毒娘と中尉殿の話 | ナノ
ポーカーフェイス・ラパチーニ

※ヴィルヘルムと、地下書庫の女の子の話。
※一応夢小説です。名前変換はありません。






 毒を飲んだ。毒を飲んだ。爪の色が青ずんで、くちびるが紫色を帯びてきたので、わたしは生まれて初めて、昔お母さんから貰った口紅とマニキュアをつけた。
『ラパチーニの娘』という物語がある。ホーソンの作で、最近のわたしの愛読書だ。端的に言ってしまうと毒娘の話である。毒草に囲まれて生きてきた少女の身体は毒への耐性をつけて、それそのものが毒性生物になってしまった。そんな少女――ラパチーニの娘の、恋の話だ。
「恋」の部分はこの際どうだっていい。わたしの目的はそんなものとは関係ない。
 毒を飲んだ。そうするたびに苦しくなっていた呼吸が、最近はもうかなり楽になりつつある。胃の奥が熱かった。心臓が暴れている。
 こんな回りくどくて後戻りのきかないような下準備をするのには、当然ながら目的がある。
 わたしはある化物を殺したいのだ。



 わたしの家は街外れの古びた書店だ。といっても、街にはもう人間なんかほとんどいない。先の戦争で焼き払われて焦土になった街には、あちこちに真っ黒く焦げた杭のようなものが突き立っている。何本も何本もあるそれは、まるで墓標だった。
 わたしの家の蔵書は、すべて地下にしまわれていた。また先祖代々売り物の本を読むことが好きだったらしい我が家は、寝室も地下の書庫にあつらえてしまっている。そこが、戦争中には期せずして避難場所になったのだった。おかげでわたしは生きている。この街の最後の生き残りがわたしなのだと思う。鍛冶屋のおじさんや貧民通りの荒くれ者ではなくこんなしがない本屋の娘があのひどい戦火の中ただひとり生き残るなんて、なんだか不思議な話だ。
 毒を飲む。
 ひとりぼっちになったわたしには、もう他にしたいこともないのだ。地下に籠もって、ランプの灯りでお気に入りの本を読んで、ときおり思い出したように毒を飲む。
 わたしが殺したい化物は、1週間に1度くらい、日が落ちるとふらりと現れてわたしが籠もる地下室に入ってくる。

「Guten Morgen. (おはようさん)」

 せせら笑うような掠れ声で言って、ニィと笑う。透けるように白い肌や髪、そしてサングラス越しに光る赤い目は生まれついての色素欠乏――アルビノの証だろうが、本人は『俺は吸血鬼だからだ』と言ってはばからない。黒い軍服は、第3帝国陸軍のなかでも特殊な聖槍十三騎士団という超人集団の制服らしい。
 物騒なその化物の名前は、ヴィルヘルム・エーレンブルグといった。

「……こんばんは」
「ンだよ、いつものことだがしみったれたツラしてんなぁ」

 つまらなそうに片眉を上げてそう言ったヴィルヘルムは、本棚の間をずかずかと大股で歩いてわたしが座っていた椅子の前に来た。白黒の長身をうろんげに見上げたわたしに、「おらよ」という荒っぽい声と共にずいっと1冊の本が突き出される。

「読んだ」
「……そう」
「おう。マレウスの書庫のやつよりァマシだったな、それも」

 受け取ったのは、彼が前に来たときに持って行った子供向けの本だ。学校に行っていなかった彼は教育を受けていないが、軍に入ってから読み書きを学んだらしい。しかし彼の同僚――マレウスさんというらしい――は難しい研究書ばかり持っているらしく、それらの蔵書では読み書きの練習には向かないのだそうだ。そこで彼が目をつけたのが、戦争で焼け落とした後の街にぽつんと残ったわたしの書店である。
 この街を黒い杭だらけの焦土にしたのは、何を隠そうこのヴィルヘルム・エーレンブルグだった。
 返り血まみれでうちの地下室に入ってきて、本棚の影で震えていたわたしを見下ろしたこの男を、わたしは一生忘れない。

「なァ、おい」
「っ……な、に」

 毒で浅くなっていた息を整えていたわたしの顔を覗き込むように、ヴィルヘルムは腰を折った。さらり、目の前で白髪が揺れる。
 良くも悪くも、この男は幼い。獣の仔じみている。そのくせ、頭の回転は早かった。だいたいのことはすぐに理解するし、言うことも暴論が多いが的は射ていたりする。
 嫌いだし、憎んでいるけれど、話すのは嫌じゃない。だから性質が悪い。この自傷吸血鬼の男は、とても厄介だ。わたしは独り静かに本に囲まれて死んでいきたいのに。

「読みやすいやつ、今度のはどれだ。ねぇのか、アア?」
「うわぁ、本のカツアゲ……」
「うるせぇな。どうせ他の客もいねぇだろうが」
「あなたのせいでね」

 街がなくなって自暴自棄になったわたしは、案外この化物とも会話できる。傍若無人な無頼漢のくせして、この男は案外と饒舌だった。隣に人がいると話しかけずにはおれないらしい。そういうところが、子供みたいだと思う。いい年した大人のくせに。軍人のくせに。化物のくせに。可笑しいなぁ。

「児童書をたかりにくる吸血鬼なんて聞いたことない」
「あ? 乳臭ぇガキ向けの本なんざたかってねぇよふざけんな」
「いや、先週あなたが持って行ったの、あれも子供向けの児童書だからね」
「ハアア!?」

 肩をすくめて立ち上がりながら言ってやれば、ヴィルヘルムは「テメェ何渡してくれてんだオラァ!」とか、牙みたいな犬歯を晒して喚いてくる。ガラが悪いことこの上ない。わたしは笑ってあしらうふりをしながら、さあ来い、と、思う。
 ――さあ来い。化物。逆上してわたしを喰えばいい。
 そう思うのに、ヴィルヘルムはぶつくさ言いながらわたしがさっきまで座っていた椅子にどっかと腰を下ろした。スンスン鼻を鳴らして、サングラスを取る。切れ長の赤眼がすがめられる様に、一瞬わたしは見入ってしまった。言動は不良だしやることは極悪な化物だけど、彼の容姿は端整だ。アルビノゆえの色彩も、物語のなかの精霊じみて見えなくも無い。神様はこの容姿を与える相手を間違ったと思う。うつくしさの無駄遣いもいいところだ。

「……変な臭いの部屋だな、どっか腐ってンじゃねぇのか?」
「地下だし書庫だし、しかたないでしょう」
「テメェももうちょいそそること言いやがれや、つっまんねぇ女だな。隣町あたりの売女から色気と遊び気分けてもらって来いや、もうちょいマシになんだろ」
「うわぁ、すごく余計なお世話……」

 ぼそぼそ返すわたしと、大声でぺらぺら喋るヴィルヘルム。変な会話だと思う。ヴィルヘルムは投げやりだし荒っぽいわりに、会話については案外律儀だった。言ったことには返事をするし、無意識なのかよく頷いたり首を傾げたりする。わたしは今まであんまり友達なんかいなかったから、こんなふうにひとと話すことはほとんど無かった。それがこの男によって街を焼き払われてから、当の破壊者相手に会話をするようになったわけだから皮肉と言うか、滑稽な話だ。人間の友達がいなかったわたしが、人間がいなくなった街で化物と何か話す仲になっている。
 机を指でトントン叩いたヴィルヘルムは、「なぁ」と声をあげた。

「なぁに」
「なんか変なモンでも食ったか、テメェ」
「うわぁ、……女性相手にその言い方は無いんじゃないの」
「ハ! いっちょまえに女気取るならもうちょいマシなナリしやがれっつうの」

 笑い飛ばしたヴィルヘルムに、わたしは少し胸を撫で下ろした。毒を飲んでいるのが、ばれたのかと思った。この男は鼻がきく。今ばれたら、わたしはこいつを殺しそこねてしまうかもしれない。
 書棚のなかから1冊の本を選び取ったわたしは、内心どきどきしながらそれをヴィルヘルムのところに持って行った。足を組んでだらしなく椅子に座った彼に、「はい」と言ってそれを差し出す。

「これ、吸血鬼の話。好きそうでしょ」
「ヘェ。面白そうじゃねぇか、ありがとよ」

 子供の頃に教育をうける機会に恵まれなかったヴィルヘルムは、それなりに知識欲がある。赤い眼をぱちぱちさせながら子供向けの本をぱらぱら捲る様は、ほんの少しかわいげがあった。近くで良く見ると睫毛も白い。奇麗な男だと、思う。
 そういえば出会ったあの日は、このくちのまわりにべっとり血をつけていたのだ。

「……ねぇ」
「あン?」
「最近は、ひとを食べたりしていないの?」
「ハア? ンだよ急に」

 椅子をとられて本棚にもたれたわたしを見上げて、ヴィルヘルムは少し首を傾げた。真ん中で分けた白い前髪が、ぱさりとひと房眉間にかかる。

「ここに来るとき、血をつけてないから」

 ぼそぼそ答えたわたしに、白い化物はあっけらかんと返した。

「それァ初めて会ったときテメェが『本に血がつく』っつってたからじゃねぇか、忘れてんじゃねぇよ」
「……へ?」
「その後マレウスも似たようなこと言いやがったしよ。ンだよ、血ィつけててイイんならさっさとそう言いやがれ面倒くせぇ」
「やっ、いや、だめ。血、ついてたらだめ」

 慌てて言うと、ヴィルヘルムはあっさり「そうかよ」と言ってまた本に目を落とした。
 本を読むとき、彼はいつも目をすがめる。眼鏡でも作った方がいいのかもしれない。色素の無い彼の目は光に弱いし、たぶん弱視だ。だからつもサングラスをしているのだが、ここは地下室なので居心地が良いらしく最近はここに来るとすぐにサングラスを取る。
 ああ、性質が悪い、と、わたしは思いながら、スカートのポケットに入っていた小瓶を指先でそっと摘んだ。それから蓋のコルクを取って、そっと瓶の口をくちびるにつける。
 頬杖をついて本を捲る白貌の化物を横目に窺いながら、わたしは今日4回目の毒を飲んだ。



 この街に突き立てられたたくさんの黒い杭はヴィルヘルムの手によるものだ。戦火の中、白貌の化物は街や人を杭で穿ちながら気が狂ったようにげらげらと笑っていた。
 彼がひとを殺すときの特徴はふたつある。ひとつは"串刺し"。もうひとつは"吸血"だった。
 "串刺し"とは、文字通りだ。彼は黒い杭をひとに突き立てて殺していった。そうしてもうひとつの"吸血"というのも、文字通り。彼には死体の血を啜る奇癖がある。
 なにもほんとうに彼が吸血鬼だから、というわけではない。もっとも彼本人は自分が吸血鬼だと言い張っているのだが、彼はただのアルビノの人間だ。そして、誰の血でもいいというわけでもない。彼は血統について信じられないくらい潔癖で、純アーリア人の血しか求めない。
 この奇癖の発端は、周囲から散々に虐待されていた少年時代の彼がアルビノの異端児である自分を疎ましがって「俺の血が汚れているのが悪いなら、この血を入れ替えればいい」と信じたためらしい。酒を煽った彼が笑いながらぺらぺら話したそれを聞いたとき、わたしは初めて、この化物が少し哀れになった。よりよい人間になりたくて、そのために人間性を棄てた子供。それがこの男の始まりだ。
 とはいえ、わたしはヴィルヘルムを殺したい。
 ゆるやかに死んでいくはずだった自暴自棄のわたしが、唯一見つけた生の指針がそれだった。街の仇である、ひどい化物。どうせ死ぬなら、彼を道連れにしたい。だって死ぬのは怖いのだ。ひとりぼっちはおそろしい。戦火の中哄笑していたあの化物なら、道連れにしたって誰も怒らない。
 わたしは、純アーリア人だ。そのことを彼も知っている。だから彼はわたしと平気な顔で話せるのだ。彼の異民族嫌いは筋金入りなのだから。
 だからきっと、わたしが死んだら、彼はわたしの血を啜る。

 そうすなわち、武器の扱いも何も知らないわたしが選んだ彼とわたしの殺害手段は、自殺を含んだ毒殺だった。
『ラパチーニの娘』という、物語がある。娘は毒にまみれて生きた結果、体そのものが毒になるのだ。わたしはラパチーニの娘になろうと思った。そうして、殺害の恐怖も罪悪感も無しに、ヴィルヘルム・エーレンブルグを毒殺したいと。

 もう最近では、毒を飲んでもいちいち苦しくなることはなくなった。専門知識も無しに敢行した『ラパチーニの娘』作戦は、奇跡的にうまくいっている。わたしの顔色はどんどん土気色になって、爪もくちびるも、青紫色になった。わたしは死んだ時彼にあやしまれないようにと化粧をして、そうした不健康さを隠すようになった。結果、わたしはこれまでしなかった化粧を覚えて、女として磨かれている。可笑しな話だ。
 もうじきだ。もうじき、わたしは死ぬんだろう。そうしたら彼は何も知らずにわたしを食べる。
 いっしょに死のう、ヴィルヘルム。
 ……彼は、ほんとうに性質が悪い。わたしは彼が嫌いで、憎んでいるのに、すきだなと思えるところも無いわけではない彼の人間性のせいで、結局彼を求めてしまっているのかもしれない。こんなややこしい感情を、わたしは知らない。



「よぉ」

 いつもより少し間があいて、彼がまたわたしの地下室にやって来た。ずかずか歩いた彼はわたしに借りていた本を突き出すなり、「この本の吸血鬼はパチモンだな」と憮然たる声で吐き棄てたから、わたしは思わず「はい?」と聞き返してしまった。
 するとヴィルヘルムは床にどっかと座り込んでサングラスを外し、わたしをジロリと睨みあげて歯軋りするみたいに喋り出した。まるで拗ねた子供だ。

「弱点のねェ吸血鬼なんざ俺ァ認めねぇ、そんなもんはパチモンだ。夜に棲む吸血鬼は夜に誇りも矜持も賭けてるんだから、ぬるったい日の光なんざ受け入れるわけねぇんだよ。それ書いた奴ァわかってねぇ。会う機会があったら即刻殺す」

 ぶちぶち言うヴィルヘルムがあんまり本気で、可笑しくて、わたしはついつい「そんなに怒らなくても」と笑ってしまった。

「でもちゃんと最後まで読んだんだ?」
「うっせぇな、途中で放り出して批判すんのは駄目だとかなんとかマレウスが言いやがるからだクソッタレ」
「前から思ってたけど、マレウスさんっていいひとなのね。どんなひと?」
「魔術狂いの女だ。顔も身体も悪くねぇが、あれァ煮ても焼いても喰えやしねぇな」

 女、と聞いて、わたしは一瞬胸がチクリとした。ああそうか。マレウスさんは女だったんだ。彼がわたし以外の女性とも話していることを、わたしはなんだか初めて実感した。
 わたしは、ヴィルヘルムだけなのに。ヴィルヘルムとだけ、死ぬのになぁ。
 毒を飲んで、毒を飲んで、ただただこの化物を待つ人生。今のわたしは『ラパチーニの娘』の恋をしているのかもしれないと、なんだかその瞬間に、わたしは、思った。

「つぅか、よぉ」

 スン、と鼻を鳴らして、ヴィルヘルムは少しぼぉっとしていたわたしを訝しげに見上げた。

「テメェ、変なモン食ったか」
「……それ、前にも訊いたね」
「はぐらかしてんじゃねぇ。……テメェが何食おうが俺の知ったこっちゃねぇがな、まァ腐って糸引いたモンはやめとけや」

 適当な調子でそう言ってから、ヴィルヘルムは壁にだらりともたれてニィと挑発的に笑んだ。

「ただでさえ色気もクソもねぇつまんねぇ女が食あたりで死ぬなんざ、本格的に実りなさすぎンぞ」
「うわぁ、ひどい言われよう……」
「ひでぇ有様をありのまま言ったんだから、そりゃそうだろ」

 なにがツボにはまったのか奇麗な顔をくしゃりと破顔させてげらげら笑ったヴィルヘルムに、わたしは「楽しそうでなによりだけど」と苦笑して、皮肉った。

「わたしが実らないのは、あなたがこの街を焼き払ったせいでもあるでしょ」
「ハッ、馬ァ鹿! 真剣に生きてねぇ奴ァ周りがどう転んでも一緒だっつうの。根無し草と変わらねえ」

 言い切った白い男が根を張ってまでしがみついているのは、『俺は吸血鬼だ』という命題なのだろう。よい人間になりたくて、その結果自分の人間性を否定する手段しかとれなかった子供。それでも生き延びようと足掻いた先が、この"戦場のオカルト"だの"白貌の鬼"だのと呼ばれる現状だ。
 不器用だけどやることはどこまでも徹底的なこの男は、昔のわたしとは反対だ。今のわたしは、少し彼に近いのかもしれない。何もかも無くしてから初めて、わたしは執着したい相手を見つけたのだから。



 毒を飲んだ。毒を飲んだ。毒を飲んだ。
 彼と話すようになって、もう1年ばかり経った。
 最近わたしは痩せて、顔色を誤魔化す化粧もじょうずになって、女としてはますますきれいになったと思う。その実、体の中は毒でいっぱいだ。最近はドクニンジンなんかの毒草を食べてもなんにもない。『ラパチーニの娘』。わたしはもはや、あの物語の毒娘そのものだった。
 慢性的な気だるさのなかをたゆたうように、わたしは地下で本を読み、あの奇麗な白い化物を待つ。ここ1ヶ月ほど、彼は姿を現さなかった。

「Guten Morgen」

 やっと来た。
 目を上げた私に、ヴィルヘルムは「よぉ、しばらくぶりだな」と口角を上げた。それから「ン」と眉を寄せて、サングラスを外す。
 ずかずか近付いて来ながら、赤い眼がわたしをじろじろと観察する。目の前に辿り着いた時、彼は見上げるわたしに向かってどこか不思議そうにくちを開いた。

「……ヘェ、ちったぁマシな目ぇするようになってんじゃねぇか。なんだテメェ、男でも出来やがったか」
「うわぁ、なにそのご挨拶」

 ふふ、と、わたしは呆れたふりで笑う。内心、うれしかった。何がどう彼の琴線にふれたのかはわからないけど、外見をほめられたことなんて今まで無かったから。
 今日は死ぬのに良い日だな、と、思った。待ちかねたのだ、わたしは。次もまた1ヶ月も間があいたら、わたしはもうヴィルヘルムが来るまで生きて待ってはいられない。だから今日死のう。舌でも噛もうか。そしてあなたを殺してやるのだ、ねぇヴィルヘルム。
 ぐるりと一巡思考した頭をゆらりと揺らしたわたしに、ヴィルヘルムは「アアそうだ」と声をかけて、ずいっと何かを差し出してきた。
 わたしから借りていった本だけでなく、もうひとつ、ちいさな赤い小瓶がその形の良い手に乗っかっている。

「やる。飲め」
「? なぁに、これ」
「いいから飲めっつってんだよ」

 面倒そうに舌打ちしてもう一度ぐいっと押し付けてきたその小瓶を、わたしは受け取った。何だろうか、これは。ヴィルヘルムはなんだかばつの悪そうな顔でがしがし白い頭を掻いて、もうさっさと本棚の方に向かってしまった。訊いても答えてくれそうにないなとふんで、わたしは小瓶をランプの灯りに透かして観察してみた。赤色のそれは、なんだか毒々しい。軍属の彼が持って来たのだから、本当に毒である可能性も高い気がする。
 そして仮に毒であったとしても、わたしは平気だ。もう身体そのものが毒のかたまりなのだから。
 そう考えて、わたしはそれ以上の躊躇無くコルクをキュポンと抜く。毒を飲むことにすっかり慣れきっていたわたしは、ヴィルヘルムがくれた赤い小瓶のなかの液体をくいっと煽った。


 瞬間―――焼けるような痛みと、苦しさ。


「ッ、あ……!?」

 わたしは、喉元をおさえて、それからそこを掻き毟るようにもだえた。机につっぷして、そのままバタンと椅子ごと倒れる。息が苦しい。ヒュウヒュウと喉が狭まる。空気が肺に届かない。なにもかもが痛い。
 なんだ、これは。
 なんだこれは。

「――! ―――!」

 ヴィルヘルムが何か言っているけどわからない。視界がぼやけて狭まって、あの奇麗な白い顔も曖昧な輪郭でしかとらえられない。
 なにもかもわからない。
 あの赤い小瓶の中身は毒だったのだろうか。
 しかしそれならなぜわたしはこんなにも苦しい。わたしはもう毒なんかなんでもなくて、身体そのものが毒のかたまりで

 ――そうまるで、『ラパチーニの娘』のように。
 そう考えた時、ひとつの答えが得られた気がした。

『ラパチーニの娘』は、物語の最後に死んでしまうのだった。彼女の恋人が、彼女を救うために与えた解毒薬によって。
 身体中すべてがもはや毒そのものになっていた少女は、少女を救わんとした薬によって殺される。あれはそういう悲劇だった。
 ああ。ああそうだ。今のわたしは毒は平気でも、解毒薬の類は劇薬に相当するのだろう。
 何度も、ここに来るたびに「変なモンでも食ったか」と訊いてきたヴィルヘルムを思い出す。わたしが彼に執着したように、彼もわたしのことを、すこしは気にしてくれてたのだろうか。そうだとしたら、それは嬉しい。
 ただ皮肉なのは、わたしは彼の吸血癖という非人間性を寄る辺にして彼に執着したのに、結局は彼の内に残っていた少しの人間的な気遣いに殺されてしまうということだった。

「ィ、ル、ヘル、ム」

 白くて奇麗でかわいそうで残虐な、気狂いの化物。それでもあなたは、やっぱり人間だった。わたしなんかに薬を押し付けてくるくらいには、他人にやさしくなれる人間だった。
 あなたは私の血を啜ってくれるのだろうか。
 急速に死んでいくわたしは今、そのことだけが気がかりだ。




2014/0209 子葱。

ヴィルヘルム←地下書庫の女の子。
リスペクトしたのは、アメリカの作家ホーソンの『ラパチーニの娘』でした。
読書する中尉はとてもかわいいと思います。

『即興』さんに提出。「わたしは絶対に手の内を明かしたりしない」で参加させて頂きました。

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