短編 | ナノ
優しい世界:あたし

わたしは………。


気がつくと、わたしは見知らぬ場所を歩いていた。
何処なのか分からないけど、不思議と不安はなかった。
作りかけの船や、碇や大砲………船に関するものすべてが置いてあるその場所は、何故だがとても懐かしい気がした。
目の前には大きな大きなクレーン。
司法の塔よりも大きいんじゃないかって思うくらいのクレーンの上に、僅かだけど人影が見えた。
わたしはクレーンに手をかけると、そのクレーンを登っていく。
もっと大変かと思ったけど、気が付くとわたしはクレーンの頂上に立っていた。

ふわふわと風になびく柔らかな青髪。
ぼんやりと眼下に広がる水の都を眺める横顔は、表情がないせいかいつもより大人びている。
クレーンの上に裸足を投げ出して座り、大切そうに小さな箱を膝に抱えていた。

「こんにちわ」

わたしの挨拶に、彼女はゆっくりと振り返る。
柔らかな笑みを唇に乗せて。

「こんにちは。………初めまして、でいいのかな?」

その人は、ワンピース姿のわたしと違って灰色のツナギを着ていて、今のわたしよりも少しだけ髪が短い。
でも、彼女は間違いなく『わたし』だった。

「あのね、みんながあなたを探してるよ。ひつじさんもきりんさんもうしさんも………きっと、ねこさんもあなたのことを探してる。どうして、あなたは出てきてくれないの?」

わたしの言葉に、彼女は少しだけ困ったように微笑む。
嬉しいような悲しいような………切ない微笑。
わたしは彼女の隣に座って、じっと彼女の瞳を見つめた。

「うしさんが好きなのはあなたで、ひつじさんがラズベリーパイを食べてほしいのはあなただし、きりんさんが名前を呼んでほしいのもあなたで、ねこさんが好きだって言ってほしいのもあなたなんだよ」

みんなみんな彼女が好きなのに。
それなのに、彼女は此処から動こうとしない。
小さな箱を抱えたまま、水の都を眺めて。

「あたしは出て来ない方がいいんだ。いや、出てきちゃだめなんだよ」

「なんで?みんな、あなたを待ってるのに」

彼女はわたしの言葉には答えず、穏やかに微笑むだけだった。


どうしてなんだろう。
彼女はあれだけみんなに愛されているのに。

どうして、すべてを忘れてしまったの?
どうして、『わたし』が生まれてしまったの?


「…………その箱の中に記憶があるの?」

「そうだよ。でも、あげない。これはあなたには必要ないものだから」

彼女は小箱を抱きしめる。
大切そうに、愛おしそうに。
その箱の中に彼女のすべてがあるかのように。

「思い出さなくていいんだ。ちゃんとみんなは『わたし』を受け入れてくれるから。『あたし』のことは忘れていくから」

まるで自分が忘れられていくことを望むように、彼女はわたしに優しく微笑んだ。
その小箱の中に何があるのか、わたしには何も分からない。
だけど、その小箱を開けてしまうことは、目の前の彼女も、わたしが大好きな彼らも………。
誰も望まないことなのだろうということは分かった。

わたしは彼女の隣から立ち上がり、彼女に背を向ける。
そんな背中にかけられる、彼女からの初めての質問。

「みんなのことは好き?」

とてもとても簡単な質問だった。
わたしは振り向いた。
彼女の瞳をまっすぐと見つめてから、わたしはこくりと頷いた。

「大好きだよ」

「そっか」

「………あなたは?」

わたしの質問に彼女は答えない。
優しく微笑むだけだった。
わたしは彼女の答えを諦めて背を向ける。
その瞬間、小さな小さな声が微かにわたしの耳に届いた。


「嫌いなら………こんなに苦しくない」


初めて聞こえた彼女の本当の気持ち。
慌てて振り返ろうとしたけど、わたしはそのまま白い光に包まれてしまう。
もう、彼女の姿は見えなくなってしまった。



幸せなわたし




目が覚めると、ねこさんの顔があった。
焦ったような驚いたような、それは初めて見る表情だった。

「ねこさん………?」

驚いて瞬きをすると、こめかみを何かが伝う。
手を伸ばして触れると、それは水滴で……どうやらわたしは泣いていたみたいだった。
状況が分からないまま身体を起こすと、そこは見慣れた司法の塔の広間だった。
みんな会議で暇だったから、ソファーに転がっているうちに寝てしまったらしい。

「何かあったのか?」

身体を起こしたわたしに、ねこさんが聞く。
いつもみたいに不機嫌じゃないねこさんに、わたしは驚きながらも首を振った。

「あの、夢を見てただけなの。もう、覚えてないんだけど………」

悪夢とは違う気がした。
とても優しくて、そして切ない夢だった気がする。

わたしの言葉を聞いたねこさんは、眉間にしわを寄せて舌打ちをする。
けれど、それはわたしの答えに怒ったというよりは、そんなことを聞いた自分に苛立ったかのようだった。
まるで何事もなかったかのようにわたしに背を向けるねこさん。
その背中にわたしは抱きついた。
動きを止めたねこさんの背中に額を押しつけ、わたしは呟いた。


「わたしは…………『わたしたち』は、本当にあなたたちが好きなんだよ」


それだけが『わたしたち』の真実だった。


彼は何も言わない。
代わりにわたしの手に、冷たい手のひらが重ねられた。



幸せなあたし




小さな箱を抱えた少女は相変わらずクレーンの上に座っていた。
眩しいものを見るように目を細めて水の都を見渡すと、今度は自分が胸に抱く小箱に視線を移す。
その顔に小さな笑みを浮かべ、愛おしそうに箱を撫でた。

「あたしはここにいる。どこにもいかない。ずっとここにいるよ」

ぽたぽたと小さな雫が箱の上に落ちる。
涙を流したまま、それでも彼女は微笑んでいた。

「………アイスバーグ………パウリー………」

大切な二つの名前を呟いて、少女は目を閉じる。

自分の世界には二人だけでいい。
他には何もいらない。


「―――――愛してるよ」


他にはもう……………何も望まない。


12/01/30

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