あの夏の日を忘れない
27
 パキンと砕いた何かを口に入れられる。薬だろうか。入れられた何かは柔く口の中で溶けた。盛られたか。他人事のようにそう思う。

 眼前の越は表情を歪め、口を開く。何か言っているのだろうが、何を言っているのか認識できない。いや、する気がないと言ったほうが正しいか。何もかもどうでもよかった。

 今から嬲られるのは俺じゃない。誰か他の存在だ。遠くに視点を移す。ホワイトボードと、壁を飾るベートーベン。俺がぼんやりしていることに苛立ったのか、目の前の音は大きさを増した。

 不意に息が詰まり、遠くにあった意識が戻る。越が俺の襟首を掴んでいるのだと、見えた光景に理解する。息苦しさに再び意識が遠ざかる。頭の奥に疼痛が広がり、視界の際から白んでいく。

 するりと首に冷たい感触が走る。越の白っぽい腕が気道を圧迫する。背筋が粟立つ。反射的に手を弾く。
 弾かれた越は俺からの抵抗に一瞬目を見開き、ふっと息を吐く。どこか安心したかのような仕草に戸惑いを覚えた。

 咳き込む俺にうっすらと微笑み、越の指先が首筋をなぞる。

「首はイヤ?」
「なに、」
「鳥肌」

 毛穴が逆立つのを誘うように越の手が腕を撫であげる。思惑通りの反応を示した肌に、越は不格好な笑みを零す。

 俺のズボンに手を伸ばし、かちゃり、前を寛げる。空気が太腿を撫でた。

 これから起こることを朧ながらに想像して腰が引ける。クソ、あのまま、薄っぺらな世界の中のまま全てが終わればよかったのに。

 ずいと越の手が頬を掴む。

「逃げてんじゃないよ」
「っは、」
「なに諦めてるんだ? たかが写真だろう? 誰が死ぬんだ、なぁ。紙っぺら一枚で易々手放せる純潔か。随分とありがたい貞操観念だな」

 爪が頬に食い込む。ぴりりとした刺激に、頬の切れた。皮膚の表面を血が走る。越の目が僅かに怯えた。

 怯えを振り払うように首を振った越は、つと自分のズボンの中心に触れ、唇を噛み締める。

 ダメか、と呟く声が聞こえた。

 一転、口角を釣り上げた越がビニール袋を漁る。囃立てる声とともにシャッターが切られる。袋からピンクや水色が覗く。知ってるかい? 越が問う。

 答えを聞くより早く、越の手が俺の下着をズボンごと引き下ろす。

「ア、」

 蘇る。思い出す。流れ出す。

『苦しい? 俺、椎名くんのその顔好きだよ』
『こんなオモチャで苦しいの?』

 嫌だ。

 頭の内側がガンガンする。先程の薬が効きはじめたのか、酸欠とはまた違う感覚で意識が遠のく。どこか熱を孕んだ、未知の衝動に恐怖が湧く。

「い、」

嫌だ。

 紡ぎかけた声を抑え込む。言いたくない。言ったら最後、諦められなくなる。必死に口を押さえる俺に、越の目が冷たく見下ろす。

「具合はどうかな」
「〜〜っ、なにした」
「惚れ薬、催淫剤、色々呼び方があるけど、媚薬って言ったら一番わかりやすいかな。きもちーよね。全部どうでも良くなる。きもち良くて、死にたくなる」

 ポツリと暗い言葉を落とした越は、再びにこりと笑んでみせる。

「一緒に狂ってくれる?」

 答えなど期待していないのだろう。一方的に告げた越はピンクのシリコンを掴み、俺の頬に押し当てる。切れたところがひりついた。

「舐めて」
「……っ、は、頭、おかしい…」
「そうかもね? ……早く」

 パシャリ、シャッター音。

 撮られた。一瞬恐怖が湧くも、再び押しつけられたシリコンに意識を持っていかれる。舐める? これを? 正気を疑うも、熱っぽい思考回路は碌なことを考えられない。血管の中が、骨髄が、神経が。全て痒くて仕方ない。体の自由が奪われる。

 舌を出し、這わす。
 またシャッター音。なにも考えられず、言われたままにひたすらシリコンを濡らしていく。息継ぎをする声がやけに掠れていて。不意に、涙が出た。

「ふぅん?」

 つまらなそうに俺を見つめる越が、口元を緩める。笑っているのにどこか悲しげで、場違いな表情に意識が浮上する。

「越、」

 手を伸ばす。

「っなん」
「なくなよ」

 頬を拭うと、戸惑った声が返ってくる。視界は潤んでいる。熱で揺らいでいる。見たいものなんてなに一つとして見えやしないのに。

「……泣いてるのはあなただろうに」

 ぽろぽろと涙が落ちる。越のじゃない、俺のものだ。いっぱいいっぱいで悲しくて、辛くて苦しかった。止めようにも止め方が分からない。零れるままのそれを掬おうとしたのか、越の手が俺に伸び、途中で下される。

 下されたその手は、切り裂くように鳴る自身のスマホに落ち着いた。メールか。押し殺した声が呟く。

 内容を確認した越の顔が、くしゃりと歪む。

「どこまでも、」

 はくり。言葉の続きを喘ぐように飲み込み、ケロリと快活な笑みを溢す。不自然なそれは歪で苦しげだ。

「解散。君たち、解散! 撮った写真も消すこと。君らのボスの仰せだよ」

 画面を見た者から顔に怯えが走る。

「……甲斐は案外純情らしい。知りたくもなかった」

 君も寮に帰ることだ。

 周囲の者をあっさりと追い出し、越は振り返る。取り繕われた表情は人形のように作り物めいていた。





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