平ゼロ19話「英雄の条件」よりちょっと前のおはなし ‐‐‐‐‐‐ ジミーを待ってるの、とマオの口から意外な言葉が出た。キャシーはきょとんと目を見張る。 「ジミーになんの用が?」 「ちょっとね、聞きたいことがあって」 シュンシュンと音を立てながら湯気が上がって、水が沸騰したことを知らせた。 もう「いつもの」で通じるようになってしまった名柄の豆を取りだしながら、キャシーはカウンターに腰かけた常連を振り返る。 「まさかあの子がなにか我が儘言った?」 父親が出て行ってしまい、自分も仕事ばかりで構ってやれない。ジミーは寂しがっているはずだ。 ジミーが相手をしてくれるマオに懐いているのは知っていたし、彼女が頼まれれば断れない温厚な性格だということも知っている。もしや遊びに付き合ってほしいだのなんだのと駄々をこねたのではなかろうか。 「ねぇ、ジミーがなにか言ったなら…」 「ううん、そんなんじゃないの。私がその、個人的に聞きたいことがあるだけ。本当よ」 「そう…?」 となると、気になるのはその内容だった。大人であるマオに有益な情報を、子供のジミーが持っているとは到底思えない。 「聞きたいことって、」 続く言葉はベルの音によって遮られた。話題のジミーが意気揚々とドアをくぐる。 オーナーの許可を取った上で、学校帰りにはまずこの珈琲ショップへ顔を出すように言いつけてあるのだ。 「ママ、ただいま!」 「おかえりジミー」 随分と機嫌がいい。その理由はジミーの後ろについてきていた。 赤毛の若い男が「よう」と馴れ馴れしく入店する。 「…どうも」 キャシーはぶっきらぼうに返事をした。 マンションの向かいに住む男だ。ファーストネームはジェット。ファミリーネームは知らない。もしかしたら1、2回耳に入ったかも知れないが、興味がないので聞こえなかったことにしている。 ジミーは少し前からこの男と遊ぶようになった。 キャシーは最初こそ友好的な印象を抱いていたが、話をきけば若くして無職。仕事を探すでもなく昼間もぶらぶら。乱闘騒ぎを起こして相手を病院送りにしたという噂まで耳に入り、旦那を奪った愛人も似た髪色をしていたのを思い出して、ジェットの信頼は低空飛行をしている。…最後だけは、八つ当たりである。 「珈琲あるか?この前と同じの」 「………」 働いてないくせに金はでる。どこから調達しているのやら。 さっさと売りつけて帰ってもらおうと商品棚を見上げたあたりで、マオの珈琲が作りかけだったことを思い出した。 「やだ、ごめんなさいマオ、すぐ作るわ……マオ?」 いない。 店内を見渡すと、観葉植物の陰になった奥の席にこそこそと移動していた。 「マオ。どうしたの」 「う、ううん。なんでもない。なんでもないの」 「そういえばあなた、ジミーに聞きたいことがあるんでしょ?」 「もういいの!」 様子が変だ。 ジミーとジェットに簡単なジュースを出してそこらに座らせる。二人が身振り手ぶりで派手な会話を繰り広げ出したのを確認して、珈琲をマオの席へと運んだ。 マオはカバンで真っ赤な顔を隠している。 「なにもないはずないでしょう。…どうしたの?」 マオはもごもごと口を動かしながら、観葉植物越しに入口を確認している。そこにはジミーとジェットが座っている。周りに聞かれたくない話なのだと思ったキャシーは顔をずいと寄せてやった。 「言って」 「あの、その」 「ゆっくりでいいから」 「ありがとう。……ジミーに用っていうのはね、この間一緒にいた男の人のこと教えてって……言おうとしたの」 「男の人?」 あのひと、と蚊が飛ぶような音とともに指差す先は、ジェットである。 「一目惚れなの。ずっと……探してて」 キャシーは驚愕した。 「嘘でしょ!」 思った以上に大きな声が出たらしい。ジミーやジェット、他の客やオーナーまでもがこちらを振り向いた。 なんでもないの、と笑顔で視線を散らしてから、マオの腕を引っ付かんでトイレへ引き込む。 「詳しく聞かせて」 マオはいっそ哀れなほどに真っ赤だ。こんな顔をキャシーは見たことがなかった。 そしてキャシーもきっと初めて見せる顔をしている。コイバナ好きな乙女のスパイスと、彼女を心配する母性愛とが心の中でシェイクされていた。 「えと、ガラの悪い人達に絡まれたことがあるのよ。2、3週間前にね。そこを助けてくれて…」 「まぁ!」 「相手は3人で刃物まで持ってたんだけど……その、彼って強いのね?あっという間にボコボコの返り討ち。びっくりしちゃった」 キャシーは目眩がした。もしや乱闘騒ぎの噂はここが元なのではなかろうか。 「でもお礼も…名前も聞けなくて。そしたらジミーくんが、彼と歩いてるところを見たものだから」 情報を引き出そうと思ったら、まさかの本人が現れたのだった。以上、説明おわり。 「お礼と、名前と…出来るなら連絡先も知りたいの。し、知り合いなのよね?ちょっとお話させてもらえないかな」 どこか放っておけない可愛い友人に真っ赤な顔でお願いされて、キャシーは嫌だとは言えなかった。 「マオです。あ、あの、前に助けてもらったことがあるんだけど、覚えてるかしら」 キャシーは少しだけ、ジェットが「覚えてない」と返すことを期待した。 休憩をもらって4人掛けテーブルに4人。ジェットの隣がいいと駄々をこねたジミーを希望通りの場所にやって、女二人はその向かいに座った。 キャシーは喋らない。口を開けば嫌味のひとつやふたつは飛ばしてしまうからだ。 ずず、と珈琲をすする音が妙に響く。 「あぁ、あんたか!明るいトコで見ると雰囲気ちがってわかんなかったぜ」 ジェットはしっかり覚えていた。キャシーはすんでのところで舌打ちを引っ込める。 明るいところ?つまり出会いは夜道だったということだ。昼も夜もふらふらと何をやっているのだこの男は。 しかしそのおかげでマオは助けられたのだと思うと文句が言えない。 「その拙は本当に…ありがとうございました。良ければ連絡先を教えてもらいたいんですけど」 マオの、机の下で握った拳が緊張でぶるぶると震えている。 「連絡先って電話番号?つってもオレ、あんまり部屋にはいねぇからなぁ」 「あの、じゃあ、携帯電話の番号とかは……ご迷惑でしょうか…」 「う〜ん…」 「………」 さっさと教えなさいよ、この男! 健気なマオがあまりに不憫で、キャシーは心の中でついついそんな悪態をついてしまった。イライラはつのるばかりである。 ジミーもマオも、なんでよりによってこの男なの。ちっともわからない。認めたくない。 黙っているのは今回だけだ。私の大事な知り合いの、誰ひとりだってこの男には近づけたくない。 キャシーが噛む必要のない珈琲を我慢と一緒に咀嚼していると、やがてジェットが根負けしたように頭を掻いた。 「ま、いいか……」 マオの顔がぱぁっとはじける。晴れて連絡先交換だった。 マオは素早く携帯番号の入った名刺を手渡す。ジェットは卓上のナプキンを紙代わりに一枚抜き取った。 「なんかペンくれ」 これはキャシーに向けてだ。はいはいとペンを取りに立ち上がる。 「ずるいよジェット、僕にも教えてよ!」 「あんたはいいの」 ジミーをたしなめながらマオを見ると、まさに夢心地という顔で頬を赤らめていた。 キャシーは苦々しい気持ちになる。相手がジェットでなければ素直に応援できたのに。 見てなさい、もしジミーがあんたの真似して喧嘩を覚えたり、マオを巻き込んだりしたら、二度とここの珈琲は売ってやらないから。 はやく、とばかりに差し出された忌々しい手を睨んで、キャシーはこの店一番のファンシーなペンを乗せてやった。 back |