▼ シンデレラ・ストーリー<中>
馬が走ること暫くして、魏国の中心地・洛陽に到着した。
周りにはきらびやかな服を纏う女性が数多く往来しており、そんな人ごみを掻き分けていくかのように元姫は馬を走らせていく。
そして、辿り着いた場所は……洛陽の城の裏手にある馬小屋だった。
「さ、着いたわ。早速着替えを……と思ったけど、湯船に浸かるのが先かもしれないわ。大浴場まで案内するわね」
「いえ、そんな……!」
「女官も数人待機させているから、着替えや化粧の類は彼女達に任せて。準備が終わったら迎えに行くから、安心して。ね?」
否定の言葉を口にしようとしても、元姫はなかなか聴いてくれないのか別の方向へと視線を向けながら歩き出してしまう。
慌てふためきながら、出迎えてくれた女官たちに連れられて大浴場へと足を運ぶことになった翠。そして、あれよあれよと湯船に浸かり身体を洗ってから身なりを整えるなど。流れ作業のように身を任せてしまう翠は、目をグルグルさせながら女官たちのされるがままになっていた。
見慣れない高価な服に袖を通し、薄い化粧をされていくと小さく戸を開く音が聞こえてくる。
「準備はどう?」
「元姫様! この方は原石ですよ! とっても美しくなられました」
「薄汚れた服を着ていた方とは思えない美貌を持たれてたようで、我々も驚いてばかりですよ」
ホクホクと嬉しそうな笑顔を浮かべる女官たちに目をパチクリさせる翠は、どう声をかければ良いのか困っている様子。
不安な気持ちと、自分の身に何が起きたのか……冷静になりながら状況を判断しようとした時だ。
「司馬昭殿! これから部下に指示を出そうとしている時に、何の用ですか!」
「まあまあ、ちょっとだけだって! な?」
(え……?)
耳に入り込んできた男性二人の声……その内の一つは、翠にとってとても聞き慣れた声だった。
ドクン、ドクン、と痛いくらい心臓が鼓動を速めていく。
「よう元姫! 上手くいったようだな」
「子上殿、女性の部屋に堂々と入ってくるものじゃないわ」
「わ、悪い……」
しゅん、と小さくなるように語尾を落とす男の声に、ハァと大きな溜め息をつく声が続く。
「元姫殿、申し訳ありません。司馬昭殿に無理やり……」
「謝らないで。貴方を呼ぶように、子上殿に頼んだのは私だもの」
「は?」
ふぬけた声を出す彼に視線を送ってから、元姫は翠へと視線を戻す。
「お節介だったかもしれないけど、貴女たちを引き合わせたかったの。後は頑張って、翠殿」
「は、はい!」
「!!」
ポン、と肩に手を乗せられた拍子に返事を返す翠。そんな彼女の声に、彼は目を見開いて驚いているようだった。
双方共に固まってしまっている様子を見ながら、元姫は女官たちや司馬昭を連れて部屋を出て行く。必然的に、この部屋には翠たち二人だけとなってしまった。
「翠殿、なのか……?」
声の主は、驚愕に似た声を漏らしながら……ゆっくりと背を向ける翠へと歩み寄っていく。そして、そっと彼女の肩に触れてきた。
「この声は、公休さんで……間違いありません、ね?」
「ああ、そうさ」
「お会い、したかったです」
震える手を隠しながら、連が振り向いた先にいたのは……白地の清楚な服を着た一人の男だった。顔立ちの良い真っ直ぐな瞳を持つ彼に、翠は何度目か分からない胸の高鳴りを感じる。
声を聞いただけで惹かれ、こうして出会えたことで……どんどん彼に対して恋に落ちていく――。誰に言われなくても、これだけは分かっていた。
「随分と、美しくなられたな……全て元姫殿にしていただいたのでしょうか?」
「は、はい……よく分からないまま、あれよあれよと……」
「同性だからだろう、貴女の魅力を十分引き出してくれた……彼女には感謝せねば」
優しく頬を撫でてくる彼の手が気持ちよくて、薄くしか化粧をしていないのにも関わらず頬に赤みが帯びる。
「改めて、名乗らねばなるまいな」
愛しく撫でていく手はゆっくりと下がっていき、翠の手を包み込みながら彼は真っ直ぐ視線を彼女に向けた。
「私は諸葛誕、字を公休という。今晩、翠殿の時間を……私が頂いても良いだろうか?」
「……はい。今晩、私と共に居てください……公休、さん」
連の言葉に嬉しそうな笑みを浮かべた諸葛誕は、先導するかのように彼女の手を引いて部屋を後にした。
向かう先は、今晩の大きな行事の一つである司馬師の婚約者を決める広間だ。あそこには大勢の女性達が集まっており、一人一人顔を合わせて挨拶をし合っているらしい。
「私も、挨拶しないと……」
「いや、する必要もあるまい」
会場に近付くと、諸葛誕は繋いでいる手に力を込める。
「司馬師殿が翠殿に目をつけられては困る。私が唯一惚れ込んでいる女子を奪われてはたまったものではないからな」
「そ、それってどういう……!?」
自分の耳を疑いながら、驚いて振り向く。翠のすぐ後ろに立っている諸葛誕は、瞳を細くさせながら彼女へ熱い眼差しを向けていた。
「言葉の通りだ。私は貴女に惚れ込んでいる……一人の女性として、本気で好いているのだ」
「ぁ……そ、の……」
「本当なら、私の妻としてこの場で連れ去り……所有印をこの肌に刻み込みたい」
少しでもずらせば肌が見えてしまいそうな服に手をかけながら、諸葛誕は話し続けていく。
愛しくて、言葉にするにはあまりにも安っぽく聞こえてしまう想いを抱きながら、ゆっくりと降下する手の動きが止まる気配がない。
「他の事が考えられなくなるくらい……私なしでは生きられなくなれば良い。他の奴の元へ行かせはしない……」
「い、行きませんよ……行けません」
蚊の鳴くような小さな声だったが、彼には聞こえたようで動かしていた手がピタリと止まる。
「私だって、姿が見えなかった公休さんの声に惹かれていましたから……今でも貴方に惹かれてて、何かをするにも貴方の事ばかり考えてしまうというのに……これ以上夢中にさせて、どう責任を取ってくれるのですか?」
ムッとしながら話しているものの、顔を赤くしているところを見ると恥ずかしいのが分かる。それに加えて上目遣いということもあり、諸葛誕の心を更に掴んでしまっているのを……この時の翠は気付いていなかった。
「責任なら取ろう。我が生涯をかけて、な」
「ッ……」
つい先ほど顔を合わせたばかりだというのに、自分でも驚くくらい早く目の前の男に惹かれているのが分かる、と翠は思った。
恋焦がれていた想いに更なる拍車がかかり、もっと知りたいという気持ちばかり先走りする。隙間なく抱きしめて欲しくて、お互いに求めるように口付けを交わしたいなんて、口が裂けても言えない。
「薄汚れている姿だったとはいえ、貴方に惹かれた男がいてもおかしくない。この場には女子以外にも、連れの男子も混ざっていると聞くな……」
少しだけ考える素振りを見せる彼に、小さく首をかしげながら様子を伺う。少々不安げな表情を浮かべていると、腰へと回された手に力が籠もりゆっくりと押された。
「ここで、貴女が私のモノであると皆に認めてもらうのもまた、一興というものか」
そう呟きながら、彼は翠を連れて会場内へと入っていく。
***
諸葛誕殿の様子がおかしい。そう元姫の口から出てきた言葉に、司馬一家は動かしていた箸を止めた。
これは、司馬師の花嫁選びが行われる一月も前の出来事である。一緒に食事をしていた元姫に、司馬昭は「は?」とふぬけた声を出したものだ。
「ほう、やはり元姫も気付いていたか……」
「毎晩城外に出て戻ってきている状態を見れば、明らかかと」
「仕事には支障を出していないと聞いていたが、やはり気になるものだな」
司馬師や司馬懿も心当たりがあるのか、双方共に頷いている。只一人、司馬昭だけは話についていけないのか頭上に大量の疑問符を浮かべていた。
「気になるわね、その行為の先に女性が絡んでいるともなれば尚更」
「しゅ、春華……?」
「女性の噂が一つもない諸葛誕殿だもの。意味も無く行動するわけが無いわ……女性が絡んでるともなれば、ね」
「げ、元姫……?」
司馬懿は妻の、司馬昭は恋人の発する雰囲気にタラリと冷や汗を流した。興味が沸いたらとことん追求してしまうのも、人間の性と言えるだろう。
話を聞いていた司馬師もまた、「面白そうだ」と口にしながら春華と元姫の起こす行動に耳を傾けるのだった。
そして、一週間と経たないうちに諸葛誕の行動の真意が分かったのである。
「やっぱり、女性が絡んでいたのね」
「義理の母と姉の三人暮らし、父を亡くしてから一歩も外に出たことが無い? これ、どういうことかしら」
「さあな」
調査を頼んでから数日、賈充が持ってきた資料に目を通しながら二人は目を見開かせた。
掃除、洗濯、裁縫をこなし……父を亡くしてから家から一歩も出たことが無い。これではまるで……
「呆れたわ。一つ屋根の下で生活する家族なのに、これじゃ召使いじゃない」
「そんな彼女に諸葛誕殿が惹かれたのも、無理ないわね」
「近隣の住民の話によれば、彼女は絶世の美人らしいな。容姿も完璧、それに加えて性格も人当たりが良いともなれば……」
「嗚呼、家族からの嫉妬ってヤツね」
よくある話だ。と元姫は思いながら、資料へと視線を戻す。
「父親を亡くして半年……家族からの無理難題な仕事量に、そろそろ身体も限界のはず。なのに……」
「彼女、笑っているのね。賈充殿」
「そうだな……」
ここ数日、空いている時間を見つけては賈充は覆い茂る木々の隙間から観察するように、彼女……翠を見ていたのだ。
家族の提示する仕事をこなし、理不尽な暴言を言われる日も少なくない日々、一歩も外に出れないような状況下。寝る時間も起きる時間も、家族と比べて誰よりも遅くに寝て、誰よりも早く起きている。これでは身体を壊しかねない。
そんな状況なのにも関わらず、暗い顔一つせずに仕事をこなしているともなれば……誰であっても興味を持つわけで。
「ここで働く女官以上の仕事量を毎日こなしていて、おまけに性格も良くて美人なんて。子元のお嫁さんに来て欲しいくらいだわ」
「ですが、彼女は諸葛誕殿が目をつけています。それに、恐らく彼女も……」
「そうね……でも、やっぱり一度会ってみたいわね。その翠殿に」
だが、一人の女性を城内へと招くとなれば……事は大きくなりかねない。一般の、ましてや小さな村に住まう一人の女性を呼ぶともなれば……根も葉もない妙な噂まで一緒になってついてくるに違いないから。
ならば、どうすれば特定の女性と顔合わせをすることが出来るだろうか?
そんなことを思いながら首をかしげている際に思いついたのが……司馬師の花嫁選びだった。
***
「意外にも多いものだな」
花嫁選び当日、多くの女性と挨拶を交わしていく中で司馬師がポロリと呟いた言葉が、それだった。
城外へ特別なことが無い限り出ない司馬師からすれば、近隣に住まう全ての女性を集めようという母親の意見に同意しかねる部分もあった。だが、自身の立場や後継者の話題が出てきたともなれば……早いうちに妻と呼べる女性を娶る必要がある。
そして、挨拶をしていく中……一際ざわつく一角があるのに気付いた。
まだ招いた女性の半分も挨拶ができていない状態ではあるが、少しだけ気になった司馬師はざわめいている根源へと視線を動かす。そして、何故か納得したように頷いたのである。
「ほう? 諸葛誕、やるな」
ざわつきの中心にいたのは、諸葛誕と一人の女性。しかも彼が寄り添うようにして歩いており、その相手が目を見開くほどの美人ときた。
この花嫁選びの本当の意味を知る司馬師は、顎に手を添えて二人の様子を見る。
挨拶を交わしながら村人たちと会話をする諸葛誕は、放すまいと彼女の腰へ腕を回している。対する彼女は、恥ずかしいのか耳まで真っ赤にさせながら俯いていた。嫌がる素振りを見せてないところをみると、諸葛誕の行為を受け入れているようだ。
「あれが『相思相愛』の形よ、子元」
「! は、母上……」
「素敵だと思わない? お互いに惹かれてて、繋ぎ止めたいという態度が露で」
フフフと笑う春華は、当初の目的が達成されたことでとても満足そうな笑みを浮かべていた。
「多分あの二人は、容姿や地位など関係なく……お互い好き合ってるみたいね。子元も見習うといいわ」
「は、はあ……」
「本気の恋に落ちるとね、周りが見えなくなってしまうくらい夢中になるものだから」
そんな会話をする二人は、大体挨拶が終わって会場から出て行く諸葛誕たちへと向ける。
この時浮かべていた彼の顔は、今まで見たことが無いくらい……穏やかで優しい笑みを浮かべていた。
***
「公休さん、そろそろ……」
「もう、帰られるのか……」
会場を出て、少しの間だけ中庭を歩いていたとき、翠がそう口を開いた。
家族にも内緒でここに着ているのだ、この花嫁選びが終わる前に帰らなければ……不審がられるのは言うまでもないこと。だから、そのことを気にしていた翠は遠慮がちにそう話を切り出したのだ。
「一緒に歩けたことが、とても嬉しかったです。まるで、夢みたいで……」
「夢で終わらせる気はない。この先もずっと、私の隣に歩くのは貴女だけだ……貴女でなければ、意味が無い」
優しく触れてくる腕の中があまりにも心地よく感じてしまい、ずっと身を委ねてしまいそうになる。
だが、翠には帰らなければいけない場所があるのだ。いつもと変わらない、朝が早く夜が遅く感じる日常が待ち構えている場所へ……
「翠殿、最後に一つだけ……返事を貰いたい」
「な……なんでしょうか?」
口付けてもおかしくないくらい、お互い至近距離で話をする。視界が彼で埋め尽くされてる中、ゆっくりと口を開いていく。
「会場へ入る前に言ったことを……憶えているだろうか?」
「はい……」
「私は、本気で翠殿を好いている。我が妻として迎え、生涯を共にしたいと思うくらい……愛しているのだ」
「ッ!」
トクンと、何度目か分からない早鐘を打ったのを感じる。顔の知らない相手に惹かれて、こうして出逢えたことで更に好きになって。そんな彼から、妻になってくれと告白されている。
彼に触れられた箇所が熱くなっていくのを感じ、キュッと唇を強く閉ざす。
「貴女の返事を、貰いたい。こうして一緒にいてくれてるということは、私のことを少なからず好いてくださってると言うこと。貴女の本心を、私は知りたいのだ……」
不安で仕方が無いのか、少しだけ揺らいでいる瞳になっている彼に翠は瞳を細めた。
男性との関わりを持てなかった翠からすれば、諸葛誕は初めて言葉を交わせた異性であり……初めて好きという感情を抱くことが出来た人物。返事など、始めから一つしか用意されていなかった。
少しだけ緊張しているせいか上手く言葉にすることが出来ない翠だが、少しだけ背伸びをしてそっと彼の唇に自分のを重ねた。触れるだけの口付けだが、諸葛誕を驚かせるには十分すぎる行為だ。
「あの日……草陰からとはいえ声をかけてくれた貴方が、こうして目の前に現れてくれたことが……とても嬉しい。優しく声をかけてくれて、私のことを第一に考えてくれた貴方だから……惹かれたのです」
ゆっくりと唇を離し、翠は彼の胸へと頬を摺り寄せるように触れていく。
「あの時からずっと、お慕いしてます。世間知らずで不束者ではありますが、私を公休さんの妻にしてください」
愛してします、と紡ごうとした唇は……近付いてきた諸葛誕の口付けによってかき消されていった。
触れるだけの優しいものから、口内を犯していくかのような荒々しい口付けへと変わっていく……
離すまいと翠の頭へと回っていく腕の力が解かれる様子も無く、限りある時間の間ずっと……口付けを交わしていくのだった。お互いの想いを確かめるように……繋がれている手に力を込めながら……
***
あ、あれ? 終わらない、だと?(゚Д゚)
2014/04/20