水たまりに光が反射して雲が流れた。雨上がりの空気は澄んでいて気持ち良い。私は息を大きく吸った。身体中に綺麗な空気が満ちていく気がした。 そうちゃんはさっきからずっと、目を細めて田の方を見ていた。緑色がどこまでも広がる中をたくさんの人が行きかっている。濃い緑の匂いは心まで爽やかにしてくれる気がした。
「ねぇ、咲。何をしているの」
尋ねられたそばから私は、うん、と生返事をする。水たまりから目を離せなかった。昨日まで続いた大雨のせいか一匹のゲンゴロウがいたのだ。川に帰してあげなくては。そう思うけど、ふと今朝方の母上様の言葉を思い出した。雨で川の水が溢れているから近寄ってはなりません。言葉を守るのならば、ゲンゴロウを帰しにいってはいけなかった。帰すということは母上様の言いつけを破ることになる。本当は言いつけを守るべきなのだ。 だけど私が何もしなかったら、このゲンゴロウはどうなるのだろう。そう思うと動くことができなくなってしまった。言いつけを破ることはできないのに見捨てることもできない。そうして私は進退窮まってただ見ているだけだった。
「あ、ゲンゴロウ」
いつの間にか隣にそうちゃんがしゃがみこんでいた。相変わらず平坦な、いつもどおりの声音だった。そうちゃんは昔から、今よりうんと昔から感情を表に出すことが少ない。淡々と物を話すのだ。宗次郎さんは居候だから遠慮しているのよ。そう、母上様は言った。菜箸で鍋をかき混ぜながら言った母上様の横顔は、少し悲しそうだった。イソウロウというのが正直なんなのかわからないけど、良いことではないらしい。でないと、いつも厳しい母上様があんなに悲しそうなわけがわからない。
そうちゃんのご両親はずっと昔に亡くなっている。物心ついた頃からそうちゃんの傍にいる私ですらお会いしたことがない。そうちゃんは一番上の姉上様に育てられた。おミツ姉様はとてもお優しい方だ。そうちゃんはそれはそれは可愛がられているし、お姉様は私にも優しい。遊びに行くといつもおやつに蒸かした芋なんかを出して下さる。 けれどそうちゃんちはそのおミツ姉様がお婿様を取って相続している。そうちゃんは長男だけど嫡男ではない。だからイソウロウなのだ。
「咲」 「うん?」
考え込んでいたせいで少し反応が遅れた私を、そうちゃんはじっと見据えた。そうちゃんに見つめられると心の臓が跳ね上がる。大きな鼓動を悟られまいと、私は唇を噛んで誤魔化すために微笑んだ。 そうちゃんはやがてすっと視線を外すとゲンゴロウを指差した。
「こいつ、川に放してあげようか」 「…え?」
思わず目を見開いた。そうちゃんは手のひらを広げてゲンゴロウを掬いあげようとしている。 慌てて手を伸ばす。そうちゃんの腕を掴んでいた。そうちゃんは不快そうに眉を顰め、抗議するみたいな顔をした。
「なに?」 「えっ、だって。川の傍は危ないから近寄っちゃだめだって、母上様が…」 「そう言われたの?」 「うん。それに、武家の子が、」
武家の子があまり川やらで泥まみれになるものじゃありません。母上様の厳しい口調を真似して言った。私にとって楽しいことは全て、母上様にとってはあまり好ましいものではないみたいだ。私が着物を汚して帰ってきた日なんて苦虫を噛み潰したみたいな顔をしている。
そうちゃんは私を見つめて、やがて盛大にため息を吐いた。何だか呆れているみたいだった。
「でも咲、ここでゲンゴロウを放っておいたら、君は後悔するでしょ。夜も眠れなくなって、明日泣きはらした顔するでしょ」 「そ、それは…」 「だから川に帰してあげよう」 「でも!」 「僕が帰せば問題ないよ」
顔を上げた私を、そうちゃんは無表情で見ていた。そうちゃんが?と口の中で問いかける。そうちゃんは虫や動物がそんなに好きではない。触れないことはないけれど、同い年の他の男の子みたいに捕まえて遊ぶようなところはないのだ。そのそうちゃんがゲンゴロウを川に放してあげるなんて。しかも私の代わりに。
「そんなことしたら、そうちゃん、」 「僕は駄目だなんて言われてないしね。だから咲は安全なところから見ていなよ」
そうちゃんは僅かに寂しそう顔をして言った。ハッとした。そうちゃんは注意してくれるような人がいないのだ。姉上様はお忙しくて、そうちゃんにばかり構っていられない。 私は考えなしだ。いつも何も考えないで行動してしまう。どうしよう、そうちゃん傷つけちゃったらどうしよう。そうちゃんは無表情であまり話さなくて怖がってる子も多いけど、私はちゃんと知っている。そうちゃんはとても優しい人だ。私は昔から誰よりもそうちゃんが好きなのに、そのそうちゃんを傷つけてしまったら。
「そうちゃん、あのね、」 「何してるの?早く行こう」 「え?」
いつの間にかそうちゃんはゲンゴロウを掬い上げていた。手のひらの中でゲンゴロウは水に浮かんでいた。そうちゃんの手は私より少し小さい。身長はさほど変わらないが、手だけは一回りほど小さい。そうちゃんはそのことを気にしているから、絶対言わないけど。
「僕が帰せば問題ないよ。ゲンゴロウ喜ぶ」 「そうちゃん…」 「それに、咲も喜ぶでしょ」
何気なくそう言った彼の顔を、私は驚いて見つめた。そうちゃんの翡翠色の瞳はきらきらして綺麗だった。 一拍おいて、うん、と返事をした。声が上ずったのは、多分嬉しかったからだ。
「ありがとう、そうちゃん!」 「どういたしまして。行こう」 「うん!」
笑顔でそうちゃんの隣に並ぶ。太陽の光に照らされて、ゲンゴロウが浮かんだ水面も輝いていた。
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