あの夏の日を忘れない
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 目が覚める。今日は文化祭二日目。最終日の今日は他校の生徒や生徒の親戚、卒業生など外部の人間が入り乱れる。受験を考えている生徒も見学目的で訪れるため、多少お行儀の良さが求められる日でもある。

 今日はクラスの出し物の当番もなく、風紀の見回りもない。俺と青だけ見回りが当てられていなかったことから察するに、今日は二人で仲良く回っておいでということだったのだろう。気遣いはありがたいが約束もしていないし、昨日の今日でそういう気分になるはずもない。目の前で眠る円の胸に顔を押し付ける。もぞもぞとした感触に円の瞼がぴくりと震える。

「……、おはよ」
「ん」

 寝ぼけ眼の円に短く言葉を返す。円はぼんやりとしたまま俺の頭を優しく撫で、俺の体を抱え込む。肩口に顔を寄せた円から寝息が聞こえる。二度寝しやがった。

「円、寝坊するぞ」
「ん……、やだ」
「やだじゃねぇ」

 暫く駄々をこね俺を抱き込んでいた円だったが、やがてややはっきりした口調で要求を零した。

「兄ちゃんって呼んでくれたら起きる」

 実はもう起きてるだろ。

「なんでこの歳になって兄ちゃんだよ」
「いくつになっても弟はかわいいもんだからなぁ」
「うっせ! うるせー! もうそのまま寝とけばいいだろ」
「相変わらず俺にはツンツンしてんなぁ」

 あーかわいいかわいい。
 子供の駄々を宥めるように回した手で頭を撫でられる。子供扱いが不服でむっとするも、頬を寄せる円の声音の柔らかさに怒気はしぼんだ。

「……にぃ」
「ッッなに!」
「いや起きろっつってんだけど」
「聞こえない。にぃに聞こえない」
「にぃにじゃねぇ! 兄ちゃんから“ちゃん”取ってにぃ! 流石に兄ちゃんは恥ずかしかったんだよ! クソ!」
「にぃにの方が恥ずかしくないか?」
「だっからにぃにじゃねぇ!」

 こんなに連呼しても恥ずかしいんだなぁとほっこりした顔で言う円はもう知らん。ほけほけしやがって。起きるべく円から離れようとするも、円のホールドが外せない。

「円……?」
「にぃにじゃないの」
「そのネタもういいだろ」
「俺が飽きるまで続けてほしい」
「……にぃ、なんでこれ外してくれねぇの」
「ンッ素直でかわいい」

 ほんとにやめてほしいこの兄馬鹿。
 目の前の胸板にぐりぐりと頭を押し付け不満を訴えるも、ハイハイと軽い調子で頭を撫でられる。ちっげーわ! 撫でてくれって要求じゃねぇ!

「違うって顔してんのにちょっと嬉しそうなんかわいいな」
「ほんとにやめてほしい……」
「気持ち駄々洩れなんだから諦めたらどうだ?」
「お前が配慮してくれれば事は丸く収まるんだよ」
「にぃ」
「うるせぇぇぇ!」

 頭を後ろに反らせると、円の顎にクリーンヒットする。ちょっとすっきりとする。ううと呻きながら顎を抑えると、円はしょんぼりと肩を落とす。

「嬉しかったけど……そんなに嫌ならしょうがないな」

 そう言われてしまうと途端罪悪感が湧く。元を辿れば俺の中で最大限譲歩できる呼び方がにぃだったのだから、俺的にセーフな呼び方なのだ。揶揄われさえしなければさして恥ずかしい呼び方ではない……かも、しれない。

「…………にぃ」

 たっぷり二十秒ほど躊躇ってからぽつり、呼ぶ。途端ぱっと表情を明るくした円は、嬉しそうに俺を見た。

「ちょろい!」
「クソこいつ」
「ちがっ間違えた! かわいいって言うつもりだったけどちょっと別の本音も出ちゃっただけ!」
「本音なんじゃねぇかよ!」

 なんのフォローにもなってねぇ。おいそこ、頭撫でたら全て解決みたいに思ってんじゃねぇぞ。次はねぇ。……今回は許すけど。

 こほんと場をとりなすように咳払いをした円は、腕のホールドをそのままに口を開く。そうだ、円はなんで拘束を解かないんだ。流されるとこだった、危ない。

 円の生暖かい視線が気になるが無視をする。断じて俺は流されていない。流されてないったらない。

「なんで腕を外さないか、だが。由、お前体調悪いだろ」
「悪くない」
「嘘だな。お前体調悪い時目がぼんやりしてんだよ。ちっさい頃と変わんねぇんだな」

 懐かしむような手つきがぽんぽんと背中を撫でる。寝かしつけようとしているらしい。ふわり、誘われて欠伸が漏れた。

「……あたまいたい」
「ああ」
「……しんどい」
「知ってる」
「ウザ」
「ふっふ、かわいいな」
「……うるせ」

 ホールドの中で半回転して背を向ける。そっと熱の離れる感覚に円が起き上がったのだと分かった。

「どこ行くの」

 続けて聞こえたドアノブを回す音に体を起こす。いつの間にやら制服に着替えた円は、何の気なしに返事をする。

「保健室。まだ熱はないみたいだけど午前は休んだ方がいい。痛み止めもらってくるから大人しくしてろ」
「なんで行くの」
「……」
「にぃ、ちゃん」

 頭がぼんやりする。目の焦点が合わない。円はすごいな、俺の知らない俺のことまで知ってる。にいちゃんだからかな。すごい。
 にいちゃんは俺を一人にしない。俺が一人になるとしたらそれは俺がにいちゃんを遠ざけたからだ。だからにいちゃんは椎名円から桜楠円になった。

「……なんで行っちゃうの」
「痛み止めもらってくるだけだから。な?」
「……なんで」
「寝るまでそばにいようか。子守歌も歌ってあげる」
「いやだ!」
「由、」
「そうやって目が覚めたら俺の事忘れて、みんなみんないなくなってっ、」

 由。

 にいちゃんの声が俺を呼ぶ。

「なんでじゃなくて行かないで、だ。ほんと、甘え下手。行かないでって言えば俺は由から離れないのに」
「ぜったい?」
「絶対」

 ほら、とにいちゃんがかがんでみせる。背中に乗れということだろうか。躊躇いながらも背に乗る。

「軽いなぁ」
「かるくないし」
「……軽いよ、双子なのになぁ」

 ぎゅうと背中にしがみつく。

「いかないで」
「いかないよ、どこにも」

 双子なのに。兄の足取りはふらつく気配も見せずしっかりとしていた。影が二人分、廊下に伸びた。






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