あの夏の日を忘れない
51
 俺が眠っている間に母さんは倒れ、病院に搬送された……らしい。何が原因か当時は分からなかったが、円の溺れる姿を見た今なら分かる気がする。多分、母さんは耐えられなくなったのだ。
 父を失い、胎児も失った。たった一人で子供と家を守らなくてはいけない。心細くて、寂しくて。プレッシャーも大きかったはずだ。鬱になってからは自分の感情を制御できなくて、自分自身さえ信じられなくなって。円を傷つけて、俺を傷つけた。欠けてしまった家族の形を、最後には自分で壊してしまった。
 寝込む俺に、きっと母さんも感じてしまったのだ。

 こんなの、全然前と一緒じゃないって。

 一緒じゃないのは、自分が壊してしまったから。そう理解して、赦せなくて、なかったことにしたくて、助けてほしくて。

「記憶を書き換えちゃったんだな……」

 心が絶望を訴える一方で、俺は少し安心していた。記憶を書き換えたということは、母さんの心が逃避を選択したということだ。逃避した、ということはつまり壊れる前に逃げることができたということで。間一髪、母さんは助かったのだと、そう分かったから。
 
 寝込む母さんの髪を梳く。起きたらまた俺を円と呼ぶのだろう。指をするりと通る髪は細く柔らかで。つくづく、自分と母さんの髪質は違うなと思った。俺の妙に癖のある硬い髪は父さん譲りだった。絡まっていたのか、ぷつりと音を立てて髪が一本抜け落ちる。母さんの精神も、こうしてすり切れてしまったのだろう。

 俺が父さんと一緒に死んだと信じて疑わない母さんは、毎日仏前で何を祈っているのだろうか。畠さんが止めてくれなければ、仏壇には俺の遺影も並んでいただろう。悪化した母さんの症状に、畠さんは入院の話を出してきた。まともな時間が殆どなくなってしまった今、俺と母さんを引き離すのは急務だった。母さんが俺を円として扱うことも畠さん達にはバレてしまっている。家族としての限界だった。

「ですから、奥様には入院していただきましょう。由くんもこの家を一度離れて休むんです」
「……ああ」

 円ならどうするか。
 そう考えている内にいつしか寄ってしまった口調は、俺から兄の香りを強く感じさせた。伸びっぱなしの髪を整えたら円と見分けが付かなくなることだろう。

 想像し、嫌だなと顔を歪める。昔はそこまで円と間違われることが嫌でなかったはずなのに。明確にいつ嫌になってしまったのかなんて分からないが、今と昔で自分の在り方が大きく変わってしまったのは間違いない。

「母さんは知ってるのか」
「説明はいたしましたが」

 理解できているかは不明、と。まぁいいだろう。俺一人いなくなったところで、なんら変わりやしない。なにせ俺は既に死んだ存在なんだから。

「……あ、そ」

 もう、勝手にしたらいい。
 円も母さんも壊れてしまった。布団に入り目を瞑れば水を滴らせた父さんが黙って俺を見つめている。

 頼んだのに、何をやっているんだと。そう責められている気がして真っ直ぐ前が見られない。父さんの口が薄く開かれ、言葉を紡ぐ。

 ――円。

「〜〜〜〜〜ッ!!? は、……はっ、はぁ、は……ッ!」

 目を開く。粘り気のある汗がじわりと背中を濡らしている。昨夜父さんとの約束を思いながら寝たからか。最悪な寝覚めに顔が青ざめる。今日は母さんが入院をする日。入院とは名ばかりの隔離をあの人が理解しているかは甚だ疑問だ。

 窓の外からは蝉がけたたましいまでに鳴いている。夏だな、と今更思った。父さんが死んでから八回目の夏。そして、母さんが俺を殺してから初めての夏だ。もしかしたら、これが母さんとの最後の夏かもしれないな、と考え顔を歪める。

 夏は、いつも俺から家族を奪っていく。
 父さんも、円も、母さんも。いなくなるのはいつもうだるような暑さを誇る夏の日だ。

「あっちぃ……」

 じわり、額を汗が伝った。
 





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