白い獣の生と恋 | ナノ
獣の戀

※黒円卓に入らないパラレルなふたり。1939年、ベルリン。



(-1938. -. -.)

 ――おねがい だきしめて

 震える少年の泣き声は、同時に獣の産声だった。

 ――ぼくを、×してよぉ……

 掠れたボーイソプラノは、神様の耳にも届かない。
 白銀の髪を自分の血でしとどに濡らして、中性的な少年はその日に壊れたあるひとつの感傷を幻視しながら、それから逃げるようにふらふらと夜を徘徊し始めた。
 母を殺し父を殺した短剣を痩せた手に持って、ずっと昔に聞いた他所の母の子守唄を口ずさみながら。


  *

(-1939.10.30.)

 ただでさえ荒れた町を恐慌に陥れている凶悪犯『片目の鬼』は、白い少女の形をしているらしい。
 それがどういうわけで自分だと勘違いされるのか。ヴィルヘルム・エーレンブルグは思い切り嫌そうにしかめ面をして舌打ちした。両腕に無造作に包帯を巻きつけ、裾の裂けた服を纏った長身。薄い身体は、しかしか弱げなわけではない。
 人間離れした白い肌に髪、そして血の色をした瞳――確かに自分はアルビノの畜生児であり他の多くの人間よりずっと『白い』だろうが、とはいえれっきとした大人の男である。どう見ても少女ではないだろうに、と。

「テメェらの頭にゃあ血も涙も詰まってねぇって聞いてたがよ、挙句目ン玉まで腐っちまってんのかよ。オォ? ニィさんよぉ!」

 ガン、と音をたてて壁を蹴る。長い足は、今しがた自分に襲い掛かってきたゲシュタポの顔の横スレスレに鎚のように叩き込まれた。ヒィ、と絞られた細い声に、見下ろす赤眼がすがめられる。鬱陶しがっているのもあるが、純粋に目を凝らさねば焦点を合わせ辛いという理由もあった。
 色素欠乏――アルビノの目は、紫外線や光に弱い。
 夕焼けの名残が失せない時間にこんな場所でこんな相手とやりあっている状況そのものに、ヴィルヘルムは苛立っていた。昼は、彼の時間ではない。

「色ボケた重役殿を殺した『片目の鬼』だぁ? ハッ! 掘ったり掘られたりが趣味の変態ジジィなんざ知ったこっちゃねぇんだよ。俺じゃねぇっつっただろうが、なぁ? それをしつっこくご機嫌に追っかけ回して来やがって……色だけ合ってりゃイイってんならそこらに落ちてる骨でも拾って帰れや」

 なんなら手頃に転がってる場所でも教えてやろうか、と抑えた掠れ声でせせら笑ってやれば、ゲシュタポの男は縮み上がって何度も「ごめんなさい」「許して」を繰り返す。壁を蹴ったままの片足に体重をかけて背中を丸めるように男の顔を覗き込むと、茶色い目が怯えた子犬のようにヴィルヘルムの白貌を見返し、次の瞬間には恐怖が臨界に達したのか「あああああ!」と叫んで両腕を前に出してきた。

「お? ははっ、ンだよ、まだやんのか!?」

 両手の指の骨は十本中半分以上折られている。足ももうまともには歩けない。それでも飛び掛ってきたゲシュタポの男は、もう冷静な判断力を失っているようだった。そしてその事実に、ヴィルヘルムは浮かれる。ニィ、と口角をつり上げて、近頃の彼の通り名である『吸血鬼』よろしく獰猛に笑んだ。

「いーぃねえ! そそるぜニィさん、やっぱ軍人さんは丈夫だねぇ。すげェすげェ!」

 壁から離した足をそのまま横に薙いで飛び掛ろうとした男の身体を真横にふっ飛ばしながら、ヴィルヘルムは夜が始まり出して暗くなって来た空をチラと見遣った。チカ、と、眩しくもない星が見える。藍色の空を見て、冷え始めた空気を吸って、白い畜生児は今度は随分と無邪気に笑った。すがめられていた赤い眼を開いて、「アー」と声を出す。

「やあっと、夜だ……」

 ぽつりと、呟いた。
 先ほどまでの調子とは違う、それはひどく子供じみた、確かめるような声音で。

「なあ、……く、はは。さァ、いいぜェ、遊ぶか俺と。夜は俺の時間なンだよ。なァ、今なら俺だって気分良く付き合ってやれるっつってんだ……」

 唄うように言いながら、ざり、と靴底で石畳を擦るように歩み寄ると、「バケモノ」と、満身創痍で這い蹲った男が震え声で呟くのが聞こえた。
 ヴィルヘルムはぱちりと目を瞬かせた後、弱々しすぎる罵倒に機嫌を損ねるでもなく「おう」と応じ、この状況が無ければいっそ人懐っこくすら見える笑顔を浮かべる。乳白の肌に血色が透けた赤眼という変わった色彩が彼の容貌をある種異端に追いやってはいるものの、その顔は端整に整っていた。

「よく気付けたな、褒めてやるよ」

 どこか満足げにそう言い落として、ヴィルヘルムの包帯まみれの片手がゆらりと持ち上がる。
 ――その時だった。


 這い蹲ったゲシュタポの男が背にしていた建物の4階の窓ガラスが内側から弾け飛び、そこから素っ裸の男が落下してきた。


「――アア?」

 ポカンとするヴィルヘルムの目の前で、今しがた手を伸ばしかけたゲシュタポの男の上に、突如窓から放り出されてきた素っ裸の太った男が鈍い音をたてて落ちた。
 まさに、一瞬の出来事である。

「……おいおい、なんだァこりゃあ」

 これからもうひとしきり遊ぼうと思った相手は今の衝撃で首の骨をやられたのかびくんと身を引き攣らせて事切れており、落ちて来た裸の男も彼を下敷きにして死んでいる――その胸や喉、腹に走る裂傷から血や臓器をぼとぼとと溢しながら。
 落下の際に返り血のように頬に跳ねた裸の男の血を白い指で荒く拭いながら、ヴィルヘルムはみるみる不機嫌な顔になって、この大きな落し物を落として来た窓をゆらり、見上げた。

「ざっけんじゃねぇぞ……どこのどいつか知らねぇがンなくっせぇデブ窓から気軽に棄ててんじゃねぇよ! 俺の今夜の相手がテメェのクッソ汚ェ落し物で潰されちまっただろうがッ!!」

 はじめは絞るように抑えられていた声は徐々に大きくなり、すぐに大音声の喚き声になる。今日の夜は遊び相手が居るのだと先ほどまで機嫌が良かった『吸血鬼』は、この無粋で下品極まりない妨害にいたく興を削がれていた。
 赤い眼を見開いて思い切り睨みつけた窓は、キィ、と外側に開いて蝶番を軋ませている。その木枠に、ヒタリと細い指が這わされたのが見えた。

「んん……? う、ふふ」

 まどろむような笑い声が、夜の空気に妙に澄んで響く。木枠にかかった白い指はたぐるように動いて、すぐにその持ち主である少女――あるいは少年――が、窓からゆらりと身を乗り出してヴィルヘルムを見下ろした。にこり、と、口の端だけで笑って、中性的なその子供は声を繋げる。

「はじめまして、オニイサン」

 白銀の髪、青い眼。小作りで可憐な容貌の顔には、しかし右目を隠すようにぐるぐると包帯が巻きつけられている。ばらり、長い髪が埃っぽい風にあおられて揺れた。
 見た目だけなら何のことは無い、幼年趣味を相手にした街娼だ。しかしその隻眼は、暴力の匂いを嗅ぎなれたヴィルヘルムの直感にピリリとした刺激を与えていた。

「なんだァ、テメェ……俺と似たような色しやがって」
「んー? あ、ほんとだねぇ、オニイサン真っ白。うふ、でも残念ー、僕とオニイサンは違うんだぁ」
「アァ?」
「僕はね、ひとりで完成してるんだ」

 にっこり、笑んだその子供は不意に、先ほどまでより更に身を乗り出した。貴婦人風を装った安っぽい白いドレスを来た性別不詳の子供は、片手につばの広いこれまた白い帽子を持っている。そしてもう片手には――血のついた、短剣。

「ん、なっ――!?」

 さすがに絶句したヴィルヘルムが二の句を継ぐ前に、白い子供はひらりとスカートを翻してその身を窓の外に躍らせた。当然、待っている運命は自由落下だ。しかし子供は、先ほどの太った全裸の男の二の舞を踏む事は無かった。
 ギャリギャリリリリリリリリリッ、と耳障りな音をたてながら、華奢な手に握られた短剣が家屋の壁を削って落下の勢いを殺す。それから細い身体全体を捻るように、先ほど落ちて来た裸の男の上で、この奇妙な子供は白いドレスをぶわりと広げながら弾むように目まぐるしく受身を取った。

「なっ、ンなんだ、テメェ」
「えへへ。オニイサンさっき、『今夜の相手』がいないって言ってたでしょ」

 おめかしをする少女のように白い帽子を頭に乗せながら、その子供――声や人称から察するに、少年のように見える――は立ち尽くすヴィルヘルムにステップを踏むように歩み寄った。随分小慣れた様子でにこにこと笑顔を作るこの少年と苛立ちを含ませて目を細めるヴィルヘルムは、同様に白いなりをしていながらどこか対照的で、同時にぞっとするくらい似通ってもいた。
 トントン、と、白い編み上げブーツの底が石畳を踏み叩きながら、少年が近付いてくる。

「僕のこと買わない? オニイサン奇麗だからさ、安くしたげるよ」
「ハッ……いらねぇよ。男に突っ込む趣味はねぇ」
「僕は男じゃないよ。それに女でもない。見たい? 穴はちゃんとふたつあるけど、孕みもしなけりゃ孕ませることもないんだ。ねーぇ、」

 オニイサン。
 ――媚びるように囁いた少年の、ひるがえったスカートの裾から、チラリと鈍色の刃が見えた。
 瞬間、動物的な反射で、ヴィルヘルムは足元にあった石を思い切り少年の頭に向かって蹴り飛ばす。一歩踏み込みかけた少年の包帯に覆われた右目の部分に、石はガツンと鈍い音をたててぶち当たった。「いだぁっ」という無防備であどけない声とともに、ガラン、と、石畳にナイフが落ちる。その刃は乾いた血にまみれて光沢を失っていた。
 どれほどの生き物を殺めれば、ナイフはこういうふうになるだろうか。
 案外冷静に、ヴィルヘルムは「ああそうか」と呟いた。

 ――ただでさえ荒れた町を恐慌に陥れている凶悪犯『片目の鬼』は、白い少女の形をしているらしい――

「――あれァ、テメェか」

 そこでやっと、ヴィルヘルム・エーレンブルグは――この『吸血鬼』の通り名を持つアルビノの畜生児は、目の前の小柄で、華奢で、そしてイカレた暴力の塊に向かって、ニィと獰猛に口角をつり上げた。

「つまり俺ァテメェのせいでくっそダリィ言いがかりつけられて、挙句遊び相手まで横から潰されて散々な目にあってんだなぁ、パチモン野郎……」
「いたい……いたいよぉオニイサン、血が、……ぁ、あ。血が出てる!」

 今しがた石をぶつけられた右目を包帯越しに押さえて、少年は先ほどまでの上機嫌から一転、怯えたように震える声でぶつぶつと呻いていた。
 その包帯には、新しい血なんか滲んでいない。
 それでも少年はぶるぶるとわななく手をそっと目から離して左目で見下ろすと、もう一度「ちがでてる!」とヒステリックに叫んだ。

「おい、ひとりでラリってんじゃねぇよそこの淫売小僧」
「血、血がぁ……ふ、う……うううう、ふ、うふ」

 青い片目が、ゆっくりとヴィルヘルムをとらえる。
 その顔は、泣き出しそうに、恍惚と頬さえ桃色に染めて笑っていた。
 思わず片眉を上げて「ア?」といぶかしんだヴィルヘルムに、少年は「いいねえ」とまだ震えの残る声で呟いた。じり、と、また一歩、ヴィルヘルムに向かって踏み出しながら。

「いいよぉ、オニイサン……ふ、あはは。いいよいいよ、ノれる感じだ! オニイサぁン、ねぇ、決めたよ僕、今夜はオニイサンとじゃなきゃ遊ばない! アァ、そうだ名前……名前が知りたいな。ねぇ、ねぇ、名前、教えて、教えて知りたいんだ!!」
「……何キめてんのか知らねぇが、うざってぇトび方だな」

 言葉を重ねるにつれどんどん大きく甲高くなる少年の声に赤い眼を鬱陶しげにすがめて、ヴィルヘルムはだらりと両腕を下ろし、ゆるく背を丸める。少年は踊るようにスカートを翻しながら、何処からか取り出したナイフと短剣を両手に握った。
 獣の感覚を研ぎ澄ませながら、白いふたりは、宵の底で厭らしく笑い合う。

「ヴィルヘルム・エーレンブルグだ」
「ふうん。うふふ。ヴィルヘルムか。きれーな名前だねぇ」
「そりゃアどうも」
「僕はヴォルフガング・シュライバーっていうんだ」
「ハ。やっぱり男かよ」
「んもー、だからぁ、男でも女でもないんだってば」

 わざとらしく膨れ面をしてから、シュライバーと名乗った少年はとっておきの秘密を話す子供のようにとびきり可憐に笑って、少し声を落とした。そうして、

「僕はねひとりで完成してるんだよ」

 呪文のようなそれを言い終わるやいなや、人間離れした速度で一撃目を放つ。巻き添えを喰らったゲシュタポと裸の男の死体が、ゴミのように千切れて煤けた石畳を更にべたりと汚した。
 荒れたベルリンの貧民街での、それが、ふたりの出会いである。


 *

(-1939.11.15.)

「ヴィールーヘールームっ」
「……っだよ、またテメェかよ」

 不機嫌を隠しもせずに舌打ちをして、ヴィルヘルムは育ちの悪い客でやかましくごった返す酒場に現れた場違いな白色を睨んだ。
 んふふ、と含み笑った少年は、そうと知らなければ少女と言われてもまったく違和感が無い。相変わらず白いドレスを纏った彼――シュライバーは、ヴィルヘルムの向かいの椅子に座ってこてんとあざとく小首を傾げた。
 橙色のランタンの照明に白銀の髪を透かすこの街娼は、それなりに広い店内の注目を集めている。まだ酔うほど酒が入っていなかったヴィルヘルムはなんだか白けた気分で硬い椅子の背もたれに身を預け、分厚い木製のテーブルを色素欠乏の真っ白い指先で苛立たしげにトントンと叩いた。
 既に小動物程度なら目で殺せそうな迫力を孕む赤い三白眼を可笑しそうに見返して、青い隻眼は機嫌よく細まる。

「きみ、僕のこと壊してくれるって威勢よく言ってくれたでしょ。けど前のだけじゃ物足りなくってさァ……身体がうずいてしょうがないから、ついつい探して来ちゃったんだよね」
「いちいちうぜェ言い回ししてんじゃねぇよ。営業ならそこらで適当に股開いて来いや、ゲテモン好きならイイ感じに釣れンだろ。ここに来てンのはマトモじゃねぇのが多いから大繁盛じゃねェのか」
「あは! ひっどいなぁ、オニイサン」

 わざとらしく笑うシュライバーの右目を隠す包帯には、膿と血の色が滲んでいる。汚ぇな、と、ヴィルヘルムはまた舌打ちをした。自分の両腕の包帯にも常に血が滲んでいるのだから似たようなものなのだろうが、その『似たようなものである』という事実がいっそうヴィルヘルムの癪に障った。
 白い、手負いの、獣。
 初めて会ったときから、ふたりはどこか対照的で、けれど厭味なくらいによく似ていた。
 ゆえに、同族嫌悪。対抗意識。獣の論理だ。ヴィルヘルムは、シュライバーというこの子供がとても嫌いだった。

「オニイサンとじゃなきゃヤダぁーって、あの時最後に言ったじゃない。ね、ヴィルヘルム、忘れてなんかないくせに」
「忘れたな」
「嘘だぁ。僕だって覚えてるんだもの、ヴィルヘルムは忘れないよ」

 ねーぇ、と、笑うシュライバーに、ヴィルヘルムは「だったらよ」と投げやりに言う。

「もっぺんやり合うでもなんでも俺ァ構わねぇ、ああやってやるよ。タマ無しの軍人共にジャマされねぇトコで今度はきっちり殺してやる」
「あはは! やっぱりイイなー、ヴィルヘルムのそういうの。あああ、濡れてきちゃう」
「膿でも出てんだろ……だがテメェ、あの後俺にかかって来ねぇで何してやがったか言ってみろや。なァ?」

 歯軋りするようにそこまで言って、ヴィルヘルムは血と膿に汚れた包帯で愛らしい顔を半分隠した少年をギロリと睨みつけた。けらけら笑っていたのを止めて、ぱちり、と隻眼を瞬かせたシュライバーが、その赤い視線を受けてにんまりとやわく微笑む。


 あの日、初めて出会ったふたりは、お互いに半死半生になるまで殺しあった。
 ふたりとも武道を修めているわけではなく、ただただ野生の獣じみた暴力をふるって命を削り喰らい合う。人間でありながら半ば以上人間をやめにかかっている似た者同士、白い獣2匹。その闘いはまさに存在証明であり、捕食だった。
 闘いはどちらかが負けるまで終わらないはずだった。獣の闘いの敗北は、イコール死だ。
 しかし勝敗は、再び悪名高き『片目の鬼』を捜索しに巡回して来たゲシュタポによってあやふやにされる。
 横合いから邪魔をされ、苛立ち、先にゲシュタポの方からぶちのめしながら目まぐるしく動き回るうち、ふたりは入り組んだ街路ですっかり互いを見失ってしまったのである。
 獣と軍相手の連戦でさすがに力尽きたヴィルヘルムは、白い身体を引き摺ってねぐらに戻った。
 別れ際にシュライバーがひしめく軍服の隙間から叫んだ『ヴィルヘルム、ねぇ、ちゃんと終わるまでヤろう! ねぇ、待ってて!』という言葉を、ボンヤリと朧になった意識の端に引っ掛けながら。


 闘う前に、彼らは正面きって名乗りあった。ヴィルヘルムの名は、このあたりの界隈では『吸血鬼』の二つ名をもつ凶悪犯として知れ渡っている。再会は容易いだろう。
 シュライバーは、すぐに再戦を仕掛けてくるだろうと思われた。
 ヴィルヘルムの方も、身体が動くようになり次第シュライバーを探そうと行動を開始しようとしたのだ。
 しかしそれよりも、シュライバーの思わぬ行動の方が先手を取った。

「あれァ、どういうつもりだよ。なァ、シュライバー」
「んー? あれ、ってなんのこと?」
「すっとぼけてンじゃねぇよ。気狂いのくせに細けェやり方しやがって」

 ――何人殺して、どれだけ壊した?
 酒場の人間達の喧騒に紛れるように抑えた声で、憎々しげに、ヴィルヘルムは絞り出した。
 テーブルを挟んで、シュライバーは令嬢風のドレスの襟元を細い指先でいじりながら「うーんとね」と澄んだボーイソプラノを紡ぐ。

「女は6人、くらい。かな? ヴィルヘルムって意外と安いのも買うんだねぇ、きっと僕の方がイイよ」
「男だか女だかわかんねぇケダモノに突っ込む趣味はねぇな」
「僕、上手なのに。きみになら一番いいサービスだってしたげるよ」

 営業用なのか不意に艶を含んだ目つきをするこの片目の少年は、ヴィルヘルムが彼を見つける前に、これまでヴィルヘルムと関係を持った女を次々に殺して回っていたのだ。鼻歌まじりに、少女が遊覧するかのような軽快さで貧民街の影から影を渡り歩いて。
 それだけではない、シュライバーはヴィルヘルム・エーレンブルグの出自をめぐる場所を鼻が利く狼のように荒らし回っていた。ヴィルヘルムが焼いた生家、ヴィルヘルムが警官を殺して逮捕された路地、ヴィルヘルムが脱獄した留置所。
 思い出したくもない『人でなし』の来歴を、この少女の姿をした白い獣は暴いて犯して、その挙句に今日、やっと本人のもとにぬけぬけとやって来た。
 出会いから2週間ほどのこの想わぬアプローチで、ヴィルヘルムは凄絶に気分が悪くなっていた。『殺してやりたい』という言葉すら眩むくらいに。

「ね、ヴィルヘルム」

 ある種人間じみた感傷のようなものを奥歯で噛み潰すヴィルヘルムの渋面に、そんな機微がわからないのかそれともわかって無視しているのか、シュライバーがにっこり、どこか得意げに笑って、ツイと身を乗り出した。


「やっぱり、『姉さん』の身体が一番よかったの?」
「ッ――!!」


 ただでさえ白いヴィルヘルムの顔が、青白くなる。
 度外れた怒りは、瞬間的にはかえって温度を伴わなかった。
 それは、ヴィルヘルム・エーレンブルグのはじまりのタブーで。

「……引き裂いて殺すぞ、ケダモノ野郎」
「えぇー! まだ感想、聞いてないんだけど」

 きみのこともっと知りたいよ、きみが動かなくなる前に。
 そう続けられたシュライバーの言葉で、ヴィルヘルムの血は沸騰した。


  *

(-1927. -. -.)

『わたしの、かわいい、ヴィルヘルム』

 唄うように言う女は、ヴィルヘルム・エーレンブルグ少年の母であり、姉であり、そして

『ね、ここはわたしの"お花屋さん"なんだから、本物のお花も置いてみようと思うのよ』

 実父との間に生したこのアルビノの畜生児を、恐らく世界で唯一盲目的に愛した女だった。

『ねぇ、ヴィルヘルム』

 ヴィルヘルムは色素欠乏の白い肌には刺激の強すぎる日光から隠れて日陰にうずくまっている。実父にでもよその男にでも構わず股を開いて日銭を稼ぐ彼女は、何も知らない生娘のようにころころ笑って、ヴィルヘルムの隣に座り込んだ。血は濃く繋がっているが、ふたりの髪や肌の色はまるで違う。ヘルガは、アルビノでもなんでもない純アーリア人だった。
 その髪と肌の色だけ、ヴィルヘルムは、羨んだことがあった。しかしそれ以外に、彼が彼女の何かをチラとでも羨んだことなど一度も無かった。

『あなたは何の花が好き?』

 "お花屋さん"だなんて、彼女のくちから聞こえても悪趣味な隠喩にしかならない。幼いヴィルヘルムにだって、そんなことはわかっていた。彼には、どうして彼女が――母であり姉であり、また恋人のように自分に接してくるヘルガ・エーレンブルグがこんなふうに無知な笑い方を出来るのかがまったくわからなかった。
 この女は莫迦だ。
 心の底からそう思いながら、それでもヴィルヘルムは、ヘルガの夢見るような口調に付き合って『しらねぇ』とちいさな掠れ声を出した。腹が減って腹が減って、それ以上の声は出したくもなかった。
 早く夜になれ、と、白い子供は赤眼を茫洋と揺らめかせながら願う。

『アネモネの花言葉は、"薄れゆく希望"ですって。なんだか、きれいね』

 割れた窓から差し込む太陽光は、埃に乱反射して白く明るく部屋を蹂躙している。父は眠っていた。ヘルガからは、その父のものであろう精液のにおいがした。

『それからスイセンは、"私の元へ帰ってきて"』

 ヘルガが知る花言葉は、彼女やヴィルヘルムがよく知る類の――ゆえに、かえってその実感を得がたい――悲劇的な感傷ばかりを唄っていた。

『でも、これは違うわね。だってヴィルヘルムは、わたしから離れることだってないもの。帰って来て、なんて、おかしいわ』
『……』
『ねぇ、ねぇ、ヴィルヘルム。わたしの、かわいいひと』

 するり、と、細い指がヴィルヘルムの白い肌を撫でながら彼の服の内に這い入った。

『これが夢なら、醒めないでほしいなぁ。もし醒めたら……、そうよ、ぴったりの花言葉があったわ――』

 莫迦な女が笑う。なぜか、両目からほろほろと涙をこぼしながら。
 しなだれかかってくる彼女に押し倒されて湿った床に寝かされたヴィルヘルムは、早く夜になれ、はやくよるになれと念じながら、唄うような睦言を無抵抗に浴びていた。戯れつく女をつっぱねるという選択肢なんて、売春窟と化した家で育った彼には思考の外側にしか存在しない。

『アリウム・ギガンチュームの花言葉は、"無限の悲しみ"なんですって』

 白い畜生児は思った。
 自分は、この莫迦な女とあの腐れた父親の血で汚れている。
 けものだ。
 誰も彼も、みんなけものだ。
 そして誰よりも自分こそが、いちばん汚れたけものなのだろう。だからこんなにも、太陽の光が怖ろしいのだ。
 どうか早く夜になれ。
 夜は、――夜が、俺の時間だ。

『どうか夢なら醒めないで――ずっとここにいて。ねぇ、わたしのヴィルヘルム。わたし、あなたがあんまり愛しくて愛しくて、それだからひどくさびしいわ』


 ――その年の冬に、ヴィルヘルム・エーレンブルグはヘルガ・エーレンブルグを強姦の末殺害した。最期まで彼女は莫迦で、ヴィルヘルムにとって彼女の惜しみない歪んだ『愛』は不可解でしかなかった。
 ついでのように父をも殺し、家に火を点けて。
 そのとき彼は、自分が『けもののなりくさし』であることををやめたのだと思った。
 人間には最初からなれなくて、矮弱なけもののなりくさしであることもやめて、そうしてひとりぼっちの、夜に棲むバケモノになったのだと――10歳の少年は血濡れの白貌を月に晒しながら、痛々しいくらいにそう信じたのである。


  *

(-1939.11.15.)

「僕はね、ひとりで完成してるんだ。ねぇだって見てみてよ、僕の身体は男でも女でもないんだ。ほらァ、穴がふたつあるでしょ。
 母さんがね僕を娼婦としてみんなに愛されるようにこうしたんだって。だからおかしいんだ、ぼくが愛されないなんてさ。ねぇ聞いてよ、誰かが言ったんだ。
『お前は誰にも愛されない』って。
 ばかげてるだろ。そう思うよね。
 だって母さんは僕にちゃんと、気持ちイイやり方とか教えてくれたんだよ? そうだよ、母さんは僕を愛してた! なんだか死んじゃったんだけどね。不思議でしょう。アアそうだ、僕が殺したんだっけ。『誰にも愛されない』なんて、僕に、言うから!
 ばかげてるよね。
 ところでさあ、ねぇねぇホラ、繁殖器が無いのって神秘でしょ。神話でしょ! ねーぇ、僕はさ、僕ひとり、一代っきりで完成してるんだ!
 下らない下等生物ほどべちゃべちゃ繁殖するでしょ? 僕の存在はその対極なんだよ、ねえわかる? 下等の反対は高等でしょ。うふ、あはは、だから僕は死なないんだ! 不死! オニイサンにだって僕のことは殺せないよ!
 あれ、そういえばオニイサンって名前なんだっけ。ああそうだ、ヴィルヘルムだよね。ヴィルって呼んでいいかなあ。
 僕、ヴィルのこと嫌いじゃないよ。
 白いでしょ。奇麗でしょ。それになかなか死なないでしょ。もうさ、僕、ヴィルのこと考えたら疼いて疼いて仕方ないんだぁ!
 あーあーあー興奮しちゃう。だから正直、きみが動かなくなる前に一回くらいはヤっときたいんだよね。絶対すっごいイイよぉ! ィイイイヤッハァ!
 きみと僕って似てるよね。だから僕、きみがすきで、きみのことは殺したいって思うよ。
 でもねぇどうなんだろう、もし僕が劣等に混じって生まれてたら、僕、ヴィルとなら繁殖したって構わないな。
 あれ、おかしいこと言った? ヴィルくらいこのへんの街に慣れてたら知ってるでしょ、娼婦ってさ案外一途なんだよ。僕だってくちにキスはしない主義なの。えへん。したい? んふふ、ねぇ、ヴィルヘルム、きみとならいいよ。
 抱いてもいいよ。キスしたっていいよ。なんなら、僕、きみのこと犯したいなあ!
 ね、ね、ね、穴、ヴィルはいくつある? 無かったらまず抉って空けなきゃだめでしょ。それから、何を入れよっか。交尾ごっこ! うん、どっちかというと僕、きみのことは犯したいな。白くて、奇麗で、それにきっとぐちゃぐちゃにされたきみはさ、娼婦みたいに一途に僕だけ見てくれるよね。そしたらいっぱい殺し合おう! 動けなくなるまで!
 僕だけ見て『殺す』って言って!
 僕だけ見て『八つ裂きにするぞ』って言って!
 僕だけ、僕だけ――ああ、ねぇ、こういうのって、なんて言えばいいのかなあ!?
 ずっと昔に忘れちゃった気がするんだ。ねぇ、犯してくっついてべたべたに同一化してひとつになるのって、なんて言ったらいいんだろ。ヴィルヘルム、ねえ!
 ンー。うーん。あーっ、やだやだ! それがわかんないままきみと終わっちゃうのはどうしてもヤだから、今夜はもう帰るね。
 おやすみ、いい夢を! 僕のこと考えて抜いてくれたら、とってもうれしいな! だって僕だけなんて、そんなのなんだか不公平でしょ」


  *

(-1939.12.24.)

 酒場を巻き添えにして狂乱を振り撒きながら殺し合ったふたりの勝敗は、結局またも曖昧になってしまっていた。あの夜から1ヶ月と少し、街はヴァイナハテンが目前に近付き、教会辺りは賑やかさが増している。
 そんな冬の街を、ヴィルヘルム・エーレンブルグはあの白い少女のような少年――シュライバーを探して回っていた。酒場での殺し合いから毎夜だ。
 切れ長の赤眼には、明確な殺意が燃えている。殺してやる、殺してやる、殺してやる。
 同族嫌悪。対抗意識。それに因縁を重ねた今となっては何か、言いようの無い執着を孕んだ殺意。
 自分と似ていて自分とは違うあの白い獣の存在を、どうしたって許してはいけない。

 ヴィルヘルムは、10歳の冬にバケモノになったのだ。
 人間にはなれなかった子供、人間として社会に承認されることの無かった忌み子の、自死と再生。そうして生まれた、白い獣。
 彼がそういう自分をどう思っているかは、彼自身にも曖昧だった。ただ自らの"血"には思うところがあるのか、ヴィルヘルムは人や動物を殺すとその血を啜るという儀式をいつも行っている。自らの腕を傷つけて血を流し、かわりに他者の血を啜って『汚い"血"を入れ替える』。ゆえに、彼の異名は『吸血鬼』。
 どれだけ血を入れ替えても、10歳の冬、最期に繋がった母であり姉である女――ヘルガの血と同じ臭いが消えない。 
 夢見るようなあの口調も、いつまで経っても消えてなくならないままだ。

『"無限の悲しみ"』

 大仰な言葉はひどく陳腐で、彼女の盲目的で愚かしい『愛』にはあまりにもよく似合っていた。だからだろうか。ヴィルヘルムは唯一、その花言葉だけは未だに覚えている。アリウム・ギガンチューム。"無限の悲しみ"――

『あなたがあんまり愛しくて愛しくて、それだからひどくさみしいわ』

 ほろほろと泣きながら精液臭い身体で抱きついてきたあの日のヘルガを、何故だろう、ヴィルヘルムは近頃、ふとしたときに思い出していた。それは大抵冬の夜のなかを、あの少女の姿をした白い獣を探して徘徊しているときだ。
 吐く息の白さが目障りで、ヴィルヘルムは身を切る冷気に喉を晒してぐっと夜空を仰いだ。眩しくも無い星、丸い月。濁った雲がひとかたまり、ゆっくりと風に押し流されている。濃い紺色の空を赤い眼に映して、ヴィルヘルムは「アア」とまたひとつ息を吐いた。
 そこは、街の外れの、少し開けた石畳の広場だった。

「やァっと見つけたぜぇ、シュライバー」
「ン……と。きみ、誰だっけ? ああっ、待って、ヴィルヘルム! そうでしょ!」

 呆けた様子でふらふらと広場を横切ろうとしていたシュライバーの白いドレスは少し襟元やボタンが乱れていて、スカートの裾に血がついている。はじめは焦点の合っていない片目でヴィルヘルムをとらえたシュライバーは、その名を思い出すや否や満面の笑みを浮かべて声を大きく張り上げた。

「会いたかったよ! ね、ね、君、僕のこと探してくれたの!?」
「おォ、探してやったぜ感激しろや……今度こそ最期までガッタガタにイかせてやっからよ」
「あっ――は。あはは! サイッコーだ、それ。やっぱり僕ヴィルのことすきだよ、絶対僕が殺したい。前に言ったっけこれ?」
「ああ聞いた。ケダモノに好かれて喜ぶような獣姦趣味はねぇンだが、そうだな俺も言ってやるよ――」

 思えばそう、へルガのことは、他の誰でもなく自分が犯して殺してやらなければならないと思ったのだった。
 そうしないと自分は、何者にもなれないと。
 ヴィルヘルム・エーレンブルグの死生観は、あの頃から変わっていない。そして彼女のある種の延長線として今彼の前に立っているのが、何処かしら自分によく似た白い獣、ヴォルフガング・シュライバーなのだ。
 夢なら醒めないで、と言ったヘルガの声が、夜風の隙間から聞こえる。
 ヘルガを殺してバケモノになった白い子供は、赤い眼を見開いて白い犬歯を晒し、白貌を歪めて凄絶に笑んだ。

「テメェは、俺が殺してかっ喰らってやる」

 そうして、自分は夜に無敵の怪物になるのだと。
 人間になりそこなった所から端を発した信仰に暴力的な気迫を乗せて、ヴィルヘルムはゆるく背を丸め、だらりと両腕を垂らした。彼の臨戦態勢だ。

「……ああ。こういうの、なんて言うのかな」

 恍惚とした笑みを浮かべて、シュライバーもドレスの内からナイフと短剣を1本ずつ取り出す。
 可憐なそのくちもとが、不似合いなくらい厭らしく欲を乗せた笑みを含んだ。

「ゆめなら――」




 ――醒めないで、と、続いたのかもしれない。
 奇しくもあの背徳的な白昼に聞いた睦言と同じだったかもしれないその言葉を最後まで言い終わる前に、ヴィルヘルムはシュライバーの背後に鈍く光る影が動くのを見た。




「がッ、ァ、……!」

 銃声。
 直後に血を吹いたのは、フリルで飾られたシュライバーの華奢な脇腹だった。
 瞠目した白い獣達に、無情で無粋な人間の声がぶつけられる。バッ、と音がして、照明の灯りが月明かりしか無いはずだった夜闇を裂いて相対していた白い彼らを照らし出した。

「そこのふたり! ヴォルフガング・シュライバーにヴィルヘルム・エーレンブルグ!!速やかに投降せよ! 動けば即座に発砲する!」
「は、ァ……いだぁ、痛い、痛いよ血が、血が」

 硬質な声を他所に、シュライバーはあどけない子供のように無防備に身体を震わせていた。脇腹からぼたぼたと血が落ち、白いドレスはみるみる赤く染まって行く。
 その細い身体がよろめいた途端、先ほどとは違う方向からダァンと銃声が響いた。シュライバーの肩を掠めた弾は、痩せた子供の肉を千切って新たに血を噴出させる。

「動くな! 動くなッ!!」

 広場のふたりを包囲したゲシュタポ達は、この白い獣達をひどく怖れているのだ。だからこそ、過剰防衛がまかり通る。「痛いよ、痛いよぉ」と声をあげるシュライバーは、倒れることすら許されない。
 ふたりぼっちの獣の夜からほんのわずかな時間で、彼らの時間であったはずの夜は人間達に侵略されていた。

「ぇ、あ。あ、痛……」
「〜〜〜っ、だから、動くなと……撃つぞっ!!」

 シュライバーは、未だこの状況を理解出来ていない。武装した軍に包囲されていることも、自分達の夜が蹂躙されていることも、自分に投げつけられる「動くな」という言葉も。彼は、あまりに本能に忠実な獣でありすぎた。
 状況の判断は、シュライバーよりは大人で人間の暴力に慣れたヴィルヘルムの方が先んじていた。それはすぐさま、ひとつの理解に繋がる。

 ――シュライバーは撃ち殺される

 考え終わるよりも先に、身体が動いた。

 ――俺以外の、人間に

 それはどうしたって許されない。獲物の横取りなんて絶対に許さない。同族嫌悪。対抗意識。この獣は他の誰でもない自分が殺して喰ってやらなければならない。殺してやる殺してやる殺してやる、だから、他の誰も、邪魔立ては許さない。

 大きく一歩踏み込んで、華奢な肩を引っ掴んだ。茫然自失の青い隻眼を見下ろして、すぐにその身体を地面に叩き付ける。ヴィルヘルムの腕を銃弾がかすめた。地面に横たわったシュライバーが起き上がらないように傷付いた肩と足の関節を押さえる。シュライバーの、女のように長い白銀の髪が石畳に広がった。そこにヴィルヘルムの血がぼたぼたと落ちる。「動くな」「撃つぞ」という声が遠くで聞こえて、アア、と、ヴィルヘルムは思った。せめてシュライバーは、この白い獣は、他でもない、自分が。
 噴き出す血からはやはり10歳の冬に犯して殺したヘルガの血と同じ臭いがして、まるで性行為の最中のような錯覚がヴィルヘルムの頭をかすめた。
 ヘルガか人間かシュライバーか、誰かが何事か言っているかもしれないが、もうわからない。
 殺してやる殺してやる殺してやる。
 獣の論理で埋め尽くされた思考のなか、アルビノの畜生児は身体に無数の弾丸を受けて、それでも獰猛に口角を上げた。仰のいて、喉仏を晒して、血を吐きながら最後の息を吸って



「シュライバァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア―――ッ!!!」



 それは泣き声のようにも、笑い声のようにも聞こえる咆哮だった。
 月に向かって吼えたヴィルヘルム・エーレンブルグは、ヒュ、と息を止めて、そのまま事切れた。


  *

(-1939.12.25.)

 ちょうど日付が変わり、教会では「フローエ・ヴァイナハテン!」と祝福の声がさざめいた瞬間、あんなにも殺したかった男が身体中から血を噴きながらばたりと倒れこんできて、シュライバーは「ヴィルヘルム?」と掠れた声を出した。白い耳元で囁かれたボーイソプラノに、しかしヴィルヘルムは反応しない。つい今しがた、あんなにも大音声で自分の名を呼ばわったのに。

「ね、ぇ……ねぇったらぁ……」

 もぞ、と、傷まない方の手で、ヴィルヘルムの身体をまさぐる。銃弾は彼らの上を素通りするか、シュライバーの真上に圧し掛かるように倒れたヴィルヘルムの身体を抉っていた。
 細く白い身体は、どこにふれてもぬるりとべたつく。性行為の時みたいだ、汗と汁でべたべたなときの、と、シュライバーはどこか現実逃避的に思考した。
 そのとき不意に、シュライバーのすべてを否定した母の言葉が蘇る。

『お前は誰にも愛されない』

 娼婦として生きる以外の道をシュライバーに与えなかった母。少年の身体を穿って、女の模造品にした母。そうしてそれでもとすがりついた最後の感傷を、感情を、否定されて、そうして彼は――ヴォルフガング・シュライバーは

「や、だぁ……いやだよぉ……」

 ヴィルヘルムの顔を震える手で支えて、自分の顔の目の前に彼の白貌が来るようにして、シュライバーは初めて触れるその薄いくちびるに細い指を這わせた。
 自分に似ていて、自分とは違っていて、それに他の人間のように簡単に動かなくならなくて。
 真っ白い容貌も、赤い瞳も、なにもかも奇麗だと思った。欲しかった。だから殺したかったし、彼の鮮烈な殺意も、執着も、なにもかもひとりじめしてやりたかった――他の誰でもない、自分が。

「ヴィル……ヴィルヘルム」

 鼻先を、ヴィルヘルムのすっととおった鼻梁にすり寄せる。
 甘える獣の子供のように、白い子供は、白い男に、震える声で、ずっと忘れていた言葉を囁いた。

「おねがい……だきしめて……」

 なんて言ったらいいのかなぁ、と自問してきた、その答えを


「僕を、殺してよぉ――」


 シュライバー自身が生み出し、縋っていた不死の幻想、完全な生のまぼろしを否定する泣き言。銃声に隠れるようなその囁きは、神様の耳にも届かない。
 ヴィルヘルムからの返事も、無かった。
 シュライバーは動かないヴィルヘルムのうなじに手を這わせて、そのくちびるに力の加減も無しに噛み付いた。娼婦の子は、くちづけの仕方も満足には知らなかったのだ。
 血の滲むくちびるを舐めながら、シュライバーは泣き出しそうな顔で微笑む。そうして、遠いいつかの日に聞いた子守唄を口ずさみ始めた。
 母が彼に歌ってくれたわけではない。表の通りを歩く知らない女が、彼女の赤ん坊に歌い聞かせてあやしていたのをぼんやりと聞きかじるうちに覚えた歌だ。曲名だって知らない。
 出鱈目な節で唄いながら、シュライバーは自分のそれより一回り大きな薄く白い手をまさぐり出し、短剣を握らせる。


「――お願い、抱き締めて――」


 最期にもう一度だけ、シュライバーはそう言った。
 直後に、短剣を握らせたヴィルヘルムの手を、自分の首に向かって下ろす。
 それはじゃれる獣のような、あるいは子供のごっこ遊びのような、ひどくあどけない自死だった。



2013/1204 子葱。

獣の戀。
獣にならないと生き延びられなかった子供達の、生と死と恋の話でした。

二次創作小説企画『涙を流す剥製美』さまに提出。
アリウム・ギガンチューム"無限の悲しみ"で参加させて頂きました。


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