祝福を、きみに | ナノ
「君の望みを知っている」

※ヴィルヘルムと、女の子の話。
※一応夢小説です。名前変換はありません。





 そ れ は の ろ い



【1955年1月4日 ルサルカ・シュヴェーゲリン】

 魔女の年末年始って、忙しいのよ?
 ほんともう大忙しなのよねぇ。まず、ヴァイナハテンは面白くない事を思い出すのがいやだから気持ちよく汗を流して頭を空っぽにしたいの。そこでまあ可愛げのある男の子を何人か引っ掛けて来るでしょ? そこそこ集ったら更に全員めろめろにたらしこむでしょ? ハイ、あとは肉体言語。気持ちよく年が暮れていきます。若い子達の青い精、おいしかったわよぉ。
 とはいえ、いろいろ試したりしてるうちに飽きちゃったら今度は後処理しなきゃまずいじゃない。童貞ちゃんってこじらせると面倒極まりないのよ、まぁベイにはわかんないでしょうけど。すーぐ変なスイッチ入っちゃってさぁ、イタリア男のなりそこないみたいになっちゃうわけ。あれはキツいわー。十回や二十回突っ込ませてあげただけでその気になる神経がわっかんない。
 ともかくいろいろあったのよ。ルサルカさんがんばったんだからねっ。
 それでやぁっと後腐れなく人間牧場閉鎖したと思った矢先に、あなたがあたしのこと尋ねて来たってわけ。ほら、納得の多忙さでしょ。
 だからベイ、アナタはもうちょっとあたしのこと労わったりしてくれていいと思うんだけどなあ。

「ねえちょっと、聞いてるの? ベイってばぁ」
「うっせぇぞ淫売、テメェが新年早々イカくせえ理由はよッくわかったからそろそろくち閉じとけ」
「うっわー。わざわざ来たと思ったら何よそのしょっぱい対応! 何しに来たのあんた」

 ヴィルヘルム・エーレンブルグ。称号は《カズィクル・ベイ》――《串刺し公》。
 先天性のアルビノでしかも端整な顔をしてるそいつは黙って座ってさえいればなかなか神秘的で見栄えも良いのに、くちを開けば途端にどうがんばったってフォロー出来ない仕上がりの不良になる。ガラ悪すぎなのよ、ほんとに。第三帝国の残党だからとか大量殺人鬼のSS中尉だからとか歴史の裏側に潜伏してる《聖槍十三騎士団》に属する黒円卓の一員だからとかそういうの抜きにして、普通に警察に声かけられそうな感じ。よく潜伏してられるわよね、こいつ……しかも今日とか、モロに軍服着て来ちゃってるし。
 ま、何しに来たかとか、なんで来たかとかは、なんとなくわかるんだけど。
 椅子にだらしなく座ってあたしの本を勝手に読んでる同胞は、生意気だし狂犬じみた戦闘狂だけど、なんだかんだ変なところで素直だったりするから。わかりやすいガキは嫌いじゃないのよねぇ。
 ネグリジェの裾をつまんでベイの向かいに座ったあたしは、テーブルに頬杖をついて、「ベーイ」ってくすくす笑ってやった。
 白い睫毛に縁取られたアルビノ特有の赤い瞳が、文字を追うのをやめて静かにあたしの顔を見る。不機嫌そうに眉をひそめた額に、これまた初雪みたいな白銀の髪がさらりとかかってる。
 そのくちの端やシミひとつ無い肉薄な頬には、赤黒く乾いた血の痕が斑にこびりついていた。
 あーあ。おっかしい。

「あなた、失恋するたびにあたしのトコに来る癖、そろそろやめたらぁ?」
「んなっ……!?」

 にんまり笑って言ってやったら、ベイは切れ長の目を見開いた。ぽかんと開いたくちがなんだか間抜けっぷりを上げてて、あたしはつい声を漏らして笑ってしまう。可笑しいわ。
 牙みたいな犬歯を晒してくちを開閉したベイは一拍置いてやっと言い返す言葉が見付かったようで、ばたんと両手で閉じた本を机に叩きつけると「テメェ!」って腹の底から喚いてきた。

「悪趣味なあてずっぽう飛ばしてんじゃねえよ! 頭沸いてんのか」
「ちょっとぉ、それ何気なく貸したげてるけど稀少本なのよ? もっとありがたみとか持って扱いなさいよね」
「知るか! 俺は暇だったから来ただけだ、おめでたい邪推ペラ回してんじゃねえぞ胸糞悪ィ」
「邪推だなんて、やだわ。あたしなりに蓋然性に基づいた推測だったんだけど」

 蓋然性。要するに、『こういうときってだいたいこうなのよね〜』っていうパターンの問題。
 ベイがこんなテンションで返り血付けてふらっとあたしのとこに来るなんて、そうそうあることじゃないもの。原因なんて限られるわよ、否応無く。
 ギリギリ歯軋りしてこっちを睨みつけてくるアルビノの男は、やっぱり変なトコ素直で、わかりやすい。

「あーはいはい、いい歳して拗ねないでよね。また適当な戦場に遊びに行くなら明日にでも付き合ったげるから」
「拗ねてねえよクソババア」
「あら、失礼しちゃうわ。あたしはどこからどう見たって可憐な美少女でしょぉ? 実年齢はヒミツだけど、見えないものにこだわるなんて非合理的なことはあなた嫌いでしょうに」
「……」

 つらつら言い返したら、ベイはうんざりしたみたいに深いため息を吐いて、猫背気味の背を椅子の背もたれに預けた。薄い胸が反って、第三帝国SS中尉の襟章がチカリ、ランプの灯りを乗せて光る。

「……なぁ、マレウス」

 ぽつり、ベイが、擦れ声であたしの魔名を呼んだ。

「なぁに? ベイ」

 なんとなく、茶化さずに首を傾げてあげることにする。
 苦々しい顔をして赤眼をすがめた《串刺し公》は、あたしといっしょにいる今じゃないいつかの遠い夜を見ようと目をこらしているみたいだった。

「俺ァ今度は、何を"取り逃がした"っつうんだよ」
「……さあ。あたしに聞かないでよね。そういう悪趣味な占いはあの道化の専門分野でしょう」

 あたしたちは、夜の隅を歩く化け物だ。
 神様に祈ることも出来ないし、あたしたちにとって不条理は神秘の業でも神様の試練でもなんでもない。あたしたちよりもっとおぞましい桁外れの化け物の、得体の知れない魔道の操作。
 憎くて恐ろしいそいつの顔を、あたしたちは知っている。
 そして、同胞の各々があいつから与えられた、拭い去れない『祝福』も。

「なによ、また惚れた女を横から掻っ攫われたりしたわけ?」
「してねぇよ。つうか別に惚れてもねぇ。そそらなかったから犯してもねぇ。純血のアーリア人だったから血肉だけ喰った」

 仏頂面で視線落としてぽつぽつぶつ切りに答えるベイの言ってることを聞いてみると、なによ、やっぱりどっかで失恋してきたんじゃない。あたし大正解じゃない。
 ていうかそこで『犯してない』だの『血肉だけ喰った』だの身も蓋も無い基準に持ち込んじゃうからこそ、ベイっていつまで経ってもアクの強いゲテモノにしかモテないんじゃないかと思うんだけど。

「あら。けど、ちゃんと自分で殺せて、自分で食べれたの? だったら満足するとこじゃない」
「……知らねぇよ、クソッタレ」

 椅子を引いて立ち上がりながら、ベイは片手でがしがし、白い髪を掻いた。

「興が乗ったから殺したはいいが、いざ腹開いてみりゃあ頭のネジぶっ飛んだ莫迦女だったっつうだけだ。後味悪ィのは食あたりみてぇなモンだろ。テメェがぬかすような愉快な事ァ一切無かったぜ悪かったな。そんでもうじき朝だから俺ァ寝る」

 やけっぱちな大声でぺらぺらまくし立てながら大股で歩いて部屋を出て行ったベイを、あたしはなんだか、やっぱり、可笑しいなあと思いながら見送った。ついつい、らしくもない苦笑いが出てきちゃう。アハハ。

「……いや、だから、やっぱりあたし大正解だったんじゃないの? え、ちがうの?」

 失恋するたびにふらっと遊びに来る、白い同胞。奇麗な青年のなりをした、夜の化け物。
 まぁ、魔女のあたしから見たら、まだまだ子供っぽかったりもするんだけど。

「あーあ、久しぶりの戦場かぁ」

 あの戦闘狂に付き合うのは、面白いけど疲れるのよねぇ。魔女の年末年始は忙しくて、だからあたしは疲れてるって、散々言ったのに全然聞いてないんだから。
 呆れて、でも、まぁ、悪くはないと思う。人間性が壊れたやつと一緒に遊ぶのって、退屈しなくて楽しいものね。

 寝室に行くと、ベイはカーテンも何もかも締め切って、ソファの上で窮屈そうに寝てた。なんだか犬みたいで可笑しくて、あたしはくちもとを押さえてくすくす笑った。




【1954年12月31日 ヴィルヘルム・エーレンブルグ】

 女の死体は男のそれより腐るのが早い気がする。
 舌の上に未だにべっとり残った血のにおいを反芻しながら、歩く。夜だ。夜は俺の時間だ。
 満月だった。
 寂れた街を出てしばらくしたら、ようやっと鬱陶しい電光も無くなった。夜の底は雪で真っ白だ。白は好きな色じゃねぇから、俺はまた胸糞悪くなった。

 血を旨いと思ったことなんざねぇ。あんなもんが旨いわけがねぇ。それでも啜るのは必要だからだ。喉が渇いて水を飲むのと同じ道理だった。
 アルビノの畜生児としてあの気狂い女から産まれた時点で、いっぺん詰んだ人生だ。
 だからこそ純アーリア人の血を飲む。外から血を調達して、そのぶん自分の腐った血を出して、そうやって中身を入れ替えりゃあ、何かどっかしらがなんとかなるはずだ。そのはずだ。
 その何か――言ってみりゃ原罪じみたもん――をなんとかすれば、救われる、はずだ。
 マシな人間になりさえすりゃあ、運命ってのも相応にマシなもんにすげ変わるんだろう。生まれてこのかたマシな人間でいられたことなんざありゃしねえから自分じゃわかんねえけどよ。そんくらいの整合性は、きっと、あるんだろう。
 そういうふうに、このクソッタレな世の中は出来上がっていやがるはずだった。 

 歩けば歩くほど胃が重くなる気がする。
 もう喰ってから日が経つのに、あの女の肉が腹ン中でうごめいてる気さえしてくる。鬱陶しいにも程があんだろなんだそれ。そんな馬力あったんなら殺される前に発揮しやがれ。屠殺より殺し合いのが燃えるだろうが、つくづく察しの悪ィ莫迦女だな畜生。
 大股で、雪を蹴散らして歩く。月は好きだが星はそうでもない。チカチカうぜえから空は見ない。蒼褪めた雪明りは、何かに似ている気がする。
 たとえばそうだ水死体だ。あれはクソ不味い。どんなデブもどんなガリもだいたい全部が駄目になりやがるから水ってのはやべぇ。ガキの頃は何か喰わねえと死ぬくらい腹減ったときに水路の死体引き上げて噛み千切って無理矢理くちンなか押し込んだりもしたが、あれァ喰えたもんじゃなかった。
 あと、シュライバーの野郎の髪の色だ。俺と似たような色合いしやがってあの犬っころの男女が。ああ、さっさとあいつ殺してぇ。引き裂いて嬲って、ぶっ壊れた娼婦に似合いの死体を晒してやる。本当はあの日のベルリンでそうしてやるはずだったんだ。邪魔さえ入らなければ。俺の人生はどこまでも間が悪い。

「……何考えてもシラけやがるなァ、今夜は!」

 苛々して、胸糞悪くて、月を仰いで声を張った。湯気みたいな白い息が、北風に伸ばされて背後に流れていく。雪に物音が吸い込まれてるみてぇに、静かな夜だった。

「クソッ」

 足元の雪を軍靴の底で蹴散らすと、ばふっ、と白い氷の粉塵が飛ぶ。宙に舞った次の瞬間には風に乗って俺の顔にぶっかかった雪に、思わず呻いてしまう。冷てぇ。
 また腹が重くなった。
 確かに喰い散らしたはずのあの女が、この腹の底の辺りで、知った風な顔して笑ってやがる気がした。


 あのイカれた道化――《聖槍十三騎士団》黒円卓の副首領であるメルクリウスの預言じみた『祝福』が、苛立ちと腹の気持ち悪さで沸いた頭の中で泡みてぇに浮かんでは消える。

 ――君はそう、望んだ相手を必ず取り逃す。女だろうが、血沸き肉躍る好敵手だろうが、望んだ相手とは添い遂げられない、絶対に。
 ――君の人生とはすなわち、奪われ続ける餓鬼の旅路に等しい。

 厭味ったらしく謳うような声が、意識の底で余裕綽々に嗤った。
 冗談じゃねぇ。そんなもん、受け入れられるわけがねぇだろうが。
 だから、渇望した。誰にも奪われないものを求めた。
 夜は俺の時間だった。なら、夜に無敵の吸血鬼になりたい。明けない夜が欲しい。どうせガキの頃から、色素欠乏のこの身体は太陽光に滅法弱かった。なら日の光なんざいらねぇ。俺が拒まれたんじゃない。こっちから願い下げなんだ。
 夜は俺の時間だ。
 いつか、たぎる好敵手を見つけ出して、俺の夜の中で引き裂いて殺してやる。それで俺は満たされる。あんなふざけた『祝福』、腐れ道化のあのすかした女顔にのしつけて叩き返す。
『祝福』なんてただの言葉遊びで、あんなもんは完全に『呪い』だろうが。


 そう思い当たったとき、不意に、ぶくぶく弾ける『祝福』の泡の中に、知った風な顔で囁いたあの女の声が混じった。
 今度こそ、俺は棒立ちになった。疼く腹を見下ろしてから、首をもたげて、蠢く満月を見上げた。
 塵みてぇな星が目障りだ。
 ひくり、腹と喉の奥が痙攣した。くちもとも引き攣る。知らず見開いていた目を、地面から風に乗って舞い上がった雪がかすめた。
 腹が、いつまで経っても気持ち悪ィ。
 言うなれば異物感だ。あるいは、そう、悪趣味なオカルトに当て嵌めちまえば――


「――……ハ、ハ。ははっ、ぎゃはははは! 呪い、か。ああそうだなァ、結局のところそれが当たってるんだろうぜ!」


 喚いた途端に月が震えて、腹の奥が揺れて、俺の茹だった脳みそは莫迦みてぇに無駄なことを思い出した――蒼褪めた雪明りは、そういえば、最期の最期に笑いやがったあの女の、ぬるついた白目の色にも似ていた。




【1954年12月1日~25日 −−−】

 ――きっとこの奇麗な白い男は、面白くなさそうな顔で私を殺すのだろう。

 笑いながらひとを喰う男だ、という噂を聞いていたのに、初対面で、私ははっきりそう思った。
 憲兵や警察も立ち寄らない酒場は、本来店主であるはずの男が半ば気狂いになったために、もうすっかり私が切り盛りしていた。そこに、彼は現れた。
 ヴィルヘルム・エーレンブルグ。第三帝国の、"白いSS中尉"。
 最近近場で起こった内戦に、『戦場のオカルト』だの『白貌の幽鬼』だのと呼ばれる存在が出没しているらしいという噂は知っていた。だから一目、猫背気味にずかずか歩くそのアルビノの男を見た途端、私は彼こそがその『幽鬼』だと確信したのだ。
 そしてまた同時に確信した。
 彼はきっと、私を殺すときには笑わない。

 根拠は無かったけど、私の直感は昔からよく当たった。察しのいい女だな、なんて、ここの店主の気が違う前はよく褒められたものだった。今はもう、あのひととはまともな会話は望めないけれど。
 少し前からこのへんは内戦に巻き込まれている真っ最中だったので、ヴィルヘルム以外の客はひとりもいなかった。
 分厚い木の扉を無遠慮に開いた白い男は、私がカウンターでグラスを磨いているのを見ると微かに目を瞠り、口角をつり上げて「ヘェ」とせせら笑った。
 今でも思い出せる。
 あの日あのとき、月光を背負って揺れた長身と赤い眼光を見た瞬間に、私は、ヴィルヘルム・エーレンブルグという男を直感的に哀れんだのだ。


 私の特技はお客さんのその日の気分にあった酒を出すことだった。カンの良さを買われて始まった、この店の名物。
 けれど私はそんな小手先を、ヴィルヘルムに披露しようとは思わなかった。
 長く彼を見ていたかったし、本当は不必要な会話でも、できるだけ交わしてやろうと思った。『今日は何が良いの』『どのくらい飲みたいの』『ロック、水割り、それともそのまま?』全部、わざわざ聞かなくても答えはわかっていた。それでもわたしはぽつぽつと、きっとこの店最後の客になるその化け物に問いを投げかけ続けた。

「察しの悪ィ女だな。いちいちそこまで訊くかァ?」

 呆れ顔でカウンターに頬杖をついたヴィルヘルムは、それでも激昂することはなかった。私なんて彼からすれば取るに足りない存在だったからなんだろうと思う。あと、単純に酒が好きなんだろう。こんな紛争地でいまだに酒屋をやっている文字通りの酔狂が、彼のツボにはまったらしい。要するに、彼は少し、私に懐いていた。ふらふらやってきては餌をたかる野良猫みたいなものだ。
 私は元の顔が無愛想なので、にこりともせずに「すみませんね」と会釈した。視線を戻すと、切れ長の涼しげな赤眼とばちり、視線がはちあって、内心少しどきりとした。彼は話していると、よくジッとこちらの目を見てきた。癖なのだろう。ほんとうに獣の仔みたいな男だと、落ち着かない頭で考えた。

「ま、いいけどよ。テメェ本気で、つくづくそそらねぇ女だなぁ。こんな戦場でぼさーっと酒場なんぞやれてんのも納得だぜ」

 もうちょいマシな女なら今ごろとっくにマワされてる。
 カラリと下衆なことを言ってからツボにはまったのかげらげら笑ったヴィルヘルムに、私はやっぱりにこりともせず、ブランデーを差し出したのだった。
 気分は餌付けに近かったかもしれない。楽しくないわけではなかった。死を間近に意識していた私にとって、彼は別段忌避すべき対象でも無かったのだ。


 そうして出会ったのが、12月のはじめ。
 ぽつぽつと、私達は話をした。愛想が無くて、その上特技でもある察しの良さも隠した何の取り得も無い私に、案外とヴィルヘルム・エーレンブルグは飽きなかったらしかった。
 いろいろな話を聞いた。彼の出生だとか、矜持だとか、今起きている内戦の戦況だとか。
 ひとつ話を聞くたびに、私はなんとなく、彼への愛着を強めた。直感的な哀れみは、恒常的な哀れみになった。にこりともしない無表情な私のそんな感傷に彼が気付いていたとは思わない。


 そうして、今日。
 今しがた日付が変わって、12月25日。ヴィルヘルムの母語であるドイツ語で言うところのヴァイナハテン――クリスマス。
『もうじきこの内戦は終わるだろうから、そうなったら俺はもうこの国を出る』と、ほろ酔いで言われたとき、私は思わず、グラスを磨く手を止めた。

「……本当に?」
「おう。泥沼化してだいぶ茹だっちゃいるが、ありゃそろそろ潮時だろ。これ以上続けるとしたらそいつァ国を潰す度胸のある大物か、ただ花火を打ち上げたいだけの莫迦だ。見たところンな面白ぇ奴ァどっちの陣営にもいやしねえよ。しけてやがるぜ」

 戦闘となると気が狂ったように笑い散らして暴れまわる無頼漢のくせに、ヴィルヘルムは頭は悪くなかった。むしろ、会話しているとよくわかるのだけど、頭の回転がかなりはやいし、価値観は常人離れしているものの考え方はなかなか論理的だと思う。だから彼はしばしば、見事に的を射た暴論をしれっとした顔でふっかけてくる。そんなところも面白いなと、私は少しは思っていたのだ。
 そっかあ。終わるのかあ、と。
 正直、内戦が始まってお客がいなくなってこの店の店主が狂ったあたりで、私はもうすっかり、ここで死ぬことを確信していた。その直感が外れようとしているのだ。静かに、私は驚愕していた。今までこんな重大なカンを外したことがあっただろうか。
 内戦終了後、ヴィルヘルムが来なくなったこの店で、私は生き続けるのだろうか。
 どうしても、その未来が想像できなかった。
 酒を飲みに来るヴィルヘルムを置き去りにして、私は死ぬのだろうと思っていた。実際酒の種類や在庫を記した簡素な業務メモのような置手紙まで懐に用意していたのだから、いっそ笑い話だ。
 チラと窺うと、白い男はこちらを流し見てくつくつ笑っていた。

「ま、悪くはなかったぜぇ? 俺好みのイイ女はいなかったが、こんだけ上等のタダ酒が飲める戦場なんざ滅多にねぇしな」

 悪戯気に細まった赤い瞳と視線を絡めて、シニカルにつり上がった口角とそこから覗いた牙のようにとがった犬歯を視界の端にとらえたとき、私は『ああそうだそうしよう』と決めた。
 気付いた時にはストンと、確信めいた決意が胸に開いた穴にしっくり収まっていたのだ。躊躇は、不思議なくらい無かった。私は案外と、この男とのあっけない別れの予感に焦ってしまったのかもしれない。

「ねぇ、ヴィルヘルム。私も純アーリア人だって、前に言ったっけね」

 言えば、獣の仔じみた『戦場のオカルト』は、はつりと白い睫毛をしばたかせてゆるく目を瞠った。何を言うんだこいつは、と言わんばかりの反応には、直前の皮肉な様子とは打って変わって素直さが滲む。
 彼は、私にすっかり油断していたのだろう。懐に入れた相手には気を許すタイプだと思う。
 ただ言葉で言うだけじゃあ真に迫らないだろうなと思った私がナイフを持った片手を突き出すのを見ても、それを白蝋の顔のまん前に突きつけられても、ぽかんとした顔をするだけで、ヴィルヘルムは何も抵抗らしいことをしなかった。
 しかし、そのナイフの錆びたにおいをスンと嗅いだ次の瞬間、熱を孕むように、白いSS中尉はそのくちもとに三日月のような笑みを刷く。
 彼は明らかに、かつ呆気なく酔っていた。酒と、夜と、そして私がつきつけた簡易的な戦場のにおいに。初めて目の当たりにしたことだけど、それくらい彼は本能に忠実な戦闘狂だったのだ。いつだって飢えている。まるで何一つ得たことが無いかのように、欲深く、不器用に。
 殺意の真似事を晒しながら、私はそんな哀れな男に、淡々と希うのだ。

「君に、あげる。本当に好みじゃなかったか、確かめてみてちょうだいよ」



 彼はかわいそうな男だと思う。
 攻め気で、カラリとしていて、傲慢で大胆だけれど。なんだろうなあ。私は細かい精神分析なんか出来ないから、やっぱり直感の話になってしまう。

 例えば、彼に聞いた出生の話。
 実の父と実の姉との間に生まれた近親相姦の子である自分の血は汚れているから、もっと良い血と入れ替えればなんとかなるはずだというロジックについて。
 ヴィルヘルム・エーレンブルグという男は価値観が常人離れしている割に、考え方そのものは論理的だ。だからこそかえって、必死に打ちたてたのであろう吸血の理屈を歪める、無様でみじめな穴が浮き彫りになる。
 よりよい人になりたくて、しかしそのために人間性を棄て去る方法しか選べなかった子供。それが、ヴィルヘルム・エーレンブルグという男の始まりなのだろう。
 端的に、その心と現実は矛盾している。
 しかし、誰が莫迦に出来るだろうか。飢えた子供が求めたのは、きっと最初はただただ、世にありふれた救済の幻想だった。

 彼の欲望はそういうわけで、始まったその時から自己矛盾を起こしているのだと思う。
 自己肯定と自己否定でぐちゃぐちゃになった末に『夜に無敵の吸血鬼になりたい』という渇望をよすがに自己同一化を果たした彼は、『よりよい人間になりたい』という相反する原初の望みを抱えて純アーリア人の血肉を喰らうのだ。しかも論理的思考に長じた彼は、それゆえに自己の矛盾を許さない。だからこそ彼はいつまでも、自分の内にあるちぐはぐな望みを無自覚に黙殺し、見て見ぬ振りで放棄し続けるのだろう。
 そうして、血と肉を撒き散らして、白いSS中尉は終わり無い戦場をふらふらと奔放に渡り歩く。
 いつ自分の飢えは満たされるのかと、不似合いなほどに幼い問いを繰り返しながら。


 知れば知るほど、ヴィルヘルムは哀れな男だった。
 今にして思えば、初めて彼を見たときから続くこの"哀れみ"は、"恋"とだって呼べたのかもしれない。
 白くて奇麗で下衆で哀れな、夜の化け物。
 君はきっと、いつか死ぬその日まで救われることはないのだろう。だから私は、君のことを哀れだと心底思う。思い続ける。こんなふうに他人に頓着したのは、生まれて初めてだ。
 みっともなく足掻く君は、とても愛しい。
 カウンターに上体を寝かされて、ぼたぼたと床に垂れ落ちる自分の血の音を聞きながら、私は視界を覆う霞の向こうに目をこらした。
 興味深そうに私を見下ろして赤眼を細める、獣の仔じみた白い男がそこにいる。

「……ゥ、……ぶ、ぐ」
「あー?」

 くちを開いた途端に、血の塊がぼとぼと溢れた。遠のく意識を辛うじて繋いで、くちのなかに溜まった血を吐き出す。
 ばさりと白髪を垂らしてこちらを見下ろすヴィルヘルムの瞳は、撒き散らされた血の色を映しているためか、まるで真っ赤な星みたいに爛々と光っていた。ぎらつく鋭い犬歯を晒して獰猛に笑う彼は私が最期に何か言いかけていることを察したようで、面白そうにゆるく首を傾げた。

「ハッ、最期まで色気のねぇ女だな。んで? なんか遺言があんなら聞くだけ聞いてやる」
「ごほっ、ぉ……ぁ」

 私は、最後に残った命の全部を使って、機能を失いかけた喉を開いた。無理矢理声を出そうとしたからか、ほっぺたや目元がひくひくする。普段使わない表情筋が、変な感じに疼いた。目にも力を込めたからか、霞がかった視界が一瞬色を取り戻す。

 ヴィルヘルムが、微かに目を瞠るのが見えた。私は今どんな顔をしているのだろう。

 出来る事なら、忘れないでいて欲しい。いつかヴィルヘルム・エーレンブルグという男が死ぬそのときにも、私の哀れみがその白蝋の肌にまとわっていればいい。
 だから最期に、置き土産をあげる。
 察しの悪い女の振りをしていた私についてのほんのささやかな種明かしと、君の旅路への祝福を、ひとつ。



「――きみ、の、望みを、……知っ……ぇ、る――よい、たび、……――を」



 濁る視界の向こう、瞠目したヴィルヘルムが白い眉をひそめるのが見えて、私はそこで、すっかり満足した。



 おしまい。
2014/0620 子葱。

ヴィルヘルムと、察しのいい女の話。

『青い吐息』さんに提出。「君の望みを知っている」で参加させて頂きました。

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