Auf Wiedersehen, Klaus.
※黒円卓を転々としてたロリ螢ちゃんと子供に慣れない中尉。
目が覚めて、白い光を見て、不意に泣いてしまいそうになる朝がある。
たとえばそれは、幼い頃のヴァイナハテンの朝であった。
「Frohe Weihnachten」
櫻井螢はその声を聞いて、とても意外なものを見た、と言うようにぱちりと目をまたたかせた。
その日の朝は、螢はいつもより早起きだった。白い息を吐きながらいそいそ起き出した螢が寝床にしていた小さな物置を出ると、彼女とは反対に今からまさに寝床に向かおうとのしのし歩く白貌の軍人にかち合ったのだ。
櫻井螢の、今の保護者。
『吸血鬼』だの『串刺し公』だのと呼ばれる、第三帝国のSS中尉――ヴィルヘルム・エーレンブルグ=カズィクル・ベイである。
あ、と身を竦ませた螢に、ベイは赤眼を鬱陶しげにすがめ、「アー」と掠れた声を漏らしてからさっさと地下への扉を開き、肩越しに、社交辞令のように気持ちの乗らないだるっそうな声で先の言葉を投げた。
「Frohe Weihnachten」、と――流麗で投げやりなドイツ語の発音は、螢に聞き取らせることなど意識してはいない。
「あ、っ……」
それでも螢は、人外の串刺し公のそんな言葉にぱちりと黒い瞳をまたたかせ、見開き、珊瑚色のくちびるをむずつかせた。まさかこの悪鬼羅刹の如き保護者が言うとは思えなかったその言葉が、なんだか妙にくすぐったかったのだ。
「ふ、ぁ、……Frohe、」
「俺ァ夜になったら出る。それまで好きにしてろ」
しかしもたもたと言葉を紡ぎかけた螢には無頓着に、ベイはトントン、と苛立たしげに靴を鳴らす。彼は昼を好まない。さっさと地下に引っ込みたいのだ。それはカズィクル・ベイ中尉と櫻井螢にとってはありふれた日常風景である。
これくらいの冷遇、螢には普通だった。ぶっきらぼうで暴力的な戦闘狂の無頼漢であるベイ中尉は、螢と初めて会った時から甲斐甲斐しい保護者の真似事などする気は無いと突っぱねている。
だから、ベイのこの態度が悪いわけではなかった――結果として、引き金を引いてしまったというだけだ。
「……ふぇぇ……」
「……ア?」
ベイが投げやりな指示を言い終わるや否や、いっときはぱちりと開かれ輝いた螢の丸い目から、ぽろりと涙が零れ出た。
立ち尽くし、華奢な二本足と両手を震わせて、やけに無防備にベイを見上げながら、気丈を振舞おうと常に必死な櫻井螢は唐突に泣き出したのだ。
この突然の落涙には、さすがにベイも驚いた。外で夜中に何をしていたのか返り血の付いた白い顔が、訝しげに螢の方を振り返る。
「オイ、なんだガキ」
「う……ひっく……」
「……なんだっつってんだろ、テメェは喋れねぇ犬かよ」
赤い眼をすがめ、白い牙のような歯を晒して歯軋るように言ったベイを見上げ、螢は少し迷った。
言ったってきっと、このひとにはわからない。このひとはばけものだ。
そう思うと同時、しかし先ほど言われた『Frohe Weihnachten』のくすぐったい響きも忘れられない。あれは、この白貌の鬼のような男が初めて螢が期待した言葉をくれた瞬間だったのだ。
気丈でいたがる櫻井螢は、しかしいかにもいとけなく、期待したものをくれる相手に弱かった。
「……さ、」
だから、螢はカズィクル・ベイに――ヴィルヘルム・エーレンブルグに、今朝起き抜けに白い光の中で泣き出したくなったことを伝えてみたくなった。
「サンタ、さん……」
「あ?」
「サンタ、さん、こなかった……」
ぼろり、またひとつ、大粒の涙が螢の丸い頬を転がり落ちた。
ちなみに、このときのカズィクル・ベイ中尉の心中を占めたのは『面倒くせぇぇぇぇぇ!!』という呻きとも叫びともつかない情動であった。
櫻井螢を引き取るはめになった時から常々思ってはいたのだが、子供というのはほんとうに面倒くさい。自分の幼少期においてヴィルヘルムが"親"からされた愛情表現とは空腹で動けないヴィルヘルムにまとわるようにくちづける、といった、ひどく倒錯した盲目的な狂気だった。だから彼は、子供がどう扱われて然るべきかを知らない。ただ自分の環境が異常だったことしかわからないのだ。それなのに
『当然殺してはなりませんよ。黒円卓にこれ以上空きを作るわけにいきません。わかりますね』
神父に釘を刺され、『黒円卓第四位の騎士として』この指令を受けてしまえば、ベイはこの少女をもう捨て置くことは出来ない。なんだかんだ、彼は忠義に厚いところがあった。
しかし、である。
『いいですか、少女というのは繊細なのです。しかるに――』
その後、神父に長々と少女の育児について説かれ、感受性がどうの性格がどうのと精神論を展開され、最終的に
『本当に、殺したりしてはいけませんよ。あと犯したりもしないで下さいね』
と念を押されたときには、身内とはある程度――彼なりにかなり親身に――コミュニケーションをとる性質のベイですら『ンなガキに勃つかボケがああ!!』と怒鳴って目の前のテーブルを蹴り飛ばした。ベイの気性が荒いというのもあったが、このときばかりは本当に、神父の念押しが鬱陶しすぎた。これでもベイはキレるまでおよそ2時間はギリギリ歯軋りして指先でトントンと苛立たしげに机を叩きつつも『おー』だの『アー』だの律儀に相槌を打ってやったのだ。
そんなこともあって、つまりは一から十まで一切漏れなく、子供と云うのは面倒くさいものだ。
しかも仮にも彼女は"櫻井"であり、まあ、黒円卓にとっては必要だ。たとえそれが生贄という形になろうと、彼女のことはそれまでは生き永らえさせて、黄金の獣に尽くさせねばならない。
となれば下手に無視は出来ないし、突っぱねるのも不可能。
ベイが本気で苛立って彼女を排除したいと思えば、うっかり殺してしまいかねないのだ。
(あぁぁぁ、クッソが……)
ちいさく、螢に聞こえないように舌打ちした。
数十年前――1939年の黎明を思い出して夜中にふらりと出歩き、どこか酔ったようにぼおっとしたまま帰宅して『Frohe Weihnachten』などと言ってやったら何故か泣かれてこのザマだ。そもそも何故泣かれた。これが神父の言った少女の神秘性だの感受性だの言うものか。
その上、サンタときた。
金貨でも欲しかったのかこのメスガキ。
それで気がすむなら昨夜どこかから獲ってくればよかった。
少女と、チンピラのようにガラの悪い軍人の男は、ヴァイナハテンの朝の冴えた空気の中、互いに『うぐぐぐぐ』と歯軋りしながら睨み合った。
「……あーあーあー、悪ィ悪ィ!」
少し睨み合ってから、ベイがひらりと手を振った。それから白い髪をがしがし片手で掻いて、億劫そうに眼を泳がせる。不慣れな嘘でもつくような風情で、白貌の男はやけっぱちに少し声を大きくした。
「サンタの野郎なら俺が犯して殺して喰っちまったンだよ!」
「ふぇっ……!?」
螢は、目の前の男の告白に顔色を無くした。
この男は、いま、何を――
「だから来年もテメェのとこには来れねぇわな。あァ悪かったよ謝らあ。だがまぁ、あんなどこのジジイとも知れねぇ赤装束の気狂い野郎に願かけしてるようじゃいつまで経っても獣の爪牙にゃなれねェってこった!」
そこまで言って、切れ長の鋭い赤眼で螢の涙が引っ込んだのをギロリと見下ろすと、ベイは「ん。よし」とどこか満足げに頷いて今度こそ地下室に引っ込んで行った。
バタンと閉まったドアの音を聴いて、螢はふらり、硬直していた両足を動かす。
(やっぱりあのひとはばけものだった)
優しい記憶はもう手の届かない場所に失われて、二度と縋れない。
サンタさんすらも、あの白い男に喰われてしまったのだと言う。
(おかして、ころして……)
櫻井螢は少女だったが、裏社会を生きる遍歴のため、カズィクル・ベイが煽るようにまくし立てた言葉の意味を痺れた頭で鈍く理解していた。
「……ベイって、男のひとともえっちなことするんだ……」
へんなの。と。現実逃避的に回らない舌でそう呟いて、螢はひとりきり、白い息を吐き出した。
もう、涙は出なかった。
「――ということがあって、だから私、ベイは年上専門で男の人が好きなんだってずっと思ってたのよね。SS師団時代の話を聞いてても男色疑惑がずっとあったから、変にいやらしい感じがしたものよ」
「うわあ……」
「なんつーか……」
「あはは! も、傑作ねぇ! ベイがここにいなくてよかったわ〜」
けらけらと笑うルサルカを他所に、蓮と司狼はなんとも言えない顔をしていた。
先に聞いたベアトリスと戒と螢の住居に『チェチェン行ってロシア人殺そうぜ!』と誘いに来た話といい、どうも櫻井が語るカズィクル・ベイは、残虐ではあるが変に不器用でしょっぱい気持ちになる。
「しかし、あいつそんなふうにレオンの子育てしてたわけね。お陰であたしは楽させてもらっちゃったのかしら」
「楽?」
訝しげに螢が尋ねると、ルサルカは「えぇ」と笑う。
「だって、あいつが勢い任せの不器用な嘘までついて甘い甘ぁいレオンちゃんの幻想をバキバキにしてくれた後で、あなたあたしの所に来たわけでしょ? 涙を見るような汚れ役はだいたいベイがやってくれたわけだから、あたしは楽だったわ」
そもそも、死者蘇生を願いながら『ヴァイナハテンにサンタが来なかった』なんて泣く子供、あたしだったら余計に泣かせたくて意地悪しちゃうかもしんないし、と。
そう続けたルサルカは更に「ま、どうせそのへんも全部クリストフの裁量なんでしょうねぇ」と呟いた。
「ベイにしたら精一杯、子供のお遊戯に付き合ってみてたんだと思うわよ? ふふ、上出来すぎて可笑しいくらい」
「……ふん」
悪戯気なルサルカに微笑まれて、螢はムスッと、少し拗ねたように眉を寄せた。普段折り合いの悪い狂犬じみた男に対するプラス評価に素直に同意する気にもなれないのか、ツンと横を向いてしまう。
蓮と司狼はそんな女子ふたりの会話を静かに聞いていた。
ヴィルヘルム・エーレンブルグの日ごろ目に付かない律儀さを目の当たりにしてほんの少しだけ感心したりもしたが、チラと目が合うと「けど……」「……なぁ」と苦笑してしまう。
こう、男としては、素直にほっこりできないというか。
「や、ガキ相手にまたすげー嘘吐いたもんだとは思うけどよ。それでシュピーネやら上官やらとことごとくデキてるとか思われてたっつー中尉殿、ちょっとなんか、かわいそうじゃねえ? なあ、蓮」
「うん、まぁな……俺もさすがにそう思った……」
あのヴァイナハテンの朝。
涙が引っ込んだ螢を「ん。よし」と見下ろして、ベイはさっさと地下室に入っていった。
聖ニコラウスなんて、彼だって見たことは無い。信じたことも無い。
それでも彼は、そんなゆめまぼろしを『喰った』と言ったのだ。
どうせそうすることしか出来ないのだからと。
朝日から遠ざかりたくて地下に降りる前に、螢が泣き止んだのを確認するだけして。
不器用な白い吸血鬼に殺された櫻井螢のサンタクロースは、もう、いない。
2013/1225 子葱。
『Auf Wiedersehen, Klaus.』
――さよなら、サンタさん。
ロリ螢と中尉のヴァイナハテン、でした。
幸せは遠く、しかし近く、されどけっして目には見えない。
(Frohe Weihnachten! 2013.12.25.)