あの夏の日を忘れない
6
 ひやり、と風呂上がりの体を冷やす手の感触に肩を揺らす。

「つめ、た」

 身動ぐと、ベッド上のシーツがくしゃりと皺を作る。青は何かを堪えたような不自然な無表情で、俺の腹に浮いた骨を撫でた。

 切り傷などの細かい傷を労わるように触る青に息を詰める。腹から腰に、筋肉の筋に沿うようにして青の指が下へと降りる。

「……青」
「どうした」
「もっとしっかり触れよ」

 優しい触り方されると、くすぐったい。

 我慢できず申告すると、青は眉間に皺を刻み、悪い、と断る。また、何かを堪える表情。やはり、迷惑なのでは。不安に視線が泳ぐ。青は俺の顔を見ると、大丈夫と微笑んだ。長い溜息を吐き、手を伸ばす。どこを触ろうかと伸ばされたまま一向に触れない掌に、焦れ、手首を掴む。そっと体に押し当てると、息を呑む音が聞こえた。

「赤、ちょ、そこっ、」
「え? んっ」

 青が逃げようと手をもぞもぞ動かす。指が突起を引っ掻き、痺れが背中を走った。反射的に体をずらすと、今度は突起が弾かれる。

「っ、あ、お……ッ!」
「、悪い!」

 青は眉根を寄せるも、律儀に目を逸らすことなく見つめ続けた。青の目が、見たことのない色を纏う。何だ、と観察するより早く、その色は掻き消され、青はまた、不自然な無表情になった。青、と呼ぶとどうした、と優しく答える。微かに細められる目が温かくて。それだけで、傷を晒す恐ろしさを我慢することができた。

「背中行こうか」
「……、おー」

 歯切れ悪く答えると、手が俺の頭をかき混ぜる。宥めるような撫で方に、苦笑する余裕さえなかった。弱さを見せたところで嫌われないと分かっているのに、いつもの自分を演じるだけのゆとりがない。大丈夫だとも言えずに、俺は黙ってうつ伏せに寝なおす。青の手が背中の爛れているところに触れたのを感じ、そっと目を瞑った。

「青」
「ん?」
「……手、握って」

 甘ったれたお願いを撥ねつけることなく、青は俺の左手に手を伸ばす。まだ新しい掌の縫合跡を指先で撫で、手を握りこむ。体温が移り、恐怖が俄に和らぐ。

「俺さ、」

 唐突に話しはじめた俺に、青はうんと相槌を打つ。

「多分、他人に言われるよりずっと、自分の体が汚いって思ってたんだと思う」

 努めて平坦に話そうとしたにも拘わらず、声は湿っぽさを含んでいた。

「日に日に増えてく傷を見ていたのは、他でもない自分自身で。汚くて、悲しくて、これをさせてしまったことが辛くて」

 震えを自覚し、言葉を止める。すぅ、と息を吸う俺の手を、青はぎゅっと握った。

「これを自分で見るのも嫌だったし、これを見た人が、あの人を糾弾するのも、怖かったんだ……」

 青は、とうにあの人が誰を指す言葉か気が付いているだろう。それでもあの人が誰であるかを口にしない俺は、とんだ臆病者だ。言葉をぼかして逃げることを許す、そんな彼の優しさに甘えている。苦しさに背中を震わせると、青は手を止め、のしかかるような姿勢で俺の肩を抱く。重い、と言うと青はごめん、と笑い、腕の力を強める。回された腕を掻き抱くと、青は「赤、」と俺を呼んだ。

「俺は、赤の体を汚いとは思わない。思わないけど」

 青が、背中の傷に、唇を走らせる。ぴくりと背を跳ねさせると、青は優しく俺の頭を撫でた。

「俺がその傷を半分でも請け負えたらいいのにってそう、思うよ」

 気付くことが、できたらよかった。
 青はぽつりと後悔を吐き出す。

「……そんなの、無理だ」
「分かってるけど、」
「そうじゃ、なくて」

 請け負えたら、という言葉を否定されたと誤解し言い募る青の訴えを遮る。

「そうじゃ、なくて。俺は、弱ってる姿をお前に見られることが怖かったから」

 気付かなくても仕方ない。呟くと、青は再び俺を呼ぶ。

「赤は、自分のために怒らないよな」
「……今日、宮野に怒ったけどな」
「それでも、あくまでそれは制御下に置かれた怒りだろ」

 そんなことまで話したか、という俺の考えを読んだように、青は「大体想像が付く」と言い放つ。

「……でも、ちょっと言いすぎた」
「後でフォローでもしたらいい。それに、アイツにはいい薬だ」

 赤は、自分を傷つける奴にも優しくするから。
 冷たく言う青は、誰を脳裏に描いているのだろう。

「赤は、もっと怒ってもいい。こんなふうに、」

 青は首筋に唇を寄せ、舌を這わす。

「いきなり変な真似をする俺を怒ってもいいし、」

 言葉を区切り、傷跡を撫でる。はぁ、と吐いた息は、青か俺か。

「傷ができる前になんで助けてくれなかったんだって、俺を責めてもいい」
「そんなの、」
「分かってる。でも、俺にはそうしてほしい」

 理不尽でも、別に構いやしないから、だから。
 乞うような声に、胸がそわつく。言って、と促され、恐る恐る言葉を口を開く。

「なんで、」
「……うん」
「なんで、助けてくれなかったんだ」
「うん……、ごめん」
「痛かったのに、」
「うん、……うん。ごめん。赤、ごめんね」

 俺の隣に横になり、青は俺を腕の中に仕舞う。ごめん、と繰り返す青に、ぼろりと涙が零れた。

「嫌だ……、馬鹿。名前が、いい……っ」
「由、」
「んん……、うん」
「由」

 涙声で駄々を捏ねると、青は俺の名前を呼ぶ。歌うかのように奏でられた名前はいやに甘く耳に響いた。あお、と呼ぶと髪をかき混ぜられる。寝ちゃおうか、と悪戯っぽく告げられた言葉に、うんと返す。抱きしめる腕が、一定のリズムで腰をぽんぽんと叩く。あお、と呼ぶと唇をつんと触られる。

「おやすみ、由」

 陽だまりの、笑う気配がした。





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