ナマエと初めて会ったのは一ヶ月前、ナポリに照り付ける焼けそうな太陽光の下でだった。俺はただちょっと、久しぶりに昼間、外に出てみたかっただけだ。チンピラと肩がぶつかって、ギャングのはずのこの俺が怒鳴られるのには腹が立ったが、あんな奴ら相手にいちいち絡み返すのも時間の無駄だ。っていう言い訳をしながら、こんな時プロシュートやギアッチョならあいつらを地球上から抹消するくらい簡単にやってのけるんだろうと思った。だが俺は、仕方ないので、夕べからポケットにしまってあったパッショーネのバッジを胸元につけようと決めたのだ。
 ところがそれが、歩きながらじゃあうまくつけられない。立ち止まると、黒い髪がぐんぐん日光を吸ってたちまち額を生温い、気色の悪い汗が伝った。イラついてバッジを投げそうになるのを必死にこらえて、息を吸い込む為に辺りを見渡した。この時俺は相当機嫌の悪い顔をしていたに違いない。違いないのに、はたと目が合ったのだ、ナマエと。

 口をきゅっと閉じて噴水の縁に腰かけたナマエは、今時の若い娘らしくホットパンツから伸びた、少し日焼けした脚を組んで、そしてその脚に肘を乗っけて、じいっと俺を見ていた。前髪ごと後ろにまとめられた髪はそのまま、これまた日に焼けた背中に流れていたんだろう。剥き出しの額に、派手なサングラスが乗っていた。
 いつから見られていたのか。俺はしばらくナマエと見つめ合ってから、ようやく手元の、針を出しっぱなしのブローチとナマエを見比べるに至った。慌てて丸まっていた背筋を伸ばすと、ナマエは引き伸ばした唇の端を緩やかに吊り上げて、ぱっちりした目をにこりと歪ませた。あれは一種の、あれだ……いわゆる、吊橋効果と一緒だったのかもしれない。恥ずかしい所を見られた緊張を、人通りの多い広場で、俺はただナマエとだけ共有していた。よく見ると、ナマエはイヤホンをしていた。




 そんな事を思い出しながら、手の中で潰れたクモを、為す術なく俺は見下ろしていた。ナマエもだ。しかし、これは共有じゃあない、ただの別れだ、たぶん。のこのこ部屋の壁に現れたクモが悪いのか、噴水に座って涼んでいたナマエが悪いのか、あの時ナマエを好きになってしまった俺が悪いのか、指の腹で潰れた小さな小さなクモの黄色い内臓を見てもわからなかったので、慌てた俺はとりあえずテーブルにクモの死骸をなすりつけた。なんだよ、普通の奴らは素手でクモくらい殺さねえのかよ。頭の中で呟いて、見た目だけ綺麗になった手をせめて体のうしろへ隠した。さっき一瞬だけ見たナマエの目はにこりともせずにじっと俺の手を見ていた。噴水をバックに俺を見ていた時とは全く異質の目でだ。真っ暗な、地面にぽっかり空いた穴をたった一度覗いた時のようなもう一度見てみようという気がクモの体毛一本程も起きなかったので俺は目を逸らしたまま、手を洗ってくる、とだけ震えた声で言って狭いソファから立ち上がろうとすると、驚く程普通の声でナマエは、うん、と言った。
 それに俺は何故か、自分でも不思議なくらいに、キレた。クモの怨念でも篭っていそうな安いテーブルを思い切り爪先で蹴飛ばすと値段相応に軽いそれは四本あるうちの脚を二本あげてぐらりと傾き、そして戻ってきた。がたん!がたん、と続いた衝撃音はナマエどころか俺まで驚かせる。おい、何やってる、うるさいんだよ。今テーブルを蹴飛ばしたのは誰だ?聞くまでもない。俺だ。
「あ、違う。間違った。……違う」
言いながら振り返ると、ナマエのいっぱいに溜まっていた涙が、びくりと強張った肩とは逆にするすると落ちていった。焼けた肌にくっきり残る白い跡に見入る。
「………ど、なんで泣くんだよ」
「こわ……こわくて」
そう言ったナマエは、ちらとまだはり付いたままのクモの死骸に目をやった。

急に、懐かしく感じた。さっきまで二人でのんびり、空調の音くらいしかしない散らかった部屋で交わしていた視線と会話をだ。全部自分の夢だったんじゃあないかと思うくらいの、儚い脆いそれこそ小さな生き物のような現実は、俺が自分でクモの腹や目玉ごと押し潰してしまったらしい。確かに生きていたのにだ。昨日消した政治家やおととい消したチャイニーズマフィアと同じように。

「悪い。出てってくれ」
「い、いやよ」
「頼む」
「いや」
「もう、会うなよ。俺に。引っ越すし、番号も、名前も変える。調べたって無駄だし、間違っても組織の奴には関わるな」
「待って、嫌、わたし……」
「いいから早く出ていけよ!!早く!!」
突き放すように力任せに怒鳴ったのに、ナマエは吸い寄せられるように俺の腰あたりを掴んだ。やめろ。やめろよ。細い腕を引きはがそうとする手には少しも力が入らない。汚い手でお前に触りたくないんだから早く離してくれ。気持ち悪いって一言いって、走って出て行ってくれれば良いんだ。言いたいことは全部食いしばった歯の内側で、ぎちっと気持ちの悪い音を立てるだけだった。




八月の向日葵に密葬




20090909
title:にやり

リク消化にするにはあんまりな話なのでやめておきました



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