引越し、します


 南郷は、とうとう長年住んだボロアパートを離れる決意をした。
 元々引っ越す気はあったのだが、アカギへの小さな未練のために離れられずにいた部屋。そのアカギとの再会を果たした今、風呂無しアパートに拘る理由は無い。
 いや正直に言えばこの部屋にも多くの思い出があるわけで、餌を求めて訪れる野良猫も居るわけで、何気に離れ辛い想いもある。ここに住んでいる時にアカギに出会い、初めて抱かれ、別れがあり、そしてまた再会したのだから。合鍵など渡したのも初めてだ。
 だが「住み慣れている」と「住みやすい」は同意義ではない。風呂は無いし部屋は狭いし何より古過ぎる。いつ立て壊しの勧告が来てもおかしくないとさえ思えるほどに。
 故に南郷は決意したのだった。
 決してアカギがうるさいからではない。
 だが部屋探しの際は、うるさかった。間取り資料や広告などには目もくれなかったくせに、いざ内見に行ったときには、あーだこーだと文句ばかり。実際住むのは南郷であって、借り主ももちろん南郷なのだが、それでもついアカギの言う事を聞いてしまう。どうにも南郷はアカギに甘いのだ。
 そんな二人の家探し。

 日曜日。
 アカギと一緒に内見に行った、一軒目。
 小さなアパートの二階。鍵を開けてくれた大家さんと笑顔で話す南郷を他所に、壁をコツコツとノックしているアカギ。

「けっこう広いですねぇ。なぁアカギ」
「壁が薄い」
「え、そ、そうか?」
「これじゃ南郷さんの声が聞かれる」
「おまっ・・・」

 大家は訝しげにアカギと南郷を見ていた。
 続いて、二軒目。住宅街の中にある大きな団地の一室。
 管理人がやはり鍵を開けて中を案内してくれた。

「新しいだけあって綺麗ですねぇ。なぁアカギ」
「風呂が狭い」
「え、そ、そうか?」
「これじゃ二人で入れない」
「ばっ、何をっ・・・」

 管理人は分からない風を明らかに装って首を傾げていた。
 次、三軒目。一人暮らしには少し広過ぎる若干レベルの高いアパートの一室。
 不動産の営業マンが隣でニコニコしていた。

「広いし、部屋数も多いですねぇ。なぁアカギ」
「さっきすれ違った隣の住人が色目使ってきた」
「え、そ、そうか?男の人しか見てないぞ俺」
「そいつ。南郷さんの尻見てた」
「ちょっ、待っ・・・」

 最早部屋の文句でさえない。営業マンはそれでも笑顔だった。
 更に四軒目、五軒目、次、次。
 アカギのお眼鏡に適う部屋が見付からないまま、息も絶え絶え、夕方。
 ぐったりしながら歩く南郷と、飄々としたアカギ。川沿いの土手をダラダラと進んでいた。

「お前、なぁ」
「何」
「文句ばっか」
「仕方ないじゃない」

 何がだよ!と言いたいのを堪えて南郷は溜息を吐く。アカギに口で勝てるわけがないと分かっているからだ。

「とりあえず今日は、次ので最後だからな」
「あぁ、そう」
「次が駄目だったらまた来週だからな」
「早く決まると良いね」
「お前、なぁ」
「何」

 エンドレスになりそうな事に気付いて南郷は再び諦めた。
 気を取り直して次に内見の約束をしている部屋のメモ書きに目を通す。

「あぁ、次のとこは一軒家だ」
「へぇ」
「小さい平屋だけどな。まぁ広過ぎないし、ちょっと見てみるだけならいいかと思って」
「・・・」
「アカギ?」

 返事が無いので後ろを振り返れば、アカギは立ち止まって川向こうの夕日を見詰めていた。真っ赤に染まった水面、架かる陸橋を走り抜ける電車、照らす夕日。川で遊んでいた子供達が帰り支度をしながら今日の戦利品を分け合っていた。既に肌寒い秋、今年最後のザリガニだろう。元気な笑い声の向こうで、遠く響く豆腐売りのラッパ。

「おい、アカギ」
「あぁ、うん」
「ここ、気に入ったのか」
「別に」
「けっこう綺麗な川だな」
「まぁね」
「夕日のせいでそう見えるのかもな」
「そうかもね」
「気に入ったのか」
「・・・別に」

 そのまま再び目的地に向かって歩き出した。
 土手から少し外れてすぐにその平屋はあった。小さな家屋と商店が立ち並ぶ、静かではないが穏やかな通りの片隅。駅や繁華街からは離れているが、子供の声や夕餉の準備の音で辺りは溢れていた。
 その一軒家は、今住んでいるアパートのように形の悪い垣根で囲まれていて、小さな庭が付いていた。出入り口の扉はかまち戸で、古さが見て取れるほどである。

「今んとことあんま変わらない古さ、かもな」
「まぁでも広さはあるよね、確実に」
「そうだな」

 新しいアパートのようなインターホンは無いので、その引き戸を軽く叩いて声を掛けてみる。すると中から声が聞こえ、すぐに足音が近付いてくるのが分かった。玄関の明かりが付けば人物のシルエットが見え、開けようとしてくれたが、立て付けが悪いのか一度ガシャンと強く引いてから、ガラガラと戸が開かれる。
 現れたのは持ち主らしい老人で、中で待っていてくれたようだった。一通り挨拶をしてから中を案内してもらう。玄関からは短い廊下があり、左手には居間と台所、右手には寝室であろう部屋と、更に洋室が一部屋。奥にはトイレと風呂がある。
 居間から庭に繋がる窓側には小さいながらも縁側があり、物干し竿が我が物顔で突っ立っていた。聞けば確かに建物自体は古いが、中は一度軽い改装を施した事があるらしく、キッチンやトイレは今のアパートよりも大分ましである。改装と知れば一室だけ洋室があるのも頷けた。風呂は昔の間取りの割には、思ったよりも広い。

「古いけど、悪くないな」
「・・・そうだね」

 意外なアカギの返事に南郷は眉を上げた。
 木造立てで壁は薄いし、風呂も男二人でと考えれば狭いだろうし、お隣とはきっと仲良く出来てしまいそうな良い町並み。それらを差し引いてもアカギを惹き付ける何かがあるのだろうか。
 持ち主の老人はとても穏やかな男で、皺だらけの顔を更に皺深くして微笑みながら、深くはこちらの事情も聞かず、良ければすぐにでも入れる事を教えてくれた。老人曰く、昔は自分が家族と住んでいたが、息子夫婦と住むようになり借家にしたとの事。つい最近まで若い夫婦に貸していたが、旦那の転勤が決まり引っ越していったらしい。言われれば確かに、まだ前の住人の使用感が残っているし、大掃除というほど大層な準備も必要なさそうである。
 ふと、先ほど通ってきた土手の話をしたら、老人は何度も頷いて、戦前戦後と風景は大分変わったが、あそこから見る夕日の綺麗な情景だけは変わらないのだと、嬉しそうに語った。駅から商店街を通って、あの土手を歩き帰るのが、若い頃は気に入っていたのだと。夕日の見える時間に通れる事は少なかったが、休日は女房とよく散歩をした、と少し長い思い出話を聞き終える頃には外は真っ暗になっていた。
 老人は長話をしてしまった事を謝ってから、南郷に、借りる気になったらいつでも連絡をくれるように言う。ほとんど口を開かずにいたアカギが、小さく呟いた。

「夕日、沈んじゃったね」
「・・・やっぱ気に入ったんだろ、あそこ」
「別に」
「またいつでも見れるさ」
「え?」

 南郷は老人に向き直ると、笑みを浮かべる。

「ここ、住みます」
「南郷さん」
「俺が、あぁ、俺らが、借りてもいいですか」
「・・・」

 老人は嬉しそうに頷き、南郷の手を握って何度も上下に振った。前情報として知ってはいたが一軒家の割に安い家賃の確認をしてから、老人はいつから入るかと南郷に聞いた。

「そうですね、次の日曜には入りたいんですけど」

 アカギは目を瞬く。
 老人は構わないと告げ、また引越しの日に連絡をくれと言った。必要な書類を持ってきてくれるのだそうだ。その場で鍵を二つ受け取り、三人は一度家を出た。玄関の前で、南郷は老人に聞いた。本当にこんな簡単に決めてしまっていいのか、と。それは南郷にこそ言えるが。
 確かに南郷は身元はしっかりしているが、この歳で未だ独り者で、どうやら息子にしては少しだけ大きいように見える男と住むらしいのは会話の流れで分かっているはず。だが老人は言った。『アンタは良い人だよ』と。
 相変わらずだ、とアカギは肩を竦めながらも、こっそりと頬を緩めるのであった。
 老人と別れ、駅へ向かうために再び土手を二人で歩いた。外灯だけがポツンポツンと照らす夜道は少しだけ寂しくも感じたが、遠くから聞こえる団欒の声と、電車の音が、それを紛れさせる。
 隣を黙って歩いていたアカギが、小さく呼んだ。

「南郷さん」
「ん?」
「良かったの」
「何が」
「あそこで」
「当たり前だろ。だから決めたんだ」
「古いよ」
「今のとこよりはましだ」
「中身はね」
「お前こそ良かったのか」
「何が」
「あそこで」
「住むのはアンタだ」
「俺らだ」
「・・・」
「というか、他んとこじゃあんな煩かったじゃないか、お前。それがあの家ん中じゃ静かでさ」
「まぁ、悪くなかったからね」
「壁薄いぞ」
「隣とは壁一枚越しじゃ無いし、一軒家だからね」
「風呂だって」
「あれくらいなら良いんじゃない。二人でも」
「ご近所付き合いする方だぞ、俺」
「それは仕方ない。アンタはどこでも人好きされる」
「そうか?」
「まずあの爺さんがそうだ」
「はは、そっか」
「俺は、いいよ、あそこで」
「お前がいいなら、俺だっていいさ」
「・・・南郷さん」
「何だ」
「俺、この土手、気に入った」
「だと思ったよ」
「あの夕日は悪くない」
「俺も好きだよ」
「アンタんとこ行くときは、ここ通るようになるんだな」
「帰るとき、な」
「・・・うん」
「あ、そうだ」

 南郷は足を止め、上着のポケットを探った。アカギも同じく足を止めて首を傾げる。

「ほら、これ、お前の」

 差し出したのは、鍵の片割れ。

「失くすなよ」
「失くさねぇよ」
「どうだかな」
「今んとこのだって俺、ちゃんと持ってるぜ」
「知ってるよ。六年間持ってたんだよな」
「・・・」
「ほら」

 促されるままに鍵を受け取ったアカギは、それを暫し見詰め、それから自分のポケットに捩じ込んだ。再び歩き出した南郷の後を追い隣に並べば、鍵を差し出してくれたその手をキュッと握る。

「お、おい。外だぞ」
「いいじゃない。人いないし」
「・・・ちょっとだけだぞ」
「あぁ」

 商店街に着くまでの短い間、二人は手を繋いで、酷くゆっくりと歩いた。
 新しい家は小さいながらも一軒家で、平屋だが一応は庭があり、古い家屋には家族の歴史があって、なんだか、とても、暖かい。
 住めば都、とはよく言ったものだ。
 南郷は場所が変わっても恐らくは変わらないであろう己とアカギの生活振りを思えば、何故か逆に頬が緩むのだった。
 握られている片手が、暖かい。


END


ようやく引っ越した!お風呂あるよ!良かったねアカギ!好き勝手出来るよ!(違)

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