あの夏の日を忘れない
28
「……よぉ」

 シャツの胸元を掴みながらも微笑むと、二村は眉間に皺を寄せた。忌々しい名前を吐き捨てた越は、薬の効きはじめた俺を置き去りに音楽室を後にした。その代わりにごねてこの場に留まろうとした輩を一通り連れて行ってくれたのでプラマイゼロといったところか。

 誰もいなくなった教室で連絡を入れたのがこの二村というわけだ。頼んでおいてなんだが、こうもあっさりと来てくれるとは思わなかった。息を切らせている様子からして、かなり急いで来てくれたようである。

「よぉじゃねぇだろダボが」

 疲れたように溜息をついた二村は、俺の様子にぎくりと身を強張らせる。耐えるように視線が落ちた。触るぞ、と低い声が断る。目で頷くと体がふわりと浮いた。熱っぽさで身じろぎすらも煩わしい。

「っ、」

 痺れるような感覚が背に走った。漏れかけた声を押し殺す。二村の胸に顔を寄せて表情を隠すと、二村はそっと俺の頭を支えた。

「お前は馬鹿だなァ」
「は、ぁ。失礼だろ……が」
「……どこが」

 馬鹿じゃなきゃノコノコこんな場所に行ったりしねぇわ。

 平坦な声が反駁する。
 ぞわぞわとした感覚が次第思考能力を奪っていく。馬鹿だ馬鹿だと繰り返す声にムッとし口を開くも、吐息交じりの声しか漏れず。自分の服の袖を噛んで声を隠す。隠しようもない甘い色が僅かに滲む。

「……はっぁ」
「クソ、後でちゃんと話聞かせてもらうからな」
「んっ、も、やだ」
「やだじゃねぇこんの馬鹿」

 なにが嫌なのかも分らぬまま駄々をこねる。気持ちよくてふわふわして……気持ち悪くて気味が悪かった。自分でいて自分でないような。他でもない俺自身に、俺の在り方を否定された気がした。

 だってこんなの、俺じゃない。知らない。分かりたくない。怖い。

 ぎゅうと目をつぶる。二村が支えていた手で頭を撫でる。指先を動かすような撫で方は不慣れで不格好だったが悪くはなかった。涙が滲む。自分が惨めに思えて、無性に悲しかった。自分を傷つけないと約束したのに、また破ってしまった。

 自分を大切にしてほしいと請われたのに、また蔑ろにしてしまった。あんなにもあっさりと自分を手放してしまった。

 ――随分とありがたい貞操観念だな。

 吐き捨てるように、嘆くように。悔しいとでも言いたげに顔を歪めた越が何を思ったのかなんて俺には分からないが。突きつけられた言葉はどうしようもなく正しかった。それこそ、泣きわめきたくなる程度には。

 だって、分からなかったのだ。大丈夫だと思った。青と橙の学園生活をこの身一つで守れるなら安いものだと思った。手が震える。きっと二村も気づいている。気づいていて、知らないフリをしてくれている。

 知らなかった。
 いや違う、思い出した。今更、改めて思い知らされた。

 傷つくことは恐ろしい。

「にむら」
「あ゛?」
「こわい」

 寄せていた顔をさらに押しつけると、二村は溜息を落とす。

「そうかよ」

 声が先ほどよりも遠く聞こえた。校舎を出たのだろうか、反響がない。鈴虫の鳴く声にシャツから顔を離すと、二村の輪郭越しに月が見えた。鼻先が月明かりでぼんやり青白い。

「どーせ誰かを守るためだったンだろ」

 ぽつり、二村が零す。
 脈絡のない言葉だったが、こうなった経緯についてだとすぐに分かった。

「は、っはは」

 笑うと、息苦しさに声が詰まる。知ったような口ぶりの言葉がまさしく動機を言い当てていて。自分の筒抜け具合が妙に笑えた。

 二村は俺の反応を意に介することなく、実に淡々と歩き続ける。

「下手にお前が苦しむと、泣くぞ」
「っん、にむらが?」
「牧田と夏目が。あと頭のおかしい一年も」

 ぞわぞわとした感覚を無視しながら会話を続ける。にむらは、と悪戯に聞く。ふと、視線が合った。

 月夜に沈黙が落ちる。
 知らない誰かと会話をしているような、そんな静かなやりとり。穏やかに口元を緩めて二村は答える。

「俺は泣かねぇ」

 絶対に。

 決意じみた言葉を吐き、二村は俺を抱え直す。不意に月明りが遮られる。寮に着いたのだ。
運が良かったなァと呟き二村はカードを取り出した。電子音とともに三〇八の扉が開けられる。

「牧田は今日親ンとこだ」

 昼に呼び出されたみたいだぜ、と独り言ちてリビングへ。俺をソファーに下した二村は、床に座り向き直る。

「で、だ」
「……は、っ、んだよ」

 二村の双眸が俺に向けられる。

「お前、どうやって発散する?」

 午後八時三十分。重要な問題が残っていた。






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