理性と本能の狭間
※22歳(無職)だった頃のヴィルヘルムと、女の子の話。
※一応夢小説です。名前変換はありません。
真っ赤な月の夢をみた。1927年の、ある母子の破綻と完成。
どうやらあなたは、ずっとそこにいた。
【1939年6月/けだもの】
まるで人間みたいな夢をみるのねと、言ってみればどうなるだろうか。
もうすっかり日が空の真ん中に昇りきった白昼に、太陽光を極力遮断した狭い部屋。ちいさな巣穴じみたそこで、細い長身の男が死んだように眠っている。硬いベッドの上で、癖なのか、どこか窮屈そうに背を丸め膝を折って頭を抱えるようにして、ほんの微かな寝息をたてる。
死んだように、とは言っても、もし何か異変を察知すれば、この男はすぐに目を覚ますのだろう。眠りは浅い。皮膚も髪も白蝋のように真っ白いその男の顔は、こうして大人しくしていると少々病的ではあるが端整だった。
世の人曰く『吸血鬼』。
ヴィルヘルム・エーレンブルグという男は、ちょっとした有名人だった。尾ヒレどころか背ビレまでついていそうな噂話のすべてを真に受けるのは馬鹿げているだろうと思っていたわたしは、しかし昨夜初めて本物の彼を見て、話して寝て、思っていた以上に噂話が正鵠を射ていたことを確認してしまった気がしている。上体を起こしているわたしの手元に、彼の腕があった。両腕にぐるぐると巻かれた包帯は、彼の肌の白色よりもずっと薄汚れて見える。
真っ赤な月の夢を反芻する。
これを彼に話すか、否か。わたしはあさましく迷っていた。
どうすれば、彼はまたわたしを抱くだろう。
白い髪。白いうなじ。触れたいなと思った。
夢に見たあの白い子供が、瞼の裏側で、なんにも言わずにこちらを見た気がする。
「んだよ、雨かよ。ダリィ」
日が落ちてからのそのそ起き上がったヴィルヘルムは、赤い眼をすがめて鼻をスン、と鳴らすと呻くようにそう呟いた。ちょうど着替えていたわたしは、ふらりと揺れた白く薄っぺらい背中を見ながら耳をすましてみる。
「雨音はしないけど」
「誰が今降ってるっつったよ。これから降るっつってんだ、においでわかんだろ」
そんなのわからないわ、と言うと、そうかよ、と気のない声が返って来る。
面倒くさそうにわたしに答えながら、ヴィルヘルムは形の良い頭をがしがし掻いた。少し伸びかけた髪を耳にかけてからこちらを見て、それからゆらりと周囲を見回した赤眼は、どうやらまだ少し寝惚けている。血の気が多い性格のわりに貧血そうだものなあと、わたしは包帯まみれの彼の腕をチラと見た。
「どうしたの。まだ眠いなら寝てていいのに」
「あ? ガキ扱いすんな、うぜえ、萎える」
萎えるって。身も蓋も無い可笑しな切り捨て方に、わたしは少し笑ってしまった。
「だってあなた、夢見の悪そうな顔してるから」
そのときゆるく見開かれた赤眼を見て、わたしは、ああやっぱりあの夢のことは言うべきではないのだなと内心慌てて了解した。
一瞬だけばつの悪いときの子供みたいな目をしたヴィルヘルムは三白眼でこちらを睨んで、すぐに皮肉げに口角をつり上げてみせる。
「随分な寝起きの挨拶じゃねえか。やっぱり使い古しの安物女は良くなかったみてえだなとでも言やイイのかよ、ああ?」
「やだわ、『吸血鬼』って意地が悪いのね。若いのにかわいげがない子は損をするのよ」
「そいつァどうも。そういやてめえは『魔女』だのなんだの呼ばれてんだったか? 浮き名に似合いの沸きっぷりだな」
トン、と指先で自分のこめかみを叩いてそう言ったヴィルヘルムは、さっさと立ち上がって靴を履いた。
まともに聞いてなんかいなかったと思っていたわたしの夜伽を彼が覚えていたことがなんだかひどく意外で、わたしは思わず、ドレスの裾をなおす手を止めてしまった。
顔を上げる。
扉を開けて曇った暗がりのなかに出て行こうとするヴィルヘルム・エーレンブルグはこちらに背を向けたまま、ひらり、包帯まみれの手を振った。
「思ったよりはゲテモノ感が無かったが、まあ気が向きゃまた買ってやる。そんじゃあな」
そう言って、「アー腹減った」だのぶつくさ呟きながらわたしの部屋を出て行く細い身体に、わたしは慌ててくちを開いた。「きっと、また」声を張って、彼が振り向けばいいのにと思いながら、片手ですっと髪を梳く。
彼は振り返らなかった。
『魔女』と呼ばれることはあるものの、わたしはべつだん呪術を使うでも薬草を調合するでもない、一介の街娼だった。けれどこの世には不思議な力が確かに存在するし、ほんとうに『魔女』や『魔道士』と呼ばれるに相応しいくらいそういったものに通じた人がいることも、わたしはぼんやりと実感している。それというのも、わたしにもその不思議なちからの素養が少しばかりはあったからだ。
他人の夢をみる――眠っている他人の精神世界がみえる。その程度の、まじないごとの才能だ。
両親はかつてこれを気味悪がってわたしを売り払ったわけだが、荒れて沸いたこのあたりの街では案外と怖いもの見たさの男が多かった。世の中の需要と供給は巧い具合に廻っているのだと思う。
気持ちよくやって夢をみて、夢でその相手を観察する。
ぐっちゃりした夢もあれば、こんな街には似つかわしくないくらいきらきらした夢もあった。種々様々な他人の夢は、いつもわたしの頭の薄皮一枚上あたりを素通りしていった。
ヴィルヘルム・エーレンブルグという男は、ちょっとした有名人だ。『吸血鬼』と人は呼ぶ。
生まれはハノーファーの貧民街、旧商家。実の父と実の姉との間に生まれた畜生腹の子。
10歳のとき、姉であり母でもあるヘルガ・エーレンブルグを強姦殺人。父も殺害し、生家に火を放った。その後脱獄してこのあたりまで流れてきたらしい。今は気侭に人を殺したり女遊びをしたりする享楽的な生活をしている。幽霊や化け物のように怖れられる凶悪犯ではあるが、娼婦の間では人気があった。
先天性の色素欠乏であるという真っ白い肌に赤眼の容貌と、そういった快楽主義的な振る舞い、そして殺人の際の彼の奇妙な癖が、『吸血鬼』という異名の所以となっている。
その奇癖とは、『吸血』と『自傷』。
死体の血を啜った彼が、その後落ちていた硝子片で自分の腕を滅多刺しにするところを見た者があるという。実際に見たその両腕は、確かに汚れた包帯に巻かれていた。噂は本当なのだろう。
今までそういった与太話を話半分に聞いていたわたしは、しかし昨夜初めてヴィルヘルム・エーレンブルグを見たとき、ああ案外あれらの噂は本当のことばかりなのだろうかと思った。そんな人間がいるものなんだなと、妙に感心してしまった。
彼がみる夢を、みてみたかった。
それで、わたしにしては気を入れて売り込んだのだ。
「んッだよ、はしたねえ売女だなア! 俺ァ今日は酒飲みに来てるだけだっつうの」
そう言って、けれど言葉の割に面白そうにケラケラ笑った彼はわたしより少し年下らしかった。噂どおりほんとうに化け物じみた赤色をしていた彼の目は切れ長で、思っていたよりも随分ときれいだった。
客引き用にまだきれいな方のドレスを着て酒場に歩きながら反芻する。真っ暗な石畳に、月明かりが無いことを知った。この分なら、ヴィルヘルムの天気予報はどうやら当たる。湿った空気を混ぜるように足を踏み出しながら、瞼の裏では今ではないいつかの夜がフラッシュバックしていた。その感覚に、わたしは望んで没入する。
ヴィルヘルム・エーレンブルグの夢は、真っ赤な月が空にかかった、なまぬるい夜だった。
『ヴィル。ねえヴィル』
甘ったるい声がころころと笑っていた。ギシギシと床を軋ませて、湿った裸足が廊下を歩く。どこもかしこも痛んで黒ずんだ、小さな家だった。心底嬉しそうな声と裏腹に、その足取りはふらふら揺れていた。
『姉さん、今日はいつもより早く"お仕事"が終わったのよ。ねえヴィル、おさんぽしましょうか。ヴィルはとっても繊細な子だからお日様の下には出られないけれど、夜ならいっしょに歩けるわ。ねえヴィル、それとも姉さんとお水を浴びましょうか。朝になったらいっしょにねむりましょうね。姉さんあなたが寝付くまでキスをしてあげる。今日のお客様がね、ビスケットをくれたのよ。眠る前に、ふたりで食べましょうね。甘い匂いがするのよ。きっとおいしいわ。ねえ、ねえ、』
――わたしの、かわいい、ヴィルヘルム。
謳うように言ったのはきっと、もう10年程前に殺されたという、ヘルガ・エーレンブルグその人だった。
他人の夢のなかを覗くわたしの視点は安定しない。ゆらゆらゆれた視点がまずとらえたのは、股の間からポタポタと白濁とした誰かの体液を溢して歩く華奢な乙女だった。肩の上で揃えられた髪は薄く桃色がかったキャラメル色だ。彼女はアルビノではなかったのだな、と、わたしはボンヤリ思っていた。
ヘルガは未だ熱を持て余したようにふらつきながらも、一刻も早くヴィルヘルムに会いたいのか、よどみなく廊下を進んだ。
扉をくぐった先に、彼はいた。
『ヴィルぅ』
『………』
床に無気力に転がったちいさな、見るからに発育不良じみた白い子供は眼だけをぎょろりと動かして、それから小声で『なんだよ』と応じた。
それを見たときだった。ふてぶてしくてカラリとした、あのヴィルヘルム・エーレンブルグという『吸血鬼』と、彼に纏わる薄暗く冷えた噂との間に、有機的な繋がりが見えてしまった気がしたのだ。
こんな人間がいるのだと思った。
ヘルガはヴィルヘルムを抱き起こし、その衰弱振りには無頓着に幾度もくちびるを寄せる。
『ヴィルも早くおおきくなって、お父様みたいにわたしを抱いてちょうだいね。わたしたち、だって、愛し合う家族ですものね』
そこでわたしは目が覚めた。今日の白昼。そのとき世界中で、わたしとヴィルヘルムが籠もったその部屋だけが夜だった。
隣で眠る白い男に、そのときは触れてはいけない気がした。ヘルガ・エーレンブルグの猫なで声が耳から離れなかったのだ。
ヴィルヘルムは今どこで何をしているのかなあと考える。
その日暮らし、ふらふら彷徨って、人を喰って野良犬を喰って気まぐれに娼婦を買ってみたりもして。
獣みたいな生き方だと誰かが言った。実際彼は動物じみている。
色素欠乏の肌や眼は日光の紫外線に滅法弱いらしく、彼はいつも、昼間はどこかに身をくらませていた。
それが今日はわたしの部屋に、その獣がいたのよ、なんて。誰彼構わず言いふらしてやりたいような、誰にも言いたくないような、どっちつかずの気持ちだ。
目を閉じる。酒場の猥雑な電燈の光を遮ってしまえば、わたしは真っ赤な月の湿っぽい夜にとぷりと一段、沈み込む。
『ヴィル。ヴィル。ああ、いつだってあなたが心配だわ。姉さんから離れてはだめよ。愛してる、愛してる、かわいい子、わたしの、わたしのヴィルヘルム……』
汚れた床の上で抱き寄せられ、細い肩に顔を埋められて、ちいさなヴィルヘルム・エーレンブルグは緩慢にまばたきをした。あまり目が良くないのかもしれない。すがめた赤眼でじっと姉の頭を見遣って、それからどうでもよくなったように視線を床に這わせた。
その乾いたくちびるが動くのが、わたしからは、よく見えた。
(ばァーか)
ヴィルヘルムはぱくぱくとくちを動かして、音に出さずにそう言った。それから皮肉げにくちの端を持ち上げて、にやり、笑った。かわいげがない。この笑い方は今も変わらないのだと思うと、なんだかまた、ああ、と思ってしまう。
彼の夢は、不思議とわたしの脳を上滑りしてはゆかなかった。
【1939年8月/にんげん】
人が人を狙い済まして意識的に暴力を行使して殺すということは、実際どれほど大したことなのだろうか。
朝方の街を歩いていると、路地裏のゴミ捨て場にされている所から何か物音がした。覗いてみようと足を止めると、むあ、と、鉄錆びたにおいが鼻の奥を衝いて来る。そこでわたしは「あっ」と短い声をあげてしまった。
「ヴィルヘルム」
「ああ? ……誰だてめえ」
排水溝に誰かの死体の一部をべしゃりと投げ捨てて、ヴィルヘルム・エーレンブルグは猫背気味の背をもたげた。暗がりの向こうに浮かんだ白い顔には、赤黒い血がべっとりついている。全身血濡れの彼は、薄白い朝日を浴びて立つわたしを細めた赤眼でじろりと見た。眩しそうに目をしぱしぱさせて仕舞いにはチッと舌打ちした彼は、わたしの顔を識別することをさっさと諦めたらしい。
「さっさと帰れ、そんで忘れろ。俺ァ今まさに食後なンだよ、今更肉の追加はお呼びじゃねえ」
「ヴィルヘルム、でももう朝よ。あなた、日光は嫌いでしょう」
うちに来ればいいのよ。
わざとしれっとそう言ってやれば、獣じみた男は「ハア?」と頓狂な声を出した。
「……この状況見えてて言ってんのか? 目と鼻潰れてんのかよとんだ通好みだなァおい」
「見えてるし、あなたよりは目はいいと思うけど。忘れてたってしょうがないわ、もうふた月は前だし、わたしたち一夜きりだったもの」
「ヘエ? ……ああ。てめえアレか、『魔女』だのなんだの言ってた売り込み方のしつッけえ娼婦かよ。ンな時間にまで歩いて営業たァご苦労なこったな」
わたしの顔がわからないまでも声と情報から正解を言い当てた彼は、案外と出来の良い頭をしているのかもしれない。調子付くとべらべら喋り出すヴィルヘルムの声は、少し擦れていた。目一杯はしゃいだ後の子供みたいだと思う。
「うん。安くしとくから、来て頂戴よ」
駆け引きするつもりでそう言ってみれば、今度はヴィルヘルムはあっさり「いいぜ」と言ってきたから、わたしはつい少し、拍子抜けしてしまった。彼は一度気を許した相手には気安い男なのだろうか。そういえば初めて会った夜も、酒場の何人かとはゲラゲラ笑いながら何か話していた。
案外とこんなところで、ヘルガ・エーレンブルグの盲執的で無批判的な"身内愛"はヴィルヘルムに継承されているのかもしれない。
彼の夢を知るわたしはそう思って、なんとなくまた、この男が哀れになった。
その後いっしょにわたしの部屋まで来た彼は「床でいい」と短く言い捨てると、のそのそ座り込んですぐに気を失うように眠ってしまった。シーツだけでもかけてあげようかと思ったわたしは彼に近づいた時、その腕に包帯が無いことに気が付いた。べったりついた血は、きっとあの誰とも知れない被害者のものだけではなかったのだ。
ほんとうは白いのだろう彼の腕は、じくじくとした傷跡で引き千切れそうな有り様だった。
それを見て、わたしは少しおなかの底が熱くなった。
隣に腰を下ろす。ヴィルヘルムは眠っていた。
また彼の夢をみられるのだと、遅まきの実感がわたしを浮かれさせた。
どこまで打算的に、わたしは彼をこの場に呼んだのだろう。外界はいっせいに朝に染まる中、ここは今から夜になる。
――その日の夢のなかで、ヘルガ・エーレンブルグはヴィルヘルム・エーレンブルグに殺されたのだった。
「てめえが『魔女』とやらぬかしてやがったのは、その悪趣味のせいか」
日が落ちてから起きてきたヴィルヘルムは、そう言ってせせら笑った。わたしは余分な事を何も言わないようにただ「うん」と素直に頷いて、ポイポイと彼の手元に包帯を放り投げてやる。
「それ、腕に巻きましょうね。ひどい怪我よ」
「おー。あんがとよ」
服を脱いでベッドに座ったヴィルヘルムに向かい合って、わたしは座った。今日は酒場には行かない。だってヴィルヘルムが居る。
「ん」とだるそうに出してきた腕に、わたしは出来る限りやさしく、皺無く、包帯を巻きつけていった。
「動脈を切ると、人って死ぬかもしれないのよ」
「あン?」
「腕。危ないでしょう」
「ハ……――は、ぎゃははははッ! そりゃてめえ、今朝誰の何を見やがった上で吹いてんだァ!? 危ねえも危なくねえもねえってんだよ、せいぜいてめえで勝手に気ィつけて生きてろや」
くしゃりと眉間に皺を寄せて子供みたいにゲラゲラ大笑いしたヴィルヘルムは、今朝わたしと再会したときのことを言っている。けれどわたしはその後、もうひとつの殺人を見たのだった。今だって瞼を閉じて意識を沈めればとぷりと潜れてしまう深度に、その悲劇は横たわっている。
眼をつむってヒイヒイ息をする目の前の男は、あの白い子供だった。あの白い子供は、この白い男だ。
こんな人間がいるのだ。
「ねえ、ヴィルヘルム」
「あー? ンだよ」
「わたしも、ひとを殺したことくらい、あるのよ」
わざとなんでもないようにそう言ってやれば、ヴィルヘルムは「へえ?」と、未だ笑い混じりの声を吐いた。背をゆるく丸めて首を傾げ、わたしからの更なる突飛なセリフを待っている。
「そんで? そっから屍体性愛にでも目覚めやがったか」
「べつに、そんな特殊性癖に目覚めてはいないけど。……ね、ヴィルヘルム」
「なんだよ」
「人を殺す人は、獣なのかしら」
問えば、ヴィルヘルムの切れ長の目の、白い睫毛がはつりと動いた。
それからニィ、と、皮肉げに、そのくちの端が持ち上がる。
「それァてめえ、何目線でモノ言ってんだよ」
そんなもの。
あなたを手放したくないあさましい街娼目線以外の何者でもない、と、言ってやったら彼は嫌そうな顔をするんだろう。
幼い彼の、はじまりのタブーを見た。
ヴィルヘルム・エーレンブルグというこの白くてひどい獣じみた男の、本質的な絶望を、わたしは見たのだと思う。その瞬間に感じた事は『かわいそう』といった同情でも、殺人行為や近親相姦に対する忌避感情でもない。
『この子供に触れたい』、だ。
あさましい。わたしはあさましい。
身体でだけ他者とつながることに飽きて、夢でだけ他者の精神世界の内を覗き見る事にも飽きて。わたしは、哄笑しながら断崖に向かって大股に進むような、残酷で下衆であわれな男の、剥き出しの生に触れたかった。
だってこんなにも、自分が自分であるために生きようと必死な男を、わたしは初めて見たのだ。
「人間を殺した人間が獣だぁ? ハ! いいか売女の魔女殿、人間ってなァな、よぉく出来た理性で自分とおんなじつくりの人間を殺っちまえッから『にんげん』なんだよ。『けだもの』っつうのは涎垂らして舌出して尻尾振りながら本能で殺す四つ足だろ」
可笑しそうに笑いながらヴィルヘルムが言ったのは、そういう理屈だった。べらべらとまくし立てて、それからぼふんと、後ろ向きに倒れる。ベッドが軋んだ。薄っぺらいヴィルヘルムの腹が見える。ふ、と彼が息を吸うと、その胸と腹が動いた。生きている。
こんな人間がいるのだ、と、思いたかった。
わたしは人間で、彼も人間で、なんならわたしたちは一晩きりでもわかりあえたりするのだと、信じてみたかった。
今夜は静かだった。ヴィルヘルムは仰向けに寝そべったままスンスンと鼻を鳴らすと、「雨だな」と呟いた。雨音なんか聞こえないけれど、きっと雨は降るのだろう。考えていると、ヴィルヘルムが両肘をつき、肩甲骨から上をかるく起こして、わたしの顔をその赤い眼で面白そうに見遣った。
「そういやてめえと会うと、雨ばっかし降りやがるな」
そんな一言でわたしはもうたまらなくなってしまった。
下着は最初から着けていなかった。わたしは、あさましい。
ヴィルヘルム・エーレンブルグの夢はいつだって夜の底のようだった。
そんな世界しか知れなかったのか、そんな世界をこそ選んだのか。ヴィルヘルムが何を思って何を選んだのかなんて、きっと彼にしかわからない。だからわたしはおそろしいと思った。
ヘルガ・エーレンブルグの死は、わたしからすると意外なほど唐突だった。
『ヴィル。だめじゃない、こんなことをしては』
たしかそういうことを、ヘルガは言った。餓えたヴィルヘルムが夜中にひとりで家を出て、そこらの小動物や野良犬、他所の赤ん坊なんかを喰った後それらの骨を埋めていたのを、ヘルガがとうとう見つけた夜のことだった。
傍目には何の強制力も発揮しないようなヘルガの糾弾ひとつが、ヴィルヘルム・エーレンブルグにとっては何か決定的なものであったらしいのだ。それは無批判的な家族愛を信奉したヘルガが、はじめてヴィルヘルムを否定した言葉であった。
それまで何をされても無抵抗にヘルガの"愛"を受け入れてきた白い子供が、どこか愕然とした顔で赤い眼を揺らして喚いた。
『なんで姉さんが、そんなこと言うんだ』
このちいさな痩せぎすの白い子供は、盲目的に自分を愛するヘルガのことをばかにしながら、どれほどその愛に依存していたのだろう。ヴィルヘルム自身にも、ヘルガにも、そして夢を覗くわたしにだって、そんなことはわからなかった。
ただ、自棄気味にヘルガを蹂躙し殺したヴィルヘルムは、それによる自死と再生を期待したらしい。『始まりを終わらせないと生まれ変われない』と、わななく少年の声が聞こえた。
そんな慄き声に頓着することなく犯され殺されたヘルガは、奇妙と言うか"らしい"というか、ひどく幸福そうだった。『やっと姉さんとひとつになってくれるのね』とヒィヒィ泣いたヘルガ・エーレンブルグは、ヴィルヘルム・エーレンブルグの夢の底でいつまでもまどろむように笑っているのだろう。あれは妖婦だ。壊れている。
『あああ、あああああああ、あああああああああああちくしょう、畜生畜生畜生おおお、ううう、ああああああああ』
少年の呻き声は咆哮に変わった。咆哮は慟哭にも似ていた。あるいは獣の鳴き声にも。
ヴィルヘルムはそのとき、人間であり続けようとヘルガを殺したのだろうか。
あるいは人間をやめてしまいたくて、ヘルガを殺したのだろうか。
それとも他に、彼だけにしかわからない理由があるのだろうか。
父親を殺したのはどうやらついでのようだった。ヘルガの死に顔は満面の笑い泣きだ。床に這った血と他の体液のにおいは、いやに生々しくわたしの感覚器まで刺激した。そうだ、ヘルガはわたしとおなじ娼婦だった。
「ヴィ、ル、ヘ、ルム」
熱い。熱い。ふうふう息をしながら、それでもわたしは、包帯まみれのその腕を掴んだ。
「あ、ァ? ンだよ、イッテェな……」
「あなたは、にんげん、だよねぇ」
言いたいことをそのままは言えないまま、わたしはふやり、必死に、だらしなく笑いかける。親に媚びる子供じゃあるまいし。わたしの方が年上なのに。はずかしい。はしたない。娼婦のくせに、今更な感情が泡を吹く。今のわたしは茹だっている。
ヴィルヘルムは莫迦にした顔をするかと思ったら、赤い眼を瞠って驚いたような顔をした。わたしはそれで泣きそうになって、慌てて下腹に力を込める。
本当は、『あなたはにんげんでいてね』と言いたかったのだ。
わたしは人間なのだから、ヴィルヘルムにだって人間でいて欲しかった。粘膜を擦り合わせるこの行為のどこかに、たとえひとかけらでも『共感』は存在するんだって、夢でもいいから信じてみたかった。
今朝のあなたの殺人は理性によるものか、ヘルガを殺した夜から始まる生存と自死の本能によるものか、わたしは知りたい。
知りたくてたまらない。
「……さァ。どうだろうな」
皮肉げに赤い眼を細め、口角を上げたヴィルヘルムは奇麗だった。半分くらいはただの子供に見えた。もう半分くらいは、それこそ吸血鬼じみた化け物に見えた。
それがかなしくて、あわれで、なんだか自分がはずかしくて、わたしはぼろぼろ泣いてしまった。ずっとそこにいてね。これ以上はなれていかないでね。言ってしまえばヘルガのようだ。だから言わなかった。あざとい。あさましい。わたしは人間だ。きっと理性であなたを殺せる、よくできた汚い人間だ。
カーテンを閉じきった窓の向こうで、ザアザアと雨音が聞こえた。
新しい包帯に血が滲んでいくのにも構わず、わたしはただ白い男に取り縋って、ひとりよがりにわんわん泣いた。
どうすれば、彼はまたわたしを抱くだろう。どうすれば。
夢に見たあの白い子供は、どこに行ったか、見えなくなっていた。
2014/0819 子葱。
住所不定無職のヴィルヘルムさんとモブの娼婦のお話。
4ヵ月後にはいなくなる。
『青い吐息』さんに提出。「理性と本能の狭間」で参加させて頂きました。