困らせると解っているから、私は想いを言葉にしなかった。 彼の姿を見かけても、全てを押し殺して知らないふりをした。 蓋をして、何てことのないと自分に言い聞かせ、拳を握りしめた。 だというのに、どうして彼の声一つで努力は水の泡になってしまうのだろう。
「咲ちゃん」
名前を呼ばれ、足を止めた。 心臓が大げさなほど跳ねて、脈拍は速くなっていく。 無意識のうちに唇を噛みしめていた。
「ねぇ、咲ちゃん」
先ほどよりも身近に聴こえるのは気のせいではない。 背中が熱い、右側の背中。 彼が近づいているのだと知っているから、神経がそちらに集まってしまっている。 ふいに肩に手がのる。 驚いて振り返ると、予想通り彼が立っていた。 少しだけ不機嫌そうに皺を寄せて、口元に弧を描いた彼が。
「どうして無視するわけ?」 「…、無視なんかしてま、」 「してたでしょ。僕に気付いていたくせに」
私の否定の言葉を、沖田さんは軽々と消してしまう。 翡翠色の瞳が私を真っすぐ見据えている。 気づいてしまえば抗えない。 とらわれる、つかまる、逃げられないよう包囲される。 一気に上昇する身体中の熱が、瞳を潤す涙が教える。
ああ、だから嫌だった。 彼を避けていたのに。
「どうして僕から逃げようとしているの?」 「それは…」 「ねぇ、なんで?」
壁に追い込まれた私は、逃げる術がない。 長身の沖田さんは腕を伸ばし、背後の壁につく。 両腕が私を囲んで、彼の顔がすぐ目の前にある。 視線を合わせることなんてとても出来なくて、私は思わず俯いた。
「咲ちゃん」
零すような、熱を含んだ声だった。 ずるい。 この期に及んで優しく呼ぶなんて。 だから私は諦めきれないんだと、知っているのだろうか。
沖田さんは常に戦いの最中にある。 命を懸けて日々を過ごし、生きている。 敬愛する近藤さんのためならば、新選組のためならば命なんか惜しくはないと、言い放つ人。
好きになりたくなかった。 私だけを見て、いっぱいいっぱい私で満ちて、静かに平穏に愛してくれる人を求めていた。 なのに、好きになってしまった。 想いに蓋をした。 ただの町娘の私は彼の心に入らないと、彼の心の枷にしかならないと、何より残されることになったら耐えられないと、思ったから。 賢い選択だったはずだ。それ、なのに。 「顔を上げてよ」 耳元で沖田さんが囁くから、胸がざわめく。寄せては返すさざ波のように。 お願いだから乱さないで。 私の心を、私ですら解らないところへ連れて行かないで。 私は強くない。弱い人間。だから、耐えられない。 あなたを失った時のことを考えると足が竦みそうなのに。 「僕のこと、好きなんでしょ」 疑問ではなく、確信の籠った断言だった。 それなのに逃げることすら許さない沖田さんは、本当にずるい。 何もかも見透かすような翡翠の瞳には、熱情が浮かんでいる。 慈しみ愛する優しいその視線で、私の身体は震えてしまう。 彼の細く長い指が、ゆっくりと私の唇を撫でる。 指は一文字を描き、その後に中央で止まって強く押した。 「好き?」 たった二文字の言葉なのに、それには全てが詰まっていた。 視線と視線が絡み合う。 気づけば私は頷いていた。 「好き、です」 私の返事を聞くと、沖田さんはそっかと微笑んだ。 そして彼は指の代わりに唇を寄せる。 柔らかく温かい感触が、好きだという想いを溢れさせて止まらない。 どうしてだろう。好きになんか、なりたくなかったのに。 それなのに好きになってしまった私は、きっとものすごい大馬鹿者だ。 なによりも唇を重ねた事実を嬉しいと思ってしまった。 きっと、私は捕えられ続ける。 例え一人ぼっちになってしまっても、沖田さん、彼だけに。 fin. Title/378
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