ。生きていれば全てつきまとう。決して、誰もひとりでは生きていけないのだろう。そんなことは知っている、それでも、もう無理だと言いたい。多くを愛しすぎた。多くを、失いすぎた。
思えば数ヶ月前には、両手に溢れるほど大切なものがあった。かけがえのない家族がいて、仲間がいた。欲しいものはいくらでもあったし、世界を変えたいと大それた欲望を抱いてはいた。しかし、それと同時に、このうえなく満ち足りていたと言っても、過言ではない。
空いた電車に揺られて、窓の外を流れる景色を眺めながら、あの日々のことをひとつひとつ、噛み締めるように思い出した。それは遠くにぼやけた、幻のように感じられる。今では全て、この手から零れ落ちてしまった栄光だ。それまで当たり前だと思っていた存在が、今は当然のように、どこにもない。どこを探しても、見つからない。名前を呼んでも、答えない。この痛みは、独りきりになってしまえば、いずれ治まるだろう。まして、繰り返すことはないだろう。
俺はもう、失う痛みに耐えられない。だから、お前を捨てて、独りになる。
どうか、誰か違う奴と、幸せになってくれ。
ごめんな、深雪。




死神の時代




俺の悪夢の数ヶ月を語るうえで、まずこの男について話しておこうと思う。
義兄の坂上理一。
義兄と言っても、俺は養子で、理一とは学校の同級生でもあったわけだから、誕生日がほんの少し彼のほうが早いというだけだが。
昔から少し変わった奴だった。表面上、アイノコへの差別はなくなったなどと言われていたが、俺の小さい頃なんかはまだ普通にあった。俺は身体がデカくて喧嘩っ早かったからガキ大将で、いじめられたりはしなかったが、理一は典型的なアイノコらしい少女のようななよっちい体格で、顔に大きな赤痣があった。人間からはもちろんのこと、クラスにいた少数のアイノコたちさえも彼を理不尽にいじめていた。俺は当時、不正が許せない単細胞で怒りっぽい性格だったため、その事実に大いに怒り、いじめっ子をまとめてコテンパンにした。根暗っぽくて、無口で本ばかり読んでいた少年は俺に、「いつかこの借りは絶対に返す」と言った。俺は馬鹿だったからなんのことやら分からなかったけれど、あの当時既に「借り」なんて言葉を知っていた理一は、本当に賢かったのだと思う。その一件からちぐはぐな俺たちは親友になった。そんな友情が長続きするはずもなかったろうに、と今では思うが、これは案外、大人になるまで続いていたのだから驚きだ。
それで、何故そのいじめられっこのクラスメイトが俺の義兄になったかと言うと、単刀直入に、俺の両親が殺されたからだ。
時代は昔とはまったく変わった。俺の両親は、ふたりともアイノコだ。俺は人間と亡霊のハーフではない。そんな家庭が世間にゴロゴロ存在するようになり、昔に比べてアイノコの数はだいぶ増えたという。これが芳しくない事実であることは確かだが、アイノコに人権が与えられ、自由が与えられた現代では、仕方ないことではある。
そこに存在しているものは仕方ない、その考え方が出来ればいいのだが、人間とは、異質なものを排除したがる生き物だ。当然、アイノコの増加に嫌悪感を示す人間も出てくる。嫌悪感だけなら良いのだが、数十年前から、“アイノコ狩り”と呼ばれるアイノコを虐殺するカルト集団が結成していた。彼らは特に、結婚して子供をもうけたアイノコの夫婦を狙って殺す。逮捕された者も多くいるが、いまだ犯行は後を絶たない。
俺の両親もそれによって殺された。俺が8歳の時だ。
身寄りがなくなった俺を助けてくれたのは、理一の両親だった。経済的にかなりの余裕があったのだろうが、それだけでなく、かねてから俺が息子をいじめっこから助けてくれたことを聞いていたのだと思う。彼らは俺を快く迎え入れてくれ、実の息子同様に可愛がってくれた。お陰で俺は幼少の心の傷も癒えて、すぐに明るく生活できるようになった。これだけでも、じゅうぶん理一は俺への借りを返してくれたと、俺は思っていた。しかし、彼はそんなことでは済まさないと考えていたらしい。
理一の話に戻るが、彼は学校で苛められることがなくなると、俺の前でどんどん本性を現し始めた。彼は非常に勉強が出来て、頭の回転が速いのだが、そのぶん口も上手いので、口喧嘩では勝てたことがなかった。しかし、その口の上手さに加えて横柄かつ他人にも自分にもすこぶる厳しい性格のせいで、とんだ毒舌だった。当時ガキ大将だった俺ですら、本性モードの理一にああだこうだ言われていると泣きそうになるぐらいだった。それでも仲良くしていたのは、彼の根の優しさと臆病さを知っていたので、別にそんなに怖いことはないと思っていたからであろう。
彼の優しい一面を垣間見られるのは、彼が妹といるときぐらいだった。俺が坂上家に引き取られた少し後に、彼には妹が生まれた。名前は涼子。8つも離れた妹が可愛くて仕方がなかったのか、いつもは無表情な理一が、間の抜けたデレデレ顔を見せていた。
毒舌とシスターコンプレックスの強烈な二面性を保ったまま、理一は凍りつくような美貌の青年に成長した。幼い頃の“少女”の面影を残酷に残したその顔に、醜い赤痣が大きく広がる様は、このうえない哀愁を漂わせた。その赤痣がある顔の右半分は、髪を伸ばして隠していた。
俺たちが20歳になったときは、既に二人とも霊媒師として働いていた。理一の父親は剣術に長けており、俺たちはその点に関しては英才教育を受けて育ったので、まだまだ若造とは言えど、腕には覚えがあった。
俺の人生に、二度目の悲劇が起こるのは、ちょうどこの頃のことである。
理一は仕事で、俺はたまの休日で遊びに出ており、涼子はその日学校があって、家にいたのは理一の両親だけだった。
もうだいたい想像がつくだろうが、その間に、家にアイノコ狩りが襲撃、ふたりは、惨殺された。一番最初に家に帰って来た理一はその惨状をもろに目の当たりにしてしまい、深いショックを受け、以後も長い間、繰り返し見る悪夢などの症状に苦しんでいた。体調も優れず弱りきって、仕事も休業した。
これが、俺の義兄、坂上理一の身の上話である。
俺を恐ろしい世界に引き込んだのは、彼だと言っても過言ではない。それでもあの頃の俺には、聡明であるのに不遇なこの親友に、ただただついて行く道を選ぶほかなかった。
理一と涼子の両親が殺されてから半年ほど過ぎたある日、眠れないという彼に付き合って昼過ぎまで起きていたときのことだ。
リビングのソファで、まばたきをする以外は微動だにせず座っていた理一が、急に目からぼろぼろと涙をこぼし始めた。彼が泣いているのを見たのは、いじめられっ子だった頃以来だった。俺は心底驚いて、どうしようもなくなって、ただ横に座って呆然と頬を伝う涙を見ていた。
「情けない、俺が直接何をされたわけでもないのに、食えないし、眠れないし、俺まで死にそうになってる。なんでだ、こんなに弱いままで死ぬのは嫌だ」
「死にゃしないさ……泣くなよ」
「俺なんかどうだっていいんだ、でも父さんと母さんのために何もできないまま死ぬわけにはいかない! ……お前と涼子に迷惑ばっかりかけて……こんなの生きてる意味ないだろ!」
子供のように嗚咽を漏らして泣き喚く親友の姿に、俺の心臓は何故だか縮み上がっていた。
「俺はなんとも思ってない。お前の力になるよ。父さんと母さんのために何かやってなきゃ辛いなら、なんだって手伝う。だから俺たちに今できることをやろう、きっとそれが俺たちをこの絶望から救ってくれるはずだ、3人でもまた幸せな家族になれる。そのためならなんだってするよ、俺」
「本当か?」
「おう」
「お前に助けられてばっかりだな」
「あたりめーだろ、何度だって助けてやるよ、俺たち親友なんだから」
「いつかこの借りは絶対に返す。俺がこの無慈悲な世の中を変えてやる」
「ははっ、いつかこの借りは〜って前にも一回聞いたことあるな。いいよそんなの、気にしなくて」
3人だけになってしまったけれど、家族でまた笑える日が来ること。それだけが俺の望みだった。
「やってやろうぜ」
俺は理一の手を握った。しっかりと握り返してくる感覚と同時に、泣き顔の親友がかすかに笑うのを見た。
家族の幸せ。
そんな些細な目標のために、巨大な改革が必要だというのなら、俺は理一の望むこと全てを叶えようと決心した。そしてそれは、今でも、間違った判断ではなかったと思う。この世の中は、変わるべきだった。誰かが革命の旗を掲げなければならなかったのだ。誰もが恐れて、手に取ろうとしなかったその旗を。
彼は、その旗を握った男だった。

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