アルベルトはあらん限りの殺意を込めて背後の男を呪っていた。 しかし悲しきかな、彼には超能力なんてものがない。いくら心の中で暴言を吐いたところで誰にも届かないし、怒りの念で相手の首が締まったりも――しない。 ふざけやがって、ふざけやがって、ふざけやがって! 毛深い手が腰のあたりを撫でおろし、狙い定めたかのように尻を揉んできた。ひっ、と引き攣るように漏れた吐息をなんとか抑え込む。 アルベルト・ハインリヒ30歳、日本の列車で痴漢というものに遭っていた。 そもそもなんでこんなに混むんだ。こつら皆どこに行くんだ。 時刻は午前7時。通勤ラッシュというものに巻き込まれている。 “すし詰め”とはよく言ったもので、まさにアルベルトが正月に見た折箱に詰まった寿司のように、隙間なくぎゅうぎゅうに人間が押し込まれている。身動きを取れる状態ではなかった。 背後の男はその状況を利用してピッタリとアルベルトに寄り添い、抵抗がないのを良いことに痴漢行為を続けている。 「はぁ…はぁ…」 なんと息が荒い。 人間のクズめ。殺す、殺してやる、いやむしろ誰か俺を殺してくれ。 アルベルトがそこまで嫌悪感を抱きつつも、決して抵抗しないのには理由があった。 数時間前、ドイツ―― 夜間の仕事に出掛けるため、身支度をしていた時のことである。 ぐしゃっという金属の悲鳴に手元を見ると、いままさに掴んだと思っていたドアノブを握り潰していた。 次に、驚いて思わず後ずさった先にあった棚を窓の外にふっとばした。階下へ落下こそしなかったものの、ベランダの柵にぶち当たって互いに破損した。 かと思えば瓶の蓋も開けられないほど非力になり、まったく調整できない有様。 腕のパワーバランサーが壊れているのであった。しかも両方。 「直してくれ博士!すぐ日本に行く!」 急ぎ博士に連絡を取り――受話器を置いた際に電話も粉砕した――空港に着くなり日本行の便に飛び乗った。無断欠勤だった。 そんなこんなで日本に着き、朝を迎え、空港からギルモア邸に向かう途中……が、現在のアルベルトである。 両手はコートのポケットの中に収納している。出すわけにはいかない。 一般人相手に振りかざしたが最後、怪我を負わせるどころでは済まなくなってしまう。 更に(ここが一番のポイントに違いないが)男なのに痴漢されているという状況をまわりの人間に知られたくなかった。羞恥心やらプライドやらが邪魔をした。 くそ、もういい、触りたきゃ触れ。どうせあと少しで降車駅だ。 そしてお前が触って興奮しているのは色気の欠片もない人工筋肉だ。流れているのは血ではなくオイルだ。ざまぁみやがれ。 …そう思ったところでアルベルトの心はちっとも晴れなかった。 修理が終わったら覚えとけ、と、アルベルトは窓にうっすらと写る痴漢犯の男の顔を脳裏に刻みつける。 そのときだ。 「っ!」 腰や尻ばかりを撫でていた男の手が、前まで伸びた。身体がこわばる。こいつ、調子に乗りやがって! 暴れまわるのを我慢するだけの分別はあった。しかし、指の骨の一本や二本砕いてやろうとポケットから手を出すくらいには激情した。 「いい加減に…」 その時、一際強く電車が揺れた。 「あーっと!おじさんごめん!」 「うぉっ」 うぉっ、はアルベルトの声ではない。 いままさに握りつぶしてやろうと思っていた手が離れた。手の持ち主が、横からしなだれかかってきた女の子に押され、後ろのほうへよろけて行ったのだった。 「ごめんね、わざとじゃないよっ!あ、すみませんどいて!降ります、降ります」 高くもなく低くもなく、よく通る声が降車を宣言した。 アルベルトはそのとき初めて痴漢男の顔をまっすぐに見た。スーツを着込んだ真面目そうな男だった。 お互いぽかんとした顔で、人の隙間を縫って出口へ向かう少女をただただ眺める。ふと、少女がアルベルトを振り返った。 「あれっ、トム先生?」 「は?」 「先生も電車だったんですね!早く降りないとドア閉まっちゃいますよーいっしょに学校いきましょ!」 伸びてきた手がするりとアルベルトの肘のあたりを掴んだ。 そしてアルベルトは気付いた。それが彼女の用意してくれた嘘だということに。 どうやらネイティブ教師という設定らしい。 「ああ」やら「おう」やらよくわからない風に頷いて、アルベルトは少女と共に電車を降りた。 プシュッと空気の抜けるような音を立ててドアが閉まる。 電車は、アルベルトの我慢もプライドもすべてを乗せて、ホームから滑り出て行った。 「ふー!」 「…………」 「あ、大丈夫だった?」 「………なにが」 「痴漢」 ひゅるり、とホームを寂しげな風が流れて行った。 茫然。いまの状態を表すならその一言に尽きる。人で溢れかえっているのに、それがかえって遠い世界のざわめきに聞こえた。 じとり、と横に立つ少女を見やった。落ち着いたデザインのセーラー服の上に、茶色いコートを羽織っている。 大きな瞳がぱちりと瞬いて、アルベルトを見上げた。 「もしかして余計なことした?あれって実はそういうプレイだったとか」 「違う」 即答しておいた。 「困ってた。助かった。礼を言う」 「礼を言うって顔じゃないけど」 「……、すまん」 声がいつもの三割低くなっていることに気付いて、肺にたまった空気を吐き出す。 確かに助けられた者の態度ではない。 結果的には目の前の少女に助けられた。だというのにどこか釈然としないのは、大の大人が女子高校生なぞに助けられてしまった(しかも痴漢行為をされていた)という情けなさと羞恥があるからだった。 「私、マオ」 何故か自己紹介をしてきた少女が、すっと手を差し出す。寒さで指先がピンクに染まっていた。アルベルトはそれを握り返せない。ポケットに突っ込んだままである。 「握手嫌い?いいけど」 それをどう捉えたか、特に気にした風もなく、彼女もまた同じように手をポケットにしまった。 「この路線って痴漢が多くってさ!困っちゃうよね。よく乗るの?」 「…いや」 「そ。ならもう乗らないほうがいいかもね。もし次があるなら気を付けて。じゃね」 次の電車まで寒さをしのごうと待合室へ足を向けるマオ。 このまま別れれば、彼女の中でアルベルトは「痴漢されてた人」で終わる。我慢できない。なんとかして上書きしなければ。 「ちょっと待て」 手は使えないので、ぐるりとまわりこんで体で止めた。「なに?」と見上げてくる瞳は黒い。 「改めて礼がしたい。連絡先を教えてくれないか」 目下の目標、イメージの塗り替え。 こうして不本意にも連絡先を頂戴した。 屈辱の出会いから脱することが出来るのか。とにかくは腕を修理してからだと、アルベルトは時刻表を確認した。 back |