いつからだろう……ふと気付けば、貴女の事を目で追うようになっていた。♪(まったく、何処へ行かれたのか……ッ)
苛立ちを隠さないまま、私は長い廊下をズカズカと早歩きで進んでいる。
それもこれも、全て司馬昭殿のせいだ。彼に渡した竹簡が一向に司馬師殿の下へ行ってないことを指摘され、しっかりと執務をこなしているか確認するために部屋を訪れてみたら、誰もいなかった。
これはつまり、執務から逃げていることを意味している。これ以上司馬師殿の不安要素を増やさないためにも、一刻も早く彼には決められた仕事を完遂してもらわねば……!!
「ちょっと葵さん? ここがまだ汚れていてよ?」
「す、すみません……」
「?」
そんなに離れていない場所から、女性の声が聞こえてきた。片方の女性の声が、あまりにも偉そうでずうずうしい声だったこともそうだが、もう一つの愛らしい声に私は歩みを止めたのだ。
「女官として入って二月経つというのに、掃除はおろか仕事の配分など何故忠実にできないの? これでは先が思いやられるわッ!」
「申し訳、ありません……皆さんの足を引っ張らないようにしていきますので……」
「言い訳は聞きたくないわ! ついでだから、あそこに置かれている竹簡を諸葛誕様にお渡ししてきてくれない?」
「え、それは女官長の仕事では……」
「つべこべ言わずにやるのよ! わかった!?」
罵声に押されながらも自分の言葉を紡ごうとする彼女をけなすように、女官長と呼ばれた女性はその場から姿を消した。
残された彼女は、目の前にある箒と庭に散らばる数枚の木の葉を見つめてから、縁側に置かれている大量の竹簡を見て視線を下へと向けている。何故ああも言われ、仕事を増やされているのだろうか? 私が見た限りでは、彼女はちゃんと仕事をしているようだ。何処かの誰かさんと違って……
「あら、またいびられているの? 葵ちゃん」
「そうみたいね」
また別の場所から、女官たちの小さな声が聞こえてきた。ヒソヒソと話をしている彼女達の声に、私は意識を集中する。
「葵ちゃんも災難よね〜。ここで働き始めて早二月、古くからいる私たち以上に仕事をこなしているし武将様たちにも高く評価されているのに……全てあの女官長の手柄にされているんだもの」
「ねー。料理も上手だし、人当たりも良いし、なによりも洞察力や記憶力も凄いから思わず頼っちゃうのよね」
「まあ、あの子も自分の気持ちを上手く相手に伝えられないのも原因の一つかもしれないわ。引っ込み思案のようだし」
「あんな女官長がいるから、新しい子を雇っても早々に辞めていかれるのよね。葵ちゃんは強い子だよ」
「後であの子の仕事、手伝ってあげましょう。陰ながら、だけど」
「そうね〜、あの女官長に見つからないようにしないと……」
その後も、いくつか会話をしてから静かに消えていく女官たちの声に、私は再度葵という女官へと視線を向けた。
庭掃除が終わったのだろう、落ち葉を拾いゴミ袋の中へと入れた彼女は、早足でゴミ捨て場へと向かったようだ。そして、暫くすると戻ってきて縁側に置かれた竹簡を頑張って抱えながらゆっくりと歩き出す。
(これは、手伝った方が良さそうだな)
女性にしてはあまりにも量の多い竹簡を抱えて、必死に持ち運んでいる彼女を見捨てることが出来ない。
丁度近くまで来たこともあり、私は目の前の彼女に声をかけることにした。
「大変そうだな、少し手伝わせてくれないだろうか?」
「え?」
竹簡を落とさないように必死になっていたせいか、私の存在に気付くのに少しだけ時間が掛かったようにも見て取れた。
背の低い彼女は、上目遣いで私の顔を見ては目を丸くさせる。
「しょ、諸葛誕様!」
「構わぬか?」
「い、いえ! これは私の仕事ですから……!」
「ちなみに、何処へ運ぼうとしているか伺っても……?」
「……諸葛誕様の部屋へ、デス」
なら、丁度いいではないか。手伝うついでだ、こうして彼女と言葉を交わすのは初めてということもあり、会話の口実として彼女の持つ竹簡の半分を手にした。
「あッ……」
「どうせ向かう先は同じだ。共に行こうではないか」
「も、申し訳ありません! 諸葛誕様のお手を煩わせてしまって……!」
何度も頭を下げる彼女の頬は、まるで桜のように薄い桃色に染まっていた。化粧の類を身に付けているわけでもないのに、その姿にドキッと小さく早鐘を鳴らしてしまう。
「構わん。私も自室に戻ろうとしていたのだ……司馬昭殿を探していたが、何処にも見当たらなくてな……」
「あ、司馬昭様でしたら……先程司馬師様からキツイお叱りを受け、元姫様と賈充様と共にお部屋へ行かれたのを見かけましたよ」
御用があるのでしたら、部屋に行かれてみてはいかがでしょうか?
そう話す彼女の横顔は、とても美しく……私の心を捉えるには十分だった。何故だろう……もっともっと、彼女と言葉を交わしたいと切に願う自分がいる。
「これで、全てのようですが……なにやら沢山竹簡があるようで……」
「あ、ああ……」
自室に着き、戸を開くとそこには足の踏み場がないくらい竹簡が散乱していた。
今日中に確認しなきゃいけないものが山のようにあるというのに、仕事を増やしたのは司馬昭殿だな……!!
「あ、あの……諸葛誕様」
「? なんだ」
少しだけ人相を悪くしながら話をしていると、ふと視界に入ってきた彼女の指が優しく私の眉間に触れてきた。
「眉間に皺を寄せては、人相がお悪くなるのは勿論……良いことが降ってこなくなりますよ?」
不安そうな表情を浮かべながら話す彼女は、本当に私のことを心配してくれているようだ。
「それと……私で、宜しければ……その……」
竹簡を空いている机の上に置きながら、言葉を紡ごうとする彼女の姿がとても愛らしい。
そっと、この腕で抱きしめたいと思ってしまうのは……何故だ?
「お時間が合えば、お手伝いします、ので……遠慮なく、お声かけください、ね」
小さく、それでいてはっきりとした声でそう話をした彼女は、頬を林檎のように赤く染めながら私の部屋から出て行かれてしまった。
改めて名を聞こうと思っていたのだが……致し方あるまい。また彼女を見かけたら、声をかけることにしよう。
そう思った私だが、葵殿が去ってからというものの、彼女のことが気になりすぎていたこともあり……なかなか執務に身が入らず普段ならすぐに終わらせる作業を一日かけてこなしたのは別の話になる。
***
あれから数日、私は事あるごとに葵殿の姿を探すようになっていた。
離れた場所で洗濯物を抱えて小走りになったり、料理を運んでいたり、または女官長にお叱りを受けていたり……お叱りの場合は、女官長の鬱憤解消と仕事の押し付けが大きな原因の一つだろう。
そして、私が知らないだけで他の武将達も葵殿のことを話題にしているのを知った。
「葵、また女官長に怒鳴られてたぜ……」
「おお! それは真実ですか、夏侯覇殿……!!」
ここは鍛錬場。執務ばかりこなしている身として、時には身体を動かさないといけない。戦場に立つ一人の将として、司馬師殿のお手を煩わせるようなことをしないよう、日々鍛錬を積んでいる。
そんな時だ、夏侯覇殿や郭淮殿の口から葵殿の名前が出たのは。
「めっちゃくちゃ良い子だから、辞めないかが心配で……」
「そうですね……彼女以上に若い方がいないこともそうですが、あの女官長の行動には目に余ることが多いかと」
「やっぱ司馬懿殿に掛け合った方がいいかな〜、すぐ雇っても辞めていく女官が多いことに疑問を持たれてたみたいだし……」
「あれではあまりにも葵殿が可哀相だ……ごっほごっほ」
そんな二人の会話を耳にしながら、私は視界の端に移る葵殿の姿に何度目か分からない胸の高鳴りを憶えていた。
なんだというのだ? 彼女と出会ってからというものの、私はどうかしてしまったのではないか……!? 自分のことだというのに、訳が分からなくなり何度も頭を抱えてしまう。
葵殿……どうやら貴女が、私の心を掻き乱している原因のようだ……
残念ながらべた
惚れ
(この想い、名前をつけるならばどういう名になるのだろう?)