あの夏の日を忘れない
3 夏目久志side
 ソファーから小さいうめき声が聞こえる。赤の瞼が震え、瞳が覗く。ぼんやりした視線が俺を捉える。どうやらお目覚めらしい。ふっと綻んだ唇が、「青」と呼ぶ。たったそれだけで喜んでしまうとは我ながら単純だ。自分のちょろさに内心苦笑する。

 こくり、再び船をこぎかけながら赤は笑う。

「まだこの夢……続いてるのか……。ダメだな、未練がましい……」

 何の夢を見ていたのだろう。寝ぼけているのか、赤の喋りはまだ少し覚束ない。赤の手が指先に触れる。赤の声の響きが甘く聞こえて勘違いしそうになる。調子に乗るな、夏目久志。赤は俺のことなんて好きじゃないし、そういう目で俺に触れちゃいない。大きく息を吐く俺に構わず、赤の手は切なく俺に絡んだ。指の跳ねそうになる気持ちを必死に押し殺す。

「青、ごめんな」
「何、が?」

 心臓が柔く締め付けられる。赤の声はどこか苦しそうで、思わず手に力が籠る。手の感覚に驚いたのか、夢うつつだった赤の表情がはっきりしたものに変わった。一瞬目を見開いた赤はうろと視線を彷徨わせ、苦い声でぽつりと言う。

「……間違えた」

 間違えた? 間違えたって何を??

「それで夏目、話ってなんだ?」

 強引に話を変えた赤の声は硬い。他人行儀な表情、距離感。ああなるほど。間違えた、ね。意味が分かると同時、唇を噛みしめる。ショックを受けるな、押し隠せ。

「赤の今後に関わる大事な話」
「聞きたくない」
「赤、」

 『間違えた』からだろうか。頑なに距離感を測り直そうとする赤に語気を強める。赤は多分、思い違いをしている。俺が今からするのは、赤の今後に関わる話だ。俺と赤の今後ではない。赤は俺を突き飛ばし、風紀室の外へと飛び出す。慌てて後を追う。足が速い。赤は生徒の隙間を器用に抜け、屋外へ行く。

「クソッ、悪いッ! おい待てッ!」

 対する俺は何人かの生徒を突き飛ばすたび謝罪だ。校舎裏まで追ったところでようやく赤の腕を掴む。掴まれた赤は体を捩って逃げようとする。動きを止めようと声を張る。

「〜〜赤のッ、お母さんの話だッ!」
「っ」

 息を詰める赤に言葉を重ねる。

「赤のお母さんの居場所が分かった。赤は、選ぶことができる。会うか、会わないか! 会えば赤は傷つくかもしれない」

 呆然としつつも身を捩る赤に手の力を強める。混乱しているのだろう。だが、今この場において俺のことはさしたる問題じゃない。

「赤ッ、俺のことはどうだっていい!」

 瞳が揺れる。

「俺が嫌でも、なんでもいいから、だからッ」

 荒げた息を落ち着けるため、言葉を呑む。振り返った赤はもう逃げようとはしなかった。願うように、縋るように。赤が赤のための道を拓けるように、秘めやかな祈りを込めて。

「――幸せのための選択をするんだ。今ここで」

 じっと見つめる。赤の唇は挑戦的に持ち上がる。ほら。心の中で嘲笑う。

 赤はどうあっても自分の道をテメェで決めちまうんだ。





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