胎児の一生
※エーレンブルグ姉弟の幸福とその終わりの話。後編。
※R-18。性描写・殺人描写があります。
夢は終わる。
【外】
ヘルガ・エーレンブルグは思慮浅い人間であった。
ヴィルヘルムからするとどうしてこんなこともわからないのかと思うことに曖昧な笑顔で首を傾げ、どうして気付かないのかと思うことに気付かずに牧歌的な無防備さで泣きを見に行くはめになる。ヴィルヘルムが知る限り最初から、ヘルガはそういう女だった。
彼女の人格形成の行程も、その過程で生じたのであろう"家族"への執着も、ヴィルヘルムにとってはどうだっていいことだった。ヘルガはばかで、疎くて、察しが悪い。だからどうあろうとどうせヴィルヘルムが隠そうと思うものを見つけることなんか出来っこなくて、ゆえに彼女の動向なんてどうだってよかったはずだったのだ。
その日の夜、ヘルガは、いつもの寝室ではなく、台所の調理台の上に転がされて"仕事"をしていた。
おむつを替えられる赤ん坊のように仰向けに寝かされて両足を開かれ、仰け反ってさかさに見た方向には普段は閉じられていることの方が多い窓があった。家の裏手に面した窓。
――そこをかすめた、ちいさな白色。
「ぁ……ヴィ、ル……?」
うわ言めいた呟きは、誰の耳にも届かなかった。
白む陽光から隠れ、暗い戸棚の中でまどろんでいたヴィルヘルムの目の前が、急にガタガタと音をたてた。乱暴な開け方ではけっしてない。そもそも立て付けの悪い引き戸だった。
顔を上げると、半端に開かれた戸の向こう、縦長の逆光のなかにしゃがみこんでいるヘルガと視線が合う。「姉さん?」「ヴィル」隙間からぬるり、華奢な腕が闇に差し入れられた。ゆらゆら頼りないそれは眉を寄せるヴィルヘルムの額を細い指先でくすぐるように撫で、前髪をやさしく梳く。白い子供の赤眼にとって、白昼の逆光は、隙間から差し込んでくるだけでもあんまりにもまぶしい。よく見えないヘルガの表情に興味を持つでもなく、ヴィルヘルムはむずがるように首を捻って俯いた。
「ヴィル? ……どうしたの、おなかいたいの?」
「ぅー……。ちがう、まぶしいんだよ、目ぇちかちかする……」
「ああ、ごめんなさいね。母さん、ちょっとヴィルとお話したくて」
今日は「母さん」なのか、と思った。それは今しがたヴィルヘルムが「姉さん」と呼びかけたことへの異論だとか意地悪の意味を持っているのだろうか。ヘルガが何を考えているかなんてわからない。ただなんだかムッとしたので、ヴィルヘルムは「母さん」とは呼んでやらないままさっさと話とやらを終わらせようと思った。
額から頬を撫でる手を無視して、わざとらしく目を逸らしたまま「なんだよ」と問えば、目の前の女が「あのね」と、いつもよりは多少はっきりとした声を出した。
「ヴィル、お外に出ていたでしょう」
自分の膝小僧を見ていた赤眼をかすかに瞠って、落とされた甘ったるい響きの声に絶句する。小柄な身体が硬くなるのが分かった。
ヘルガが気付いた。
こう言うとなんということもない、ずっといっしょに暮らしていたのだからいつかこういうときがくることも予想に容易かったはずなのだが――このときヴィルヘルムは、ひどく無防備に驚いた。ヘルガが、気付いた。
そろりと首をもたげて、目の前の光の筋を下の方から上に、視線でなぞる。向こう側に膝をついているらしいヘルガがどんな表情をしているのかを確かめる前に、ヴィルヘルムの鼻をツンと饐えたにおいが刺した。反射的に白い眉間に皺が寄る。
「……姉さん……?」
精液のにおいとは違う。汗のにおいとも、何か酸っぱいにおいとも違う。ヴィルヘルムの知るヘルガ・エーレンブルグのにおいと、今鼻をついたにおいは、決定的に違っているのだ。
そろり、そろり。光の筋を撫で上げる幼い視線は、躊躇うように速度を落とし、かすかに左右の闇に泳いだ。指先から体温が下がって、腹がきゅう、と縮む気がする。いまだに手を添えられた頬にひやりとした寒気が走った。
今この光の向こう側に居る女は誰だ。ちいさなまるい頭のなかで、赤い眼を見開いた子供がそんな馬鹿げた問いを叫んでいた。『お前は誰だ』『俺の知ってる姉さんじゃない、姉さんとちがうお前は誰だ』――
「ねぇ、ヴィル。あのね……」
眉をひそめ、目を見開いて、頭の中でだけ徐々にパニックに陥り出していたヴィルヘルムの頬からそっと手を離して、女はガタリ、戸棚の引き戸を更に引いた。白くて埃っぽい光がその筋を扇状に広げ、白い子供が膝を抱えて籠もっていた窮屈で安らかだった闇を身勝手に暴いてゆく。
光の中で、ひとりの女が眉間にきゅっと皺を寄せて、ヴィルヘルムのことを見下ろしていた。
その片手に、喰い散らかされ腐りかけた何かの死骸の切れ端を持って。
「これ、ヴィルがあそこに埋めたのね」
言い切った口調は、これまでにヴィルヘルムが聞いた事の無い色を帯びていた。
「この前、夜にね、窓から見えたの。あなたが外にいるところ。それから、これ……見つけて、母さん、おどろいたわ。ねえ、ヴィルヘルム」
どこかぽかんとした顔でヘルガの目を見詰め返していたヴィルヘルムに、彼女は片手に持っていた死骸を脇に置いて、ふう、と自分を落ち着かせるようなため息を吐いて
「……だめじゃないの。いけないわ。ヴィル、こんなことをしてはだめよ」
ヴィルヘルムのことを、否定したのである。
瞬間、「え」と声を漏らして、無防備にその否定を受けた子供のちいさなくちびるはわなないた。言葉を探すようにはく、と開閉し、赤い眼の瞳孔はきゅうと縮む。
ヘルガにとってはただ偶然発見した我が子の行為を咎めただけであったのだろうが、その"否定"はヴィルヘルムにとって、予想だにしなかった驚きをともなった。
ヘルガは今までヴィルヘルムを全肯定してきたのだ。ヴィルヘルムが他の男達に虐げられていたときも、またヘルガ自身がどれだけ暴行され泣いていたときでも、その抱擁はけっしてゆるがなかった。
だからこそ、信じたのだ。それなのに今この女は何を言った?
瞬間的なその情動を言葉にするならば、『どうしてお前がそんなことを言うんだ』、と――押し付けがましくあどけない失望と焦りを痩せた胸いっぱいに膨れ上がらせて、ヴィルヘルムは白い顔にかぁっと熱を昇らせた。
目尻が赤らんで、拳がふるえる。
「……ん、だよっ……」
ぎゅうっと眉間に皺を寄せ、白い子供は生まれて初めて、母であり姉である女に向かって癇癪を起こした。
「なんだよっ、なんで、姉さんがそんな――そ、んなの……っざけんなよ! なんにもわかんねぇばかのくせに! だまってろよっ!!」
「きゃっ!」
あんなにぴっとりくっついて皮膚までひとつながりになって体温も内臓もどろどろに混ざり合ったような幻想を共有していたはずのヘルガ・エーレンブルグという<女>が、なんだか薄皮一枚隔てたようなよそよそしさを腐った死骸と一緒に持ち込んできた気がした。完成されていたとずっと思っていた何かに、亀裂が走る音がした。ピシピシとかすかに、ヘルガの甘ったるい声の後ろで響いていたその音に、ヴィルヘルムは怯えた。
『はなれていくな』と、頭の中か、あるいは心が、悲鳴に似た叫びをあげていたのだ。
しかしそんな焦りがヘルガへの執着に端を発しているということがわからないヴィルヘルムには、遠ざかる女を抱き締めることを選べはしない。
取り乱し、引き戸を荒々しく開け放つと、目を見開いたヘルガを床にバタンと押し倒して、その腹の上に馬乗りになった。
「このっ、このッ……しねよ! しね! そんな、そんなこというならッ、ねえさんなんかしんじまえっ!」
暗闇から薄い光に満ちたなかに飛び出した白い獣は支離滅裂にぎゃんぎゃん喚き、ヘルガの顔を殴り、鎖骨の辺りを殴り、頭を殴ってから、ふーっ、ふーっ、と肩で息をして、未だ震えるその握りこぶしをゆっくりと下ろした。
「だまってろよぉ……わけわかんねぇ、くせに……ばかっ、ばかおんなの、くせに……」
ギロリと光った赤い目を徐々に細めて荒く息をするヴィルヘルムは、大人しく自分の下に敷かれたヘルガの体温を感じ、続ける言葉を見失っていった。
火のような癇癪は、しかしヘルガの従順に見える反応と沈黙によって、にわかに沈静化しつつあった。幼い怒りは熱をもつのも冷めるのも早いのだ。
ジッと視線を落としていたヴィルヘルムには、そのときヘルガがどんな顔をして黙ったのかはわかっていなかった。
「―――ヴィ、ル」
「……ん」
視線を落としたまま息を整える子供は、その声に孕まれた熱にも気付けずに唾を飲み、赤い眼でそろりと組み敷いた母であり姉である女の表情を窺って――
――息を呑み、驚いた猫の仔のように目を見開いて、絶句した。
「ヴィル、ヴィルヘルム……お、お、怒らないで? そうだわ、な、舐めてあげる、お母さんが、くちでしてあげるからぁ……!」
「ぇ、あ? うわっ」
ぶたれた右頬を赤く腫らしたヘルガが、目をうるませ目尻を紅潮させながら、不意にあげた両手でヴィルヘルムを床に引き倒した。更にそのまま我が子の半ズボンの腰周りをつかむと、一息に膝のあたりまで引き下げて、あらわになった股間にぐいと顔を寄せる。
まさかそんな行動をとられるとは思ってもみなかったヴィルヘルムは、床に転がされ後ろに両手をついたまま、目を白黒させてヘルガの暴挙を見ていた。頭の中には言葉にならない疑問符が溢れかえる。また自分の行為を何か否定されるのかと竦んだが、先ほどまでのいつになく厳しい、咎めるような目つきはもう無い。
誰よりもよく知り、何よりも近くにあったはずの、自分のすべてを肯定していた女――その突然の、今度はなにやら得体の知れない熱と勢いを持った豹変に、哀れな白い子供は癇癪もどこかに忘れ去り、晒された下半身とそこに顔を寄せる彼女を目の当たりにしてただただ戸惑っていた。
薄暗いなか、ヘルガのぱっちりとした瞳が、うるんでとろけるように笑みを作る。
その目に視線を吸い寄せられるうちに、ひたり、と、下半身に濡れた感触が這わされて、ヴィルヘルムは「ヒッ」と痩せた肩を跳ね上げた。
ヴィルヘルムと目を合わせたまま、ヘルガはヴィルヘルムの未だちいさな性器を舐め、指先でちょんと立たせると吸い付くようにくちに招き入れたのである。
何が起きているのかわからず、ヴィルヘルムは「やめろ」と手を伸ばしかける。しかしなんともいえないこそばゆいような疼くような熱い感覚が腹の底のあたりからじわじわせり上がってきて、「うあ」と息を漏らした拍子に、伸ばした手はヘルガの片手に絡め取られていた。
指の間にヘルガの指が入り込み、撫でて、そのままてのひらを押し付けあうように手の甲を握りこまれる。片手をとらわれたことで、両腕で支えていたからだががくんと斜めに傾いた。
ヴィルヘルムは腰を引いて性器を舐めしゃぶるヘルガから逃れようと身をよじったが、それをとがめるようにちゅう、と強く吸われ、舌で先端をなぶられると、「ひィ、ぁ、ぁぁ」と喉奥から細い声を漏らし、眉を寄せて、赤い目を揺らすことしかできなかった。
――わけわかんねえ、わけわかんねえよなんだこれ
ヘルガが、股の間を舐めている。
こんな光景自体は、ヴィルヘルムにも見たことがあった。ただしそのときはヴィルヘルムに対してしていたわけではもちろんなく、相手はどこの誰とも知らない男や、あの頭のおかしな父であった。
ヘルガは裸で、全身に汗をかいて自らも股や胸なんかを弄られながら、ふうふうと必死に何かをしゃぶっていた。それは知っている。
しかしなぜ今その行為を自分がされているのか、ヴィルヘルムにはわからないのだ。
感覚が鋭敏な場所にたまに歯が擦れる。幼いそこに添えられたヘルガの細い指さえ怖ろしかった。以前、ヘルガの客である男のうち加虐性の強いのに見付かったとき、思い切りそこを蹴られて意識が飛ぶくらい痛かったことがあったのだ。
自分を否定する言葉を吐かれたときとはまた違う得体の知れなさと遠さを、ヘルガは纏い始めていた。
――こわい、いやだ、なんだこれ、ねえさんどうして
頭の中でぐるぐると、そんな言葉が渦を巻く。馬鹿のひとつ覚えのように『こわい』だとか『はなれていくな』だとか、自分の知らないヘルガに向かって、彼女をあどけなく信じていた心の底で、汚濁にまみれた赤眼の畜生児が喚いている。
パニックに陥りかけたヴィルヘルムは、我知らず、ヘルガに握られた片手に、きゅう、とちからを入れて握り返した。かくかくと、肘を立ててなんとかからだを支えるもう片方の手が頼りなく震え始める。
「ん。ん……ふ、ふ。ふぃう、はわひい……」
「う、ぅー……」
こわかった。
こわいのに、なんだかむずむずと気持ちよくもなってきて、頭に熱がのぼってくる。下腹の奥に熱い塊を押し込まれたように、そこがじんじんする。乳白色の細い内腿が、しっとり汗をかきはじめていた。ヘルガは愛しげにそこに頬ずりしながら、目だけは爛々と切迫させて、ぬるりと舌を出して名残を惜しむようにヴィルヘルムの性器からくちを離した。ぷは、と、ちいさく息継ぎをすると、ヴィルヘルムに殴られた際に端が切れて血の滲んだくちびるはふやり、嬉しそうな弧を描く。
「あは……たったぁ」
ヘルガの言葉どおり、それはつん、と上を向いて立ち上がり、ふるりと外気に震えている。
そんなふうになったことは今までになくて、ヴィルヘルムには今の自分の身体もこの感覚も、まるでなにもかもがわからない。仰向けに転がされて片手をヘルガと握り合ったまま、赤い眼は呆然と、自分の下肢と、未だにそこに近づけられたままのヘルガのくちびるのあたりに視線を泳がせていた。
華奢な幼い身体が、不似合いな熱に火照っている。夜中に外で暴れて興奮状態にあるときと似ているような、また違うような感覚が腹の底でくすぶって、白い子供の全身はうっすらと紅潮しつつあった。
「な……な……なんだよお、これ……わけ、わかんねっ……」
熱くて、疼いて、なにか、漏らしてしまいそうな感覚がある。
濡れたくちびるを震わせて文句を言ってやろうとしたが、うまく言葉が出てこなかった。
それでも『こんなところでこんな体勢で漏らしたくない』というくらいの判断は出来たので、ヴィルヘルムは頬を火照らせて混乱したまま、立てた片肘を引いてヘルガから身を離そうともがいた。しかしヴィルヘルムの足の間に上体を倒して腰を抱くようにしたヘルガの細い腕と、未だ離されない片手が、その逃避を認めない。
「ヴィル、きもちいでしょう? ね、姉さん、じょうずでしょう?」
「ざ、けんなよぉっ……くっそ……!」
砂気のあるざらついた床が、皮膚を擦ってチリチリした痛みを催す。それすらなんだかくすぐったくて、熱くて、この場所も目の前のヘルガも自分も、今までとは違う未知の何かにがらりと変貌してしまったような不気味さがあった。
ヘルガが、またくちを開く。濡れた粘膜の穴から熱っぽい息が吐かれる感触が、汗に湿った内股をひくりと竦ませた。「うあ」と、数分前まで散々に怒鳴り声を吐いていたくちが、歳相応に慄いた声を漏らす。
彼女が家の裏から穿り返して持って来たヴィルヘルムの夜遊びの残骸が部屋の隅まで吹っ飛ばされて転がっているのが、一瞬視界の端をかすめた。この部屋には似つかわしくないそんな物質が、皮肉にもこの現状がさっきまでのひび割れた日常と地続きのものであることを静かに証明していた。
「ヒィ、い、いやだ、ねえさ……ぁ、あっ」
「んふ、ん」
とうとう「いやだ」と音をあげて、首を左右に振ってみても、ヘルガは何か履き違えたような笑顔で我が子の拒絶を見上げながら、立ち上がってふるえる性器を再び口内に招き入れ、熱い舌をあてた。
瞬間、床から中途半端に起こしたヴィルヘルムの背中がびくっと揺れる。
先端を舌でほじくるようにされ、裏筋をくちびるで刺激され、手でもやわやわと愛撫される。ひとつひとつの感覚を、ヴィルヘルムの身体は敏感に拾っていた。はっ、はっ、と、息が荒くなる。ヘルガに握られた片手を今更になって思い出したようにばんばんと床に叩きつけて、もうすっかりりんごのように頬を赤くした子供は「ねえさんっ」と泣きそうな声をあげた。
「ねえさ……っくぅ……だ、から、やだって言ってんだろぉ……っ! も、もれる、……しっこ、でるから……!」
足もばたつかせようとしたが、咎めるようにちゅっと音をたてて性器を吸い上げられると、「ひ」と目をかたくつむってその刺激に耐えるヴィルヘルムの抵抗は否応無しに弱まる。埃と砂に薄汚れた足の指が、揃って内側にきゅうっと曲げられ、縮こまった。歯を食いしばったくちの端からよだれが垂れる。
目をつむっているはずなのに、ヴィルヘルムの瞼の内にはいつものまろい闇は無く、チカチカと白く黒く明滅していた。
どこもかしこも感覚がいかれている。
なんとか上体を起こしていようと震える腹と床に突いた片肘が、限界を訴えるようにぶるぶる大げさに震え始めた。
「はっ、ふぐ、ぅ……ぁ、あ、ああっ……! なん、やだ、でる、やだ」
瞼を閉じていても狂ったような明滅に酔うだけなので薄く赤眼を開いて、ヴィルヘルムはうわ言じみた言葉を食いしばった歯の間から落とす。結局離してもらえなかった片手は、今はまた、すがるようにヘルガの手の甲に爪をたてていた。
ぢゅ、と、一心にしゃぶるヘルガのくちのなかから濡れた音がもれたのを聞いた途端、近かった限界はやって来た。
「ぃ、ぁ―――――っ!?」
がくがくとからだが痙攣し、声にならない声をあげて、ヴィルヘルムは必死に起こしていた上体をくてりと床に倒して脱力したのだった。
薄いからだの胸や腹が、忙しなく上下する。赤い眼の焦点はあわないまま、薄明るい天井を見上げていた。気付けば全身が汗ばんでいる。半開きのくちからは、意味を成さない母音が混じった荒い息だけがもれていた。握ったままこわばった手から、やっと女の手がほどかれ、てのひらを撫で擦るるようにゆっくりと離される。
ヘルガ・エーレンブルグにさんざん嬲られた下肢には、何かが残ってくすぶるような余韻が消えずにあった。心臓がそこにあるように、どく、どく、と脈動している。
何かが、そこを、通り過ぎた。
かたく立ち上がっていた性器は今はまたふにゃりとやわくなって、ヘルガのくちから出たとたんに白い股に寝そべっている。べっとり濡れてかすかにひくつくそれに何が起きたか確かめる余裕は、今のヴィルヘルムには無かった。全身がだるくて、ひどく熱いのだ。
呆然としたままのヴィルヘルムの身体を這い上がり、からだをぴっとり重ね合わせたまま目と目を合わせて、ヘルガがにっこりと笑いかけた。
「ああ、かわいいヴィル……ちょっとだけど、もうちゃんと出るのねぇ」
きもちよかったのね、と。
続けられた言葉とともにその細い指が彼女自身のくちに差し入れられ、ねとりと粘る白いなにかを半目になった赤い瞳に見せ付けた。
怪訝そうに眉を寄せて、ヴィルヘルムはゆっくり目の焦点を合わせる。漏らした、と思ったのは、どうやら小便ではないようだ。
「……? ぁ、んだよ、それ……」
重みに苦しくなる息を紡いで掠れ声で問うた我が子の額にくちづけて、ヘルガ・エーレンブルグはまなじりを下げて頬を染め、とろけるような媚びた笑い方をした。
「ヴィルが、一人前の<男>になった証拠よ」
言葉に、瞠目した。
火照ったからだはそのままに、頭の中だけ氷水に浸けられたかのようにサッと冷めた気がした。
今、この女は、何を、言った?
「うれしいわ、ああ、ヴィル……わたしの、かわいい子」
ねばついた白い粘液を絡めたヘルガの手がすっと下ろされ、彼女のワンピースの裾をたくし上げた。生傷や痣のついた太ももが露出し、その奥の何も履いていない股座が、ひたり、ヴィルヘルムの萎えた性器にあてがわれた。湿った圧迫感に「う」と声をもらす子供の髪を片手で梳いて、その耳元で、母であり姉である<女>は
「これでやっとヴィルとも、お父様とやるように愛し合える――ひとつに、なれるのね」
至極幸福そうに、そう言った。
その頃、ヴィルヘルムにとって自分が男であるという実感は乏しかった。<男>というのは、ヘルガを殴り、ヴィルヘルムを殴り、股座を晒してグロテスクな行為に没頭するのが頭と本能のすべてを占めた生き物であり、ヴィルヘルムにはそんな趣味も欲求も無かった。ゆえに、ヴィルヘルムは<自分>を、<女>とも<男>とも同一視していなかったのだ。
強いて言うならば、害の無い<女>であるヘルガの方が<男>よりはマシであるとし、ある種の親近感めいたものを持っていたかもしれない。
具体的ににそういった理解が彼にあったわけではないが、曖昧な認識は、自分の行動や他者からのはたらきかけへの許容範囲を心の根元で潔癖に選別し、決定する。
結果的にヴィルヘルムは、ヘルガという存在が自分に甘やかに密着することも、そうして言い聞かされるたわ言の羅列も、彼女が『わたしたちは家族なの』『だからとくべつ仲良くしていなくちゃいけないのよ』などと当然の顔で規定することも、限りなく許容していた。「ばかだ」と思い、内心では日常的に蔑みながら、ヴィルヘルム・エーレンブルグはヘルガ・エーレンブルグの抱擁を甘んじて受けていたのである。
それは積極的ではないにせよ、いびつな母と子、姉と弟の、惰性じみた相互肯定の様相を呈していたと言える。
信じて――受け入れて、ゆだねて。たぶんきっと、心の底のいちばん無邪気なところで依存していた。
そうして享受していた無償の愛と一体感が、ヘルガの媚びた笑顔と幸福そうな言葉によって一山いくらで切り売り可能なべたついた"性"に成り代わったとき、ヴィルヘルムはぽかんとした間抜け面で、ヘルガの顔と、まさぐられる下肢を交互に見比べた。
わけがわからなかったと言えば嘘になる。
わかりたくなんかなかった。
自分は、寄り添っていてくれる<女>であるヘルガとは絶対的につくりの違うからだをしていて、しかもそれは、ヘルガを犯しヴィルヘルムを虐げる<男>と同じもので
「ああ、ヴィル……」
今目の前にいるヘルガ・エーレンブルグは、<男>としてのヴィルヘルム・エーレンブルグに、隠しようも無く欲情していた。
「ぁ……あ……ねえ、さ……」
この荒んだ環境下でヴィルヘルムがただひとつ信じたぬるったい相互肯定と依存は、雪崩のようになしくずしに露呈した、ヘルガの涙まみれの性欲によって裏切られたのだった。
ヴィルヘルムにとって唯一懐の内に入ることを許していたヘルガ・エーレンブルグという女は、濡れた肌をぴっとりと我が子に押し付けて、その幼い信仰をざくりと刺し殺してしまったのだ。
当たり前に得られていると思っていたものを否定され、その両手に抱き締めていると信じたものは本当は単なる<女>のエゴにまみれた欲であったという事実を突きつけられて、しかも頭の回転が早かった白い子供はその事実を愕然と理解できてしまったのである。
それはとてもさびしいことだという自覚は、彼には無かった。
けれど、心を停止させた少年は、その末に言い落とされた『ひとつになれる』という言葉に、藁にも縋るような体でふらふらと従順に身を起こしていた。
『これでやっとヴィルとも、お父様とやるように愛し合える――ひとつに、なれるのね』
どうやればいいかなんて、嫌と言うほどわかっていた。
力の抜けた身体を起こして、ヘルガを組み敷いて、その腿を掬い上げるように両足を持ち上げ、開いて、突っ込んでしまえばいいのだ。そうすることでこのどうしようもなく欠けた何かを埋められると言うのなら、ヴィルヘルムはそれに従った。心の底に根付いたヘルガへの信頼の残滓に、呆然としたまま、すべてを賭けて。
ヘルガは上擦った声で絶えず何か言っていた。喜んでいるのか、動転しているのか、あるいはそれ以外の感情からか、ヴィルヘルムにはわからなかった。そういえば他の男にこうされているときも、ヘルガは何かうるさく言ってくちを引き攣らせるように笑っていた。ヘルガにとって、男とまぐわるというのはどういうことなのだろう。ヴィルヘルムには、わからなかった。
一度射精してからヘルガの手に弄られて再度勃起したまだ幼い性器が、女の濡れた割れ目に水っぽい音をたてて触れた。
先端を擦るぬるついた肉ひだの感触に、ヴィルヘルムはくちびるを噛んで耐えた。また何か漏らしてしまいそうな熱が下肢にうずまいていた。
凹凸の少ない幼い性器によるヘルガの穴への挿入はとてもスムーズに進んで、すぐにいちばん根元まで入った。
「あっ、ああ、ヴィル、かたい……かわいい……」
「ふ、ぅ……ぅ、ううう」
ヘルガはきゅうきゅうと健気に、ゆるい穴に力を入れて我が子の性器を締め付けた。仕込まれた動きは、ヴィルヘルムの二度目の絶頂を促している。
自分の両腕の囲いの中で顔を真っ赤にして笑うヘルガを見下ろして、下肢の感覚に耐えて――そうしているうち、ヴィルヘルムの赤い瞳は徐々に光を取り戻しつつあった。
そこからぼろりと落ちた涙の粒が、白い頬を転がり落ちる。
「ううう……ぁ、あああああああああ」
眉間にはぎゅうっと皺が寄って、身体を支える両腕は震えて、ヘルガに挿し入れたままの下半身はへたるように動きを止めた。ヴィルヘルムの様子に、ヘルガは「どうしたの? ヴィル、ねぇ、中で出していいのよ?」と、的外れな事を言って焦る。
ヘルガはばかだと、ヴィルヘルムはずっと知っていた。
それでも、ばかで察しの悪い彼女も、どこかで自分とつながっていると――ヴィルヘルムが抱えるかなしみの一部だけでも彼女は理解し慈しんでいると――真っ暗な彼の人生の中で、その事実が、目を潰さない程度の薄明かりとなって冷えるからだをあたためていたのだ。ずっと。
結果的に、それはかくも脆い幻想で。
かなしみは、やはり誰とも共有できるものではなく。
白貌を真っ赤にして、大口を開けて、赤い眼からぼろぼろと涙をこぼして――不器用に身体を繋げてとうとうそこまで理解した白い子供は、喉を裂くように喚き散らした。
「ああああああっ……うわあああああ!! ああああああああ!!」
姉さん。母さん。ヘルガ。
なんと呼べば、彼が信じた彼女が答えてくれるのかがわからない。
彼女が言った『ひとつになれる』手段なんてあまりに単純で、生々しくて、赤く血走った割れ目に喰われる自身は絶望する自分を裏切るようにぶるりと震えて熱を上げる。
こんなみっともないことをしたいわけじゃなかった。
こんなふうにひとつになりたかったわけじゃなかった。
ヘルガだけが、困ったように眉尻を下げて頬を紅潮させ、よだれを垂らして笑っている。動くのをやめたヴィルヘルムの腰に両足を絡めて、彼女は身勝手に下半身を擦り付けていた。「ヴィル、ヴィル」と、高く掠れた声が水音の隙間にぽたぽた落ちる。
その声がひとつ落ちるたびに、ヴィルヘルムの信じた<ヘルガ・エーレンブルグ>と<自分>の完全な一体感、爛熟した愛は、ありふれた肉欲に色を変えていくような気がした。
それがおそろしくて、ヴィルヘルムは両手でヘルガの細い首を掴んだ。
「ヴィ、る、ぅぐッ……ぁ!」
「だまれッ、この……だまれよお!! う……ぅーっ……!」
もうなんにも言わないで欲しい。姉さんとも母さんとも呼べず、動転したままで、ヴィルヘルムはヘルガの首をぎゅうっと締め付けた。身体を支えていた両手で首を掴んだため、身体は支えを失って、ヘルガの上にしなだれかかる。角度のかわった性器の根元が、ヘルガの穴の淵に擦れてきゅんと縮こまった。呻くように喘ぎながら、ヴィルヘルムは母であり姉である女の鎖骨のあたりに顔を押し付けて手に力を込める。
ヘルガは、抵抗しなかった。
両腕を自分に圧し掛かるヴィルヘルムの頭に回し、初雪の色の髪をくしゃりと掻き混ぜるように撫で、掴み、そのままがくがくと身体を痙攣させ始める。膣口の締め付けはいっそうきつくなって、抱き締められたヴィルヘルムもまた背筋をぶるりと波打たせた。
「ひ、ぎ、ヴぃ、ぅ……が、あ……はっ、ヴィ、る、ぅ」
「ふ、あ、ぁああっ……だまれ、だまれよォ……! も、やだ、やめたい……くそっ……ぁ、ぅ……!」
はやく黙って欲しくて首を絞める。するとヘルガも手や下肢に力を入れて、懲りずになんとか「ヴィル」と呼びかけようとしてくる。泥沼のような性行為に、身体を開く事に慣れすぎた少女と孤独に絶望し怯えた少年はずぶずぶと溺れていた。
そのときのヘルガの表情は、ヴィルヘルムからは見えていない。
「ヴィル、ぅ……ひと、つ、に……ぁ、はッ、……きも、ち、ぃ……」
その言葉を最後に、ヘルガ・エーレンブルグはようやっと黙って、狂ったように我が子を抱き締め撫でていた腕もだらりと脱力した。
搾り取られるように射精したヴィルヘルムが、ちからの入らないくちからよだれと荒い息を吐きながら、女の細腕をどかしてのろのろと身を起こす。幼い性器はちゅるりとヘルガの股から抜けた。カウパーと愛液の混ざった粘液が糸を引いて、埃っぽい木の床に垂れ落ちる。
「はーっ、はーっ……、……?」
髪をくしゃくしゃに乱して、行為の余韻冷めやらぬ朱のさした顔で、ヴィルヘルムはそろそろとヘルガの顔を見た。
土気色になって、目を見開き、弧を描いたくちから泡を吹いたその顔を、ヴィルヘルムは知っていた。
「……かあ、さ……姉、さん……」
死んでいる。
この手で殺した。
わかっていて、それでも、実感がわかなかった。
夜になったら自由で残酷な化物になれたヴィルヘルム・エーレンブルグという子供が白昼にひとを殺したのは、これが初めてだったのだ。
もう動かない女の股からは、ぬらぬらとてかる液体の他に尿がちろちろと漏れ出ていた。ヴィルヘルムの膝を濡らすそれを見下ろして、鼻を突く臭気に赤い眼をぱちぱちとしばたかせて――ヴィルヘルムは、もう一度「ねえさん」と声を落とした。
こう呼べば彼女はいつも、みっともなく笑いながら身体を寄せてきた。
どろどろに汚されたからだで、それでも幸福そうに、ヴィルヘルムのすべてを肯定してくれていた。
没意味的な羊水の海ですべてをゆるされていた白い子供は、今呆然と、外の世界に零れ落ちて流れ出てゆく水の音を聞いていた。ちょろちょろという頼りない音とツンとしたにおいとともに、母胎の夢は崩壊する。
汗と精と欲にまみれた女の死体と、それを殺した少年の産声にも似た慟哭によって。
「―――――――――――――――――――――!!!!!!」
もう、何も知らずに抱き締めてくるばかで察しの悪い<はじまりの女>は、この世のどこにもいないのだと知れた。
【 】
『……ん』
目が覚めると、一筋の縦線が入った暗闇のなかで、膝を折って身を縮めて座っていた。暑くはなく、寒くもない。今の季節は何だったか。
ぼうっとした頭は、壁にこてんともたれかかっていた。埃っぽい空気が喉や鼻の奥に絡み、時折いがらっぽい咳が出る。
意識が戻るにつれて、闇の外、一筋の光の向こう側の物音が耳に入り始めた。
――ああ、まだないてるのか
ヘルガ・エーレンブルグがヒィヒィと、『もうだめ』だの『ゆるして』だの言いながら泣いていた。
彼女の何がゆるされないのかはわからない。ヴィルヘルムが今こんなところに押し込められている理由と同様、ちゃんとした経緯なんてきっと誰にもわからない。
そのことに憤るでもなく、白い子供はただ、ああ、と思うのだ。
ヘルガは泣いている。ヘルガだけが泣いている。あるいは、ヘルガにしか泣けない。
そういうたぐいの『かなしみ』を、彼はこのときからずっと知っていた。それしか知らなかった。
信じるべきものなんてわからない。確かな他者などありはしない。
ただ、今また目を閉じて眠りに落ちてしまえば、次にまた目が覚めたときもきっとヘルガは泣いている気がした。
それだけでじゅうぶんだった。
目を閉じる。
ちいさな白い花びらにも似た瞼の内には、夜のような闇が果てしなく広がっていた。
2014/0608 子葱。
胎児の一生、終わり。