エーレンブルグのつみとばつ 前 | ナノ
胎児の一生

※エーレンブルグ姉弟の幸福とその終わりの話。前編です。
※R18-G。残酷な描写(食人・児童、乳幼児虐待描写など)があります。





 没意味的な羊水の海ですべてをゆるされていた、白い子供の母胎の夢の顛末。



 【 】

 かなしみというものは絶対的で個人的なものなのだからどうあったって他人とわかちあうことなんかできやしないのだと、ヴィルヘルム・エーレンブルグは生まれて4年程度でぼんやりと、しかし疑いようもなく悟った。

 今になっても思いだせるその日の情景に付随する納得感は、ものわかりの良い絶望だった。
 足をちいさく折りたたんで、痩せた膝小僧に白い顎を押し付けるように座り込んだ子供が、ぎょろりとした赤い眼で縦一直線の薄い光を下から上へ睨み上げる。完全な暗闇である戸棚の中で身を縮めながら、橙色のちいさな光源に照らされた戸棚の外側、薄汚れた寝室を窺う。どうしてそんな窮屈な格好をしているのか、その経緯はヴィルヘルムの記憶には残っていない。もしかすると無理矢理押し込められたのかもしれなかった。
 季節はいつだったか。寒くはなかった。しかしむありと湿った戸棚の中は同時に埃っぽくもあり、喉や鼻に入ったそれがちいさな子供のあどけない呼吸を妨害する。ケン、ケン、と野良犬のように咳をし、背を丸めてからだを痙攣させた途端、前のめりになったちいさな白い額がこつんと戸棚の戸、彼の指2本分程度の細さだけ開かれた隙間にぶつかってしまった。
 気付かれるかと、思った。
 その時戸棚の外側の寝室では、ひとりの女とふたりの男がまぐわっていた。
 暗闇に慣れてしまっており、なおかつ生来光に弱いその目は、薄い光にすら眩んでその行為を隅々見ることは出来なかったが、声も物音もにおいも、充満しているなにもかもを、ヴィルヘルムは了解していた。そしてそのうちの女が誰か、ということも、ヴィルヘルムにはわかっていた。
 荒い吐息混じりの声や、ぼんやりと見える裸体による判断ではない。暗闇で喉をつっかえさせ咳を殺すその白い子供にとって、<女>とはただ一人、ヘルガ・エーレンブルグだけを意味する概念であったのだ。
 一方、男の方は誰かわからなかった。当時のヴィルヘルム・エーレンブルグにとっての<女>が唯一ヘルガ・エーレンブルグであったとすると、<男>とは、ヘルガとまぐわっては去り、去ってはまたまぐわりに来るその他大勢に他ならない。
 白い子供のちいさく醜悪な世界は、ひとりの<女>と、大勢の<男>と、そして<自分>でできていた。

『――! ―――っ、――!』

 男の声。男の声。ヘルガの声。男の声。耐えない物音。
 やっと咳が治まり、ヴィルヘルムの細い喉はひくつきながらも呼吸を再開する。くちをおさえていた手がゆっくりと再び足にまわされ、薄く開かれた赤い眼は、まぶしそうに細められたまま細い光をたぐる。
 ぼんやりとした橙色の薄暗がりのなかで、生身が絡んでいるのがわかった。
 咳をしたときは怯んだが、結局その場の誰一人、ヴィルヘルムの存在には気付かなかったらしい。
 よく見えもしない性交を無感動に見遣っていたヴィルヘルムは、そのままこてんと首を傾げて、気付かれなかったことに少し安堵したためか、ねむたくなって目を閉じた。一筋の光さえ失せたまぶたの内のまろい暗闇のなかに、やかましく他者の声が響いてくる。

 暗闇の向こうで、ヘルガは泣いていた。
 そのときヴィルヘルムの狭い狭い世界のなかでは、唯一の<女>たるヘルガ・エーレンブルグだけが、ただひとりあられもなく『ゆるして』『ごめんなさい』と鈴の声を枯らして哀願を繰り返しながらヒィヒィ泣いていた。

 彼女の何がゆるされなかったのか、それはわからない。
 その日のヴィルヘルムが何故そんなところに押し込められて身を縮めていたのかわからないのと同様に、彼らを苛んだ状況の合理的な経緯なんてものはきっと、永劫誰にもわからないのだろう。
 ヘルガの泣き声がけたたましくなり、またしぼんでいき、力無い啜り泣きになっていく間、ヴィルヘルムは暗闇のなか、赤い眼を閉じてジッとしていた。とろとろとしたあどけない眠気のなか、たまに喉の奥が埃でいがらっぽくなって目が覚める。目が覚めるとヘルガはまだ泣いていて、ああ、と、思うのだ。ヘルガは泣いている。ヘルガだけが泣いている。あるいは、ヘルガにしか泣けない。『かなしみ』というやつは、ヴィルヘルムにとって、そういうものだと実感された。

 ――めにみえねぇんだから、そりゃあ、わけあうなんざむりだわな

 深まるまどろみに伴って、暗闇の世界が音を遠ざけ始める。こと、と、まるい頭が戸棚の内壁にもたれかかった。色素の無い白髪がくしゃりと乱れ、綿埃を引っ掛ける。もう一度だけケン、と咳いて、それぎり、まぶたの内の暗闇は静かになった。
 消えた向こう側でその後も泣き続けたかもしれないヘルガ・エーレンブルグという売女は、彼の母であり、姉であり、唯一無二の<はじまりの女>であった。




 【腹】

 犬の頭は猫のそれより砕き難かったが、ヴィルヘルムはすぐにこつを掴んだ。聡い子供だった彼は、誰に教えられるでもなく、器用に、凶暴に、そのくせ花びらの数を確かめる幼子ようなある種の無邪気さをもって、それを実行していた。
 8歳ほどの頃である。明確な年齢はわからない。ヴィルヘルムは自分の生まれた日を知らなかった。

 夜中に出歩くようになったのには、まず夜なら出歩けることを習慣的に学習していたことが前提にあった。それに加えて、ヘルガが数日通して男達に囲われていたとき、放置され続けたヴィルヘルムが『何か食べないと死ぬ』という飢餓を経験したことが契機となったのだ。
 ほったらかしにされたヴィルヘルムはカーテンを閉め切った部屋の隅に転がって昼間を過ごし、空腹に耐えかねると寝室の前の廊下をこっそりと移動して台所へ行って、調味料でもカビの生えたパンでも虫食いのチーズのかけらでも何でもいいから食べられるものをむさぼった。ヘルガや男達が酒や食べ物を寝室に持ち込んでいるらしいとはわかっていたが、くれと言って素直に貰えるわけがない。良くて殴打。悪いときには、くちに手指やら性器やらを突っ込まれたこともある。そんな変態にはち合ってしまったのは覚えているぶんで2回だが、いつからかヘルガを"買いに"来る男達に極力見付からないようにすることがすっかり習慣化していたわけだから、それを習慣とせねばならないとヴィルヘルムが気付くまでの記憶に残る以前の期間にも何かしらの暴行はなされていたのだろう。
 幾日目かの酒池肉林の狂騒を壁越しにボンヤリと聞きながら、ヴィルヘルムは今男達の真ん中で喘いでいる母であり姉である女がまどろむような声で語ったいつかの言葉を反芻していた。

『ヴィル。おそとはね、あぶないのよ』

 股の間から垂れる精液を拭って、水で流して、思い出したようにヴィルヘルムに微笑みかける。少女の人形遊びにも似た行水だった。夜が終わりかけ、朝日も未だ昇らない時間。ヘルガの"仕事"が終わり、ヴィルヘルムが眩しがる光もまだ無いそのわずかな合間は、この母子であり姉弟でもあるふたりの子供の時間だったのだ。
 ヘルガは自分に害を加えないということを、ヴィルヘルムは知っていた。だから、不安定な"仕事"と父の介護に身をやつす彼女から合間合間の気まぐれのように与えられる庇護や恩愛めいたものは、特に抵抗もせず享受していた。
 目を閉じて、と、囁かれる。痩せぎすな白い子供はきゅっと言われるままに赤い目を閉じる。じゃぼじゃぼと、頭から細く水をかけられた。水がやむと、ごわつく布を顔に押し付けられる。擦らずに何度も根気良く押し付けて、女はくすくす笑った。

『こうした方が、お肌に良いんですって。ヴィルはやさしくてせんさいな子だもの、だいじに、だいじにしなくっちゃね』

 だからひとりで体を洗う時もこうするのよ、と言い聞かせた女に、もういいかと赤い眼を薄く開けて眉間にきゅっと皺を寄せた子供は『ん』と短く返した。その答えに満足したのか、目の前のぱちりとした瞳がとろり、笑みに溶ける。

『姉さんといっしょのときは、姉さんがやってあげるからね』

 彼女は自分のことを「姉さん」と呼ぶときと「母さん」と呼ぶときがあった。ヴィルヘルム以外が相手のときはもっぱら「私」が一人称だったが、彼相手のときだけは定まらなかった。彼女なりの使い分け基準があったのかもしれないが、ヴィルヘルムにはわからずじまいだ。そもそも「母」や「姉」という区分すら、曖昧と言えば曖昧だったのだ。
 外は危なくて、家族はなによりだれより大切で、体を拭うときには擦らない方が良くて、よその人や"お客さん"には怖いひともいるから、ヴィルヘルムはもし友達ができたらヘルガに一度会わせてみなくてはならなくて、他にも、いろいろ。
 ヘルガはしばしば、本当かどうかもよくわからない呪文じみた教えや守られるかもわからない約束事を、ヴィルヘルムに、噛んで含めるようにていねいに言い聞かせた。そうして「ん」と無愛想に顎を引いて応じる小さな白い顔を両手で包んで、「ほんとうにヴィルはいい子ねぇ」と頬擦りする。耳にかけられていた女の髪が、幼い赤眼の前でさらさら揺れた。
 ばかだなあと、ヴィルヘルムは思っていた。
 外に出るのは、昼間は無理だが夜なら容易い。体を拭くのだって、ヘルガがいないときのことがヘルガにわかるわけがないのだから、律儀に約束を守ってやることなんかない。"友達"というのが何かはよくわからなかったが、わざわざ改めて会わせる必要性も無いだろうと思っていた。ヴィルヘルムが知る世界は<自分>と<ヘルガ>と<ヘルガを抱く男達>に限定されていたのだから。

 ヘルガ・エーレンブルグは、ヴィルヘルムにとって、何一つ害を与えない唯一の他者だった。
 強制力を持たず、暴力もふるわず、無力で、そして頭が悪い。"家族の愛"という神話を心の底から信奉する、あさましく汚れた淫売。それが、幼いヴィルヘルム・エーレンブルグにとっての<女>そのものでもあった。

 その頃、ヴィルヘルムにとって自分が男であるという実感は乏しかった。<男>というのは、ヘルガを殴り、ヴィルヘルムを殴り、股座を晒してグロテスクな行為に没頭するのが頭と本能のすべてを占めた生き物であり、ヴィルヘルムにはそんな趣味も欲求も無かった。ゆえに、ヴィルヘルムは<自分>を、<女>とも<男>とも同一視していなかったのだ。
 強いて言うならば、害の無い<女>であるヘルガの方が<男>よりはマシであるとし、ある種の親近感めいたものを持っていたかもしれない。
 具体的ににそういった理解が彼にあったわけではないが、曖昧な認識は、自分の行動や他者からのはたらきかけへの許容範囲を心の根元で潔癖に選別し、決定する。
 結果的にヴィルヘルムは、ヘルガという存在が自分に甘やかに密着することも、そうして言い聞かされるたわ言の羅列も、彼女が『わたしたちは家族なの』『だからとくべつ仲良くしていなくちゃいけないのよ』などと当然の顔で規定することも、限りなく許容していた。「ばかだ」と思い、内心では日常的に蔑みながら、ヴィルヘルム・エーレンブルグはヘルガ・エーレンブルグの抱擁を甘んじて受けていたのである。
 それは積極的ではないにせよ、いびつな母と子、姉と弟の、惰性じみた相互肯定の様相を呈していたと言える。


 そんなヘルガの言いつけをやぶって夜中にひとりで外を出歩くことは、ヴィルヘルムにとっては当初、大したことではなかった。そもそも、ヘルガのことをかえりみる余裕も無い飢餓状態で始めた行為である。
 しかしそうして出た暗い野外で路上生活者から食い物を盗み、それでも足りず石畳の隙間から生えた草を千切って食べ、なお足りずに小動物を石で叩き殺して毛をむしって肉をくちに押し込んだとき、痩せっぽちなアルビノの畜生児は赤い眼をぎらつかせて丸めた背筋をぞくりと震わせた。
 その夜の捕食行為は、幼い彼にとって、はじめての略奪であったのだ。
 血とえぐみのある内臓の味をジャリリとした砂といっしょに噛み締めながら、白い子供は自分のあるべき場所をようやく見つけたような気がしていた。

 ――アア

 目を焼き皮膚をあぶる致死の光も無く、暴虐を投げつけてくる<男>達も今ここにはいない。
 ぐちゃ、ぐちゃ、とくちのなかで転がる鼠の死体を一度掌に吐き出し、再度噛み千切りながら、ほとんど無心の獣になり変わったこの子供は、自分がこうして暗闇のなかで汚い肉を喰うことをすっかり当たり前のことのように感じていた。それまで夜の一人歩きを禁じられていたことも忘れて、攻撃的かつ野生的な主体性を持つことをはじめて許されたちっぽけな生は、自分の内にはじまった焼けるように熱い脈動に酔った。

 ――夜だ。……夜が、おれの時間だ

 ほんとうを言うとその瞬間、彼の生きる道は決定したのかもしれない。
 夜の化物としての自覚を、白い子供は既に淡く獲得していた。聡い子供だったヴィルヘルムは、一匹鼠を殺したら、もう鼠狩りのうまいやり方を理解した。他の生き物についても同様である。極度の飢えに端を発した人間離れした狩猟本能は、彼の生来のセンスと結託して、ずば抜けた暴力の才能を花開かせつつあった。
 しかし、である。
 それでも彼は、その夜が明けない内に、ぺたぺたと歩いて家に"帰った"のだ。
 汚れた"お花屋さん"。ヘルガと、彼女の肉体を弄ぶ男達が互いの肌を舐めあう生家に。吐きそうにえづきながらも腹を満たした子供は、血に汚れたはだしで冷えた石畳を踏みしめて帰宅したのだった。


 その夜も、またそれ以降にも、自らの才能に裏打ちされる「夜の底でならひとりっきりで生きていける」という事実に、ヴィルヘルムは無自覚であった。
 昼間は家の隅で身を縮めて影の内で憎たらしい太陽光線をやりすごし、夜になったらヘルガの"仕事"を尻目に外に出る。
 出来ることはみるみる増えていった。猫を殺せるようになり、野良犬を殺せるようになり、路上生活者を殺せるようになり、――暴力の才能を持った子供は、一度の殺害であらゆることを吸収した。一を殺して十を喰う。最初の内は吐いたり腹痛をきたすこともあったが、身体はすぐに彼の新しい"食生活"に順応した。そのうちますます夜の自由に浮かれたヴィルヘルムは、他人の家に忍び込んで赤子を盗み出す"遊び"まで覚えた。彼はすっかり夜の徒であった。
 自分に似た生き物で自分よりもちいさいもの、というのは、模造品として興味深い。ある意味で鏡像の実感にも似ている。人形遊びの感覚で、ヴィルヘルムは機嫌よく歩きながら片手にぶらさげた乳幼児のやわらかな腹を顔に寄せ、クンクンとにおいをかいだりした。なんとなく甘いにおいがして、すり、とへそのあたりに、病的に白い鼻筋を寄せる。
 ずっと宙ぶらりんにされている赤子はやわい両手をきゅうと握りこぶしにして、オギャアオギャアと泣いていた。もうその赤子が数十分前まで産着にくるまれて眠っていた家からはとうに離れ、街外れの廃屋のところで急な石階段を降りて用水路にまでやってきていたため、水音に掻き消される泣き声はヴィルヘルム以外の誰にも届かない。

「こらぁ、うるせぇぞ」

 鼻で笑いながら話しかけることすら、この"遊び"の一部だった。無自覚にヘルガの真似でもしているのか、声はくすぐったい甘みを含んでいる。そんなふうに他者に話しかけるのははじめてで、白い畜生児はまた浮かれ、ひひひと笑った。
 片方の足首を持ってぶら下げられた乳幼児のふっくらと丸い顔は、血が上って真っ赤になっている。その額、やわらかな髪の生え際のあたりに鼻筋を寄せ、ヴィルヘルムはまたクンクンとにおいを嗅いだ。汗ばんだ柔肌とやわく逆立った産毛からは、やはり甘いミルクのようなにおいがした。泣き声とともに吐かれる熱い息も、それと同じようなにおいがする。
 ヴィルヘルムは一度顔を離し、こてんと首を傾げた。白い髪が、黄金色の淡い月光を乗せてさらりと揺れる。赤い眼は不思議そうにぱちり、まばたきして、目の前の赤子の皺の寄った眉間をまじまじと覗き込んだ。

「へんなにおいだなァ、おまえ」

 呟いて、片手でぶらさげたそのちいさなやわらかい身体を、ぶん、とふりかぶる。
 そのまま水路のふもとにねらいを定め、生き物を殺すことにすっかり馴れた白い子供は、わけもわからず泣き続ける赤ん坊を無感動に振り下ろした。
 頭が割れて、ぱっくり割れたそこからぶしゅっと溢れた血が水路に流れ出すのを、その血と同じ赤色をした目は冷静に観察する。逆さ吊りにされて頭に集っていた血が、決壊した血管からぼどぼど迸る。水路を流れる水にできた赤い血の筋を横目に見遣って、泣くのをやめたぬるい肉塊に視線を戻し、ヴィルヘルムは先ほどと同様に、腹や額のあたりに白い鼻筋をすり寄せた。
 スン、と、息を吸う。あー、と開いたくちから出した舌で、垂れ続ける血を犬のようにぺろぺろ舐め取ってもみた。甘かったにおいに、ねばっこい鉄のにおいが絡む。血でべっとり塗れたくちびるを片手の親指の腹でぬぐって、変声期も迎えていない少年の声は掠れた呟きを落とした。

「ハ……なぁんだよ。思ってたよりあまくねぇのな」

 甘いにおいがしたから、血肉も甘いものかと思った、と。
 無邪気な感想をこぼした後、においと味のギャップにやはり納得いかずくちびるを舐めながら不思議そうにフンフンにおいをかいだり、腿のやわらかな肉に、あぎ、と歯をたてたりしつつ、ゆっくり時間をかけて、ヴィルヘルムは赤ん坊の死骸を遊び半分に喰い散らした。
 頬肉をぐちぐち咀嚼しながら、作り物のようなちいさな耳朶を指でふにふに弄る。腹を食い破っているとき直腸からこぼれた乳幼児特有の白い便には、「クソだよな、これ? ぎゃはっ、セイエキみてぇ!」とケラケラ笑った。血と混じってピンク色になるその色彩が、彼の赤眼には不思議とよく見えていた。昼間は光に潰されてあまり使い物にならない目玉であったが、夜にはあらゆるものが鮮明に映るのだ。
 カシ、と歯にあたった頭蓋骨は、額のあたりに穴があった。そこに指を突っ込むと、ぶしゅぶしゅと脳漿が指を飲む。盗んだ当初よりずいぶんと軽くなった赤子で未だ名残惜しく遊びながら、腹を満たして一息ついたヴィルヘルムはぺたぺたと石階段を上がり、用水路沿いの通りを外れて郊外の貧民街にある自宅を目指し始めた。
 白い子供は、そうしてまた、ちいさな足で荒れた我が家に帰宅する。
 夜中に捕食したものの遺骸や骨などの残骸は、家の裏手にあった空き壷に入れたり、その付近にまとめて埋めた。


 夜になりさえすれば、ヴィルヘルム・エーレンブルグは、醜悪なまじわりから産み落とされた弱くてみっともない異端の畜生児なんかでない、もっと強い何かになれた。
 そんな高揚感を抱きながら、しかし彼は、躾けられた犬のようにいつだって自分の家に帰っていた。ヘルガの「外はあぶないのよ」という幾度目かもわからない言葉には、「ん」と素直に頷いていた。そうして「ほんとうに、わたしのヴィルはいい子」と感極まったように頬ずりされ髪を梳かれるのを、拒否するでもなく甘んじて受ける。
 内心では以前より更にヘルガのことを愚かで無知で察しが悪い<女>だと嘲笑しながら――それゆえに、とも言えるかもしれない――ヴィルヘルムは相変わらず、ヘルガのことを無防備に受け入れていた。

 翳った部屋の隅で、精液や汗のにおいに濡れた少女じみた女と、痩せて薄汚れた白い子供がぴとりと肌を密着させ、混ざり合おうとでもするかのように痛んだ皮膚を擦り合わせる。

 それは積極的ではないにせよ、いびつな母と子、姉と弟の、惰性じみた相互肯定の様相を呈していたと言える。
 更に換言するならば、不器用で背徳的な抱擁。
 ヘルガは家族の愛に執着するにあたって、愛しい我が子であり弟であるヴィルヘルムに強く依存していた。
 そしてヴィルヘルムもまた、その依存を許容し、その抱擁に白い腕を回して応じていたと言える。姉、あるいは母を、彼女からの愛をそっくり鏡映しに返すように愛するという能動的なやり方でなくとも。
 だってヴィルヘルムは、夜の底でならもうじゅうぶんに、ひとりっきりで生きていけたのである。
 理不尽に虐げられる汚れたこの生家よりも、もっとずっと彼にとって生きやすい所はあったのだ。選ぶことは出来た。それなのにこの聡い子供は、あらゆる残虐な学習には並外れた洞察を持ったくせに、こんな簡単なことには無自覚のままだった。
 ヘルガ・エーレンブルグを拒絶するという選択肢は、彼の認識の外側に追いやられていたのだ。

 それはすなわち、ヴィルヘルム・エーレンブルグという小児の自己認識の反映である。
 幼く狭い彼の世界は、<女>たるヘルガと、不特定多数の<男>達、そして<自分>で構成されていた。そうしてヴィルヘルムの自己は、<男>よりは<女>に――その他大勢の雄よりは、唯一絶対的にヴィルヘルムを肯定し無批判的な愛を注ぐヘルガ・エーレンブルグに身を寄せていた。

 ヴィルヘルムが「夜の底でならひとりっきりで生きていける」という事実を無自覚に獲得したとき、すでにその自己は、ヘルガという<はじまりの女>と融解し、癒着しはじめていたのである。
 抱き合った両腕の皮膚が互いのそれに食い込み、交わり、ひとつながりになってしまって、筋肉や血管、内臓もぐずぐずと繊維状にほぐれ、ひとつながりの皮膚の内側で互いのそれと絡まりあい、やがてひと揃いの人体が出来上がる。そういう幻想が、エーレンブルグの母子であり姉弟であるふたりの現実であった。――少なくとも、ヴィルヘルムの側からすると。ヘルガの依存を許容し、それがある種の共依存に昇華したとき、ヴィルヘルム・エーレンブルグが<ヴィルヘルム・エーレンブルグ>であるための不可欠の要素として、<ヘルガ・エーレンブルグ>は見事に彼の懐に入り込んでいた。
 それは、夜の彼が獲得した攻撃的かつ野生的な主体性とは真逆のものである。言ってしまえば、飼い殺しにされる悦。
 没意味的な羊水の海で、すべてをゆるされる母胎の夢。
 外でいくら好き放題の暴虐を覚えても、結局ヴィルヘルムの精神はこの幻想にとらわれていたのだ。だから、血塗れの身体を引き摺って、この饐えた羊水にふたたび、みたび、幾度でも、幾度でも回帰する。
 まるで世界の終わりのような、爛熟した愛だった。
 それでもその幻想には、穴も、不完全も、矛盾も、その時点ではありはしなかったのだ。少なくとも、ヴィルヘルムにとっては。あえて挙げるならヴィルヘルムがヘルガの言いつけを破って夜中に外に出ていることは彼女に対する裏切りであったが、ばかな彼女はそのことには気付かない。ゆえにふたりの関係性の完成度は揺るがない。ヘルガは「家族がいればそれで幸せ」などと臆面も無く笑う女であったのできっとそういう細かな矛盾なんかには気をやらなかっただろうが、ヴィルヘルムは違った。聡い子供であったがゆえに、自己の破綻を許せない。
 ヘルガの愛が完成した幻想であったからこそ、彼はそれを純粋な狂気のたゆたう心の底で素直に受け入れ続け、この汚い"お花屋さん"を自らが回帰する場所に定めたのだ。
 具体的な理解は無くとも、ヴィルヘルムは生来、直感のレベルでの感覚を論理的な判断に適用することが出来た。白い子供の冴えた洞察と、そこから導き出される的を射た暴論を理解できる者は、そのとき彼の周囲にはひとりとしていなかった。そのことも、彼がヘルガや他の男達を「ばかだ」と思って嘲っていた一因である。

 ともあれ、ゆえに、ヘルガはヴィルヘルムを愛し、ヴィルヘルムは素直に――嘲り、ばかにしながらも、心の底ではあどけなく女を信じるがゆえの従順さを持って――その愛を受け入れる。
 互いの波長がかみ合ったがゆえの、それはひどく幸福感に満ちた悲劇だった。


「ふふ、うふふ。ヴィル。かわいい子。今日はねぇ、お父さまがわたしを愛してくれるのよ。ヴィルはまだいっしょにはできないけれど、湯浴みはいっしょにしましょうね」
「……ん」
「いい子。ん、ふふ。くすぐったい?」
「くすぐったい」

 翳った部屋の隅で、精液や汗のにおいに濡れた少女じみた女と、痩せて薄汚れた白い子供がぴとりと肌を密着させ、混ざり合おうとでもするかのように痛んだ皮膚を擦り合わせる。
 人形遊びにも似た、ひどくいびつで切実で、完成された情がそこにはあった。




 【膣】

 巷に凶悪犯だか亡霊だかの噂が流れ始めたのは、ヴィルヘルムが夜に外に出るようになってから3ヶ月ほど経ってからであった。1年経ち、2年経ち、噂は消えず、ますますまことしやかに人々の話題にのぼるようになった。
 赤ん坊を狙って盗む亡霊。消える路上生活者。野良犬などについては多くの人々は気にも留めていなかったが、見るものが見れば減少に気が付いたかもしれない。
 それらすべての犯人が10歳程度の子供ひとりであると、誰が想像しただろうか。それも色素欠乏の、痩せこけた、外見だけならどう見ても虚弱児である。もっとも、この見た目だけで『悪魔憑き』と詰られることもあったのだが、この上真実を知った者は憑依云々どころでなく『悪魔』と、単純に罵るかもしれない。ものごとが純化すると、それだけ言葉は少なくなる。
 そんな真実はヴィルヘルム本人以外誰一人知らなかったので、太陽の光にすら身を竦ませる"やさしくてせんさい"な我が子を、ヘルガは当然のように心配した。

「近頃、おそろしい噂を聞いたのよ。ああ、怖いわ。かわいいヴィルがさらわれたらどうしましょう」

 西日から逃げてベッドの影に座り込んだヴィルヘルムの肩を抱いて、頭をこつんと合わせて、ヘルガはため息を吐く。ヴィルヘルムの赤い瞳は、埃に乱反射するくすんだ光によって周囲のものをぼんやりとしか映さない。虚ろな目で愛撫されるがままの白い肌に、ヘルガがそっととくちびるを寄せ、ちゅ、と、吸った。「ン」と身じろいだ細い肩に、目を細めて笑ったヘルガはするすると手を這わせる。

 ――早く夜になれ、早く夜になれ、早く

 そのときヴィルヘルムが頭の半分で考えていたのは、そんな呪文じみた言葉の羅列。もう半分は、何一つ気付けないヘルガへの嘲りが占めていた。
 今お前がしなだれかかっているガキがその噂の亡霊だよと、声には出さずに笑う。ニィ、とくちびるをゆがめて薄い笑みを浮かべる我が子に、愚かな女は気付かない。

「ヴィルぅ」
「うん、ん。なんだよ」
「お外は、やっぱり危ないわ。あなたはだれにもいじめさせない。母さんが守ってあげる」

 今日は「母さん」の日か、とぼんやり聞き流すヴィルヘルムにゆっくりと体重をかけ、自分のてのひらを白い痩せたてのひらに合わせ、指を絡めて、ヘルガは目をしばたかせる我が子を床に横たえた。
 ぱさ、と、やわらかいキャラメルじみた色合いのブロンドが、ヴィルヘルムの色素のない真っ白な初雪の髪に垂れる。至近距離で翳ったヘルガの蕩けた表情をジッと見上げて、ヴィルヘルムは「姉さん」とちいさくくちを開いた。意地悪のつもりであえて今しがたの一人称と違うものを使ってやったのに、ヘルガは気にもとめずに「なあに」とやわらかな胸をヴィルヘルムの胸骨のあたりにふにりと押し付ける。こういうところで、ヴィルヘルムはヘルガの察しの悪さや愚かしさを確認する。
 彼は愚鈍な彼女のことが心底疎ましかったが、しかし嫌いではなかったのだ。
 だから、寄り添って身体をすり合わせられても構わない。ばかだばかだと嘲りながら、その愚かしさと体温を確認する。
 そんな夕暮れどき。硬い床に溶け込もうとするかのようにぴったりと折り重なりながら、ヘルガは甘ったるい声で囁いた。

「わたしが、守るから――ヴィルは、だから、お外のことなんかなんにも知らなくていいの。ね、ずぅっと、ここにいてね」
「……」

 おまえはばかだ、なにもしらない、と。
 思いきり笑い飛ばしてしまいたかったが、きゅうきゅうと圧迫される胸は呆れた息を吐くだけで、結局嘲笑は声にはならなかった。


 ヴィルヘルムが腹の内にいたとき、ヘルガは父以外の男との関係を極力絶っていたらしい。聞きもしないのに誰かに聞かされて、ヴィルヘルムはそんなことを知っていた。
 流産をしないように。また、出来る限り父の精を純粋に受肉させるため。ヘルガはそのとき、半ば以上気が狂っていた、と。
 ヴィルヘルムに言わせれば、今だって変わらず気は変だし頭は終日沸いている。
 ヘルガ・エーレンブルグは、よくわからない人間だった。ヴィルヘルムはそんな不可解を、「女はばかだからだ」と納得していた。

 夜になったらヴィルヘルムは、そんなヘルガも、ヘルガを貪る男たちもなにもかも置き去りに、自分が王様の真っ暗闇に凱旋できた。
 だから昼の間は、身を縮めて時間が過ぎるのをじりじり待ちながら、呪文のように繰り返し願っていた。早く夜になれ、早く夜になれ、早く夜になれ。
 早く

「うわ。噂にゃ聞いてたけど、本ッ当に気色悪ィガキだな」

 日の光から逃げて棚の影で膝を抱えていた白い子供を、ひとりの男が見下ろしていた。

「ヘルガの弟なんだろ? ハッ、ツラはあいつ譲りの上玉でもこりゃゲテモノすぎるわ」
「おい、どうした? 何かいるのか」
「おー。ヘルガちゃんの宝物、見っけたンだよ。いっつもどこ隠れてんだあ? なあ?」

 持ち上げた足で、肩をぐいと蹴られる。膝を抱えていたからだが後ろに仰け反った。そのまま更に足に力を入れた男は、ヴィルヘルムの肉付きの薄い肩を壁にぐっと押し付ける。「ア」と思わず声をもらして、ヴィルヘルムは赤い眼で男を睨み上げた。
 にやにやといやらしく笑う男の後ろから、もうひとり中肉中背の男があらわれ、ヴィルヘルムの姿を見て「うわ」と眉をしかめるのが見えた。その間にも底の磨り減った靴がヴィルヘルムの肩から鎖骨の辺りをぐいぐい遊び半分に圧迫してくる。
 これくらいの男なら、もう何人も喰ったことがあった――夜、外でなら。

「……はなせ」

 今はこの影の外に出たくない。ちいさく身じろいで片手で靴をどかそうともがくヴィルヘルムの抵抗は、控えめにならざるをえなかった。
 そんな幼い反応に、男は「ヘルガと違って生意気だし」とくちもとを歪めて笑う。そのまま足を持ち上げ、しかめ面をしていたヴィルヘルムの横っ面を蹴り上げた。
「ぎぁっ」と呻いたヴィルヘルムは、脳を揺らされてこてんと床に身を倒す。反射的に身を起こそうとしたが、めまいによって冴えない動きでは大のおとなに敵わない。脇腹を蹴られると、軽い身体は壁に叩きつけられてべしゃりと落ちた。

「けふっ、げふっ、ぃあ、あ」
「おーい、ヘルガに怒られるんじゃねーの」
「そうかあ? べっつに、ケツ掘ろうってんじゃねえしさあ、いいだろ遊んでやるくらい」
「は、ふ……ぁがッ、!」

 言って、靴の爪先を咳き込んでいたヴィルヘルムのちいさなくちにねじ込んだ。喉の奥を突かれて赤い目を見開いた子供の無防備な反応に「感じるかあ?」と戯れながら、ちいさな丸い頭が壁にごつごつぶつかるまで足を突き出す。床に擦れる白い頬が擦り剥けて、床に薄く血がついた。息が出来ずに手足をばたつかせるヴィルヘルムは、後ろの男がヘルガの所在を気にしてか少しずらしたカーテンの隙間から差し込んできた日光にびくりと身を竦ませた。

「ぅ、ふーっ、」
「お?」

 暴れようとしたところでぎゅっと目を閉じて呻いた子供に、男は怪訝な顔をする。ぐい、とくちに突っ込んだ足を動かして「なんだあ?」と問う男を、ヴィルヘルムは苦しげにすがめた目でもの言いたげに睨み上げた。
 そのまま、ぎち、と思い切り歯をたててやると、「うおっ、痛ェ!」と喚いた男が無理矢理足を振り抜き、喰らいついていた畜生児はまた壁にたたきつけられてゲホゲホとむせた。
 異物を取り払えてようやく呼吸が出来るようになったくちから舌を垂らして荒く息をし、両手をついて獣じみた動きで身を起こしながら、ヴィルヘルムは考える。

 ――早く夜になれ、早く夜になれ、早く、早く夜に

 飛び退いて、どこか日陰に身を隠してしまおうとするのを察知してか、痛む足を抱えて片足飛びしていた男は「てめぇっ」と顔を真っ赤にして目をむいた。

「舐めやがって、悪魔憑きの犬畜生がっ!」

 激昂した男は空っぽの棚をむんずと掴むと、走り去ろうとした薄い背中に投げつけた。「おいっ」ともうひとりの男が声をあげた直後、痛んだ木の棚は痩せた子供を巻き添えにして壁に叩きつけられた。
 ぎゃんっ、と、犬のように啼いたヴィルヘルムは、再び床を這いながら即座に自分の状況を理解して、細い腕で頭を抱え、うずくまり、身を縮める。日の光に眩む目と脳を揺らされてふらつく足では逃げられないという事実に、彼の優れた直感は冷静に対処したのだ。
 暴力に馴れきった身体を、その予想通りに、怒り狂った男が踏みつけ、蹴り込む。
 舌を噛まないようにと歯を食いしばって短く呻くヴィルヘルムは、日の光よりはずっとマシなその暴虐をひたすらジッと耐えた。


 その後、ヴィルヘルムが日光に怯えていると気付いた男がこの色素欠乏の子供を外に放り出してみようと言い出したとき、出かけていたらしいヘルガが帰宅し、この騒ぎを見つけ、発狂した。


 彼女がドアを開けたのは、痣だらけで顔に擦り傷まで作った我が子が首根っこを掴まれながら「嫌だ、離せ、ころすぞ!」と喚き散らして本気の抵抗をしようとした瞬間である。
 それを見たとたん、目をまるく見開いたヘルガは「な、に?」と呟いた。
 それから「なにを、してるの?」と、震え声で問いを繰り返す。
 甘ったるい囁き声かあられもない喘ぎ声ばかりあげてきたそのくちが、次の瞬間「なにしてるのよおおッ!?」と金切り声を迸らせた。

「なにしてるの、ねぇあなたたちなにしてるのよ!? わたしのヴィルに、なにをッ――よくも、こんなっ、ああ、あああああああ、あああああああああ」

 買い物をしてきたらしい荷物を放り出して、ヘルガは両腕を突き出し、我が子と男の間に割ってはいる。ぎょっとした男からヴィルヘルムを毟り取って、どこか欠けていないか確かめでもするようにその全身を擦り、撫で回しながら、ぱっちりとしたその目からはぼろぼろと大粒の涙を溢れさせた。
 そんなヘルガの様子を見て、今しがたまで本気で目の前の男を殺そうとして興奮に火照っていた幼い身体が少しずつ冷めてゆく。殺気がほどけ、されるがままに身体を揺さぶられながら、赤い眼はなんだか眠たげに落ち着きを取り戻していた。
 みっともなくてばかなヘルガを見て、無遠慮に触れられて、ヴィルヘルムは心のどこか――底に近い無意識の部分で――かすかに、安堵したのだ。

「ヴィル、ああヴィル! わたしが見える? 痛いところはない? おかしくしたところは? こえ、声を聞かせて、喉や首はだいじょうぶ?」

 自分こそわなないて枯れそうな声をしながらぺたぺたと傷付き汚れた白い頬を撫で回してくる<女>――母であり姉であるヘルガ・エーレンブルグに、ヴィルヘルムは眉を寄せ、いやみなような、あるいはただ不器用なだけにも見える笑みを返した。

「……ねえさん」

 お前は本当にばかだ、と。
 こころのなかでそう続けられた呼びかけに、ヘルガは感極まったように頬を赤くし、くしゃりと目を閉じると「ヴィルぅ、ああ、そうよ姉さんよ」とうわ言のように言いながらふらつく矮躯をぎゅうっと強く抱き締めた。痣のできた白い肩に目元をぐりぐり擦り付けられて「いてぇ」と呟いた声はこの頭のおかしな女には聞こえなかったようで、ヴィルヘルムはそのまま身勝手に悲しむ体重を受け、むしゃぶりついてくるヘルガもろとも床にぺたりと座り込むことになる。
 ヘルガの肩越しに、男達が、今になって自室から出て来た片足の無い父に「厄介なことをしたな」と低く言われているのが見えた。

「あれの機嫌を損ねた」

 父も父で、気が狂っている。
 びっこをひいてわざわざそれだけ言うと、「昔からそうだ、結婚したときから、あれは頑固だった」だの「痛い、おお足が痛い、死んでしまいたい」だのとぶつぶつ言いながら、ヘルガが放り出した荷物から酒を取り出し、また杖をついて自室に戻って行く。父と他の男達の違いを、ヴィルヘルムはひとつも見出せていなかった。ヘルガは「おとうさまは"家族"だから、ヴィルにとっても特別なのよ」と言ったが、ヘルガのように接してくるわけでもなく、たまにじろじろ顔を見られてわけのわからないことを言ってくるだけの<男>である。何がどう特別なのか。
 ヘルガが自分だけでなくあの「父」という男も特別だと言うのは、ヴィルヘルムにとって、あまり面白くなかった。

 ともあれこのときは、ヴィルヘルムをいたぶった男はもうひとりの男になだめられてどこかへ失せ、部屋には傷だらけになったヴィルヘルムと、少し涙が落ち着くと今度はヴィルヘルムの服を捲り上げて痣で斑になった白い肌にキスを落とし始めたヘルガだけになったので、ヴィルヘルムは疼痛と鬱陶しさと触れるくちびるのくすぐったさに「うー」と呻りながら、ようやっと、じゃれる獣の仔のように警戒心を解いたのだ。
 早く夜になれ、と、切実な呪文を頭の隅で唱え続けながら。


 その日、ヘルガは顔をしたたかにぶたれながらも"仕事"を拒み、最終的には泣いて懇願し、「3人だけ」で許してもらった末に、夜半からは精液臭い身体をそのままに、ヴィルヘルムと添い寝をした。
 そのせいでヴィルヘルムはその夜は外に出られなかったし、夜になると利きが良くなる鼻に精液のにおいが刺さるし、痛む身体をしつこく撫で回され、まったく落ち着かなかった。せっかくの夜が台無しというものだ。

「姉さん、あつい」
「熱がでてるのかもしれないわ。ふふ、だぁめ。ちゃんとおふとんをきて、姉さんから離れないで」

 むずがるヴィルヘルムにくすくす笑いかけて、ヘルガはまたすりすりと頬ずりする。むっと皺を寄せた白い鼻筋に端の切れたくちびるをちゅ、と押し付け、我が子のまるい額をするりと撫でると、そのまま初雪の色の前髪を梳いた。間近に感じるヘルガ・エーレンブルグからは、血と汗と精液と他の何か、酸っぱいにおいがした。
 どこまでもみじめな女だと、ヴィルヘルムは思う。
 爛熟した愛のまんなかで、まどろむように、彼女は笑うのだ。ほろり、ほろり、両目から涙の玉を転がしながら。

「――ヴィルは、お外のことも、なんにも知らなくていいから。ねぇだから、ずぅっと、ここにいてちょうだいね」

 "ここに"と。何を思って彼女がそう言うのか、それは知れない。ばかの考えることはわからない。
 ただ、夜の方がよく見える赤い眼でヘルガの目を見詰め返して、ヴィルヘルムはぼんやりと、アアこいつの目はこのまえ喰った赤ん坊の目の色に似てるな、と、思った。思いながら、「ん」と、無愛想に声をもらす。

 ――ずうっとここにいてちょうだいね

 ひとつながりになる皮膚の幻想、もつれて絡んで溶け出す内臓。羊水の海がとぷりと揺れる。

 ――そんなの、おれが姉さんに言うことだ

 なんとなく、そう思った。
 すべてを肯定されまどろむ白い子供は曖昧な思考を片手に母胎の夢の底に沈みながら、母であり姉である女のまるい肩に軽く歯をあてた。




2014/0530 子葱。

胎児の一生。
前編、終わり。

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