花京院が学校へ来なくなって何日も経ってから、名前は我慢できずに彼のうちへ押しかけた。通り慣れた道を少し早足で歩くと、黒猫が電柱の陰から名前のほうを見てにゃあと鳴いた。黄色い目玉がなんとなく恐ろしくなって、名前は走ることにした。

 花京院の母親は、名前を見るなりあっという間にやつれた目に涙をため、ためにためて、ついに零した。息子と同じ茶色い癖のある髪が揺れ、頬に張りつく。狂ったように泣き崩れる母親を名前が精一杯なだめてやると、彼女は玄関先で十分程度(名前には一時間ぐらいに感じられた)で泣き止んだ。

「私のせいなのよ」

 がさがさの唇がそういうのを聞いて、名前は眉間に皺を寄せた。不快に感じたときの表情だったが、花京院の母親は息子の顔を思い浮かべるのに精一杯で、とても目線を上げる余裕などなかった。綺麗に並んだタイルに、タイル色の息子の顔が浮かぶ、ような気がしていたようだ。

「私が典明のことをちゃんと見てあげなかったからなのよ。あの子はあの子なりに、きっとなにかを『知らせてた』んだわ」

 名前は何も言わずに、また潤み始めた母親の目線を追った。よく見ると汚れがあった。息子のいないショックで、家事なんてままならないのだろう。名前は少し、同情した。

「おじさんは?」
「休むわけにはいかないからって…………ねえ名前ちゃん、典明がどこにいるか、心当たりは無い?本当に無いの?よく思いだして」
「ありません……エジプトへ行かれて、そのまま連絡もとってませんから」

 ああ、と悲痛な声をあげてまたうずくまる彼女を、名前は困ったように見下ろして、聞こえないよう溜息をついた。後ろで足音がしたので振り返ったけれども、他人がのんびり通り過ぎただけだった。

「おばさん、典明の日記なんてのは読みましたか」
「日記?」
「あの人、日記をずーっと書いてるはずなんですが」

 名前は母親が固まってしまったのを見て、悪いことを言った、と気がついた。友人の花京院典明はどこか秘密主義的な側面を持っていて、『同類』として認めている者以外には決して自分の内的なもの、いろんなものを見せないのだ。名前は、固まったままの母親にすみません、と頭を下げてから、横をすり抜けてそっと靴を脱いだ。



 花京院の部屋に入るのは久しぶりだった。踏み心地の良いカーペットにそっと乗って、名前は少年の部屋を見渡す。彼の母親は、家の前のタイルは放って置いても、消えてしまった息子が残した部屋は大事に大事にしているらしかった。チリ一つ乗っていない机のあたりに視線をとめて、名前は花京院と最後に会った時のことを思いだしていた。

  

*



「またジャムパン?」
「好きなんだよ」
「せめていちごにすれば」
「なんで?好きなの?」
「うーん……いや、毎回同じ味で飽きないのかと思って」

 僕の顔と自分の手の中のブルーベリージャムパンを、名前はちょうど三度ずつ見比べた。しばらく難しい顔をしてから、どうでもよくなったようで、鼻で低い方のドの音だけをずっと鳴らしながらバリッと乱暴にパンの袋を開けた。
 夕方の公園には人気が無かった。中途半端に盛り上がった砂浜はすっかり色が薄くなっていたし、象をかたどった動かない乗り物の横顔には寂しげにオレンジ色の光がぶつかっていた。僕たちは欲張らず、ペンキのはげかけたベンチに座っていた。

「ねえちょっとは食べる?」
「夕飯が食えなくなるじゃないか」
「あんたんちそんなに夕飯でるの?」
「甘いものを食うとさ、他のもの入らなくなるだろ」

 そうかなあーと言った口でそのまま名前はパンをほおばった。大きな口。僕は呆れたふりをして肩を竦めた。

「でも典明これからとっぷり日が暮れるまでわたしとお話だよ」
「いいけど、冷えるよ」
「いいよ、明日あったかいから」

 エジプトと日本の時差はどのくらいとか何キロ離れてるとそうなるのとかカイロには何があるのよとか、名前はもぐもぐしながら僕を質問攻めにした。さみしいのかな、僕がいなくて。希望的観測を肺の裏のほうに隠しながら、僕はちゃんと真面目に名前の疑問に答えていった。さびしいのは僕で、時差だって距離だってカイロの人口だって、ちゃんと調べてあった。母さんたちに聞かれでもしたら恥ずかしいから、電話はできない。ポストカードくらいなら書いてやれば、名前も名前の母さんも父さんも喜んでくれるだろう。それに、変に思われないで済む。名前にだって気持ち悪がられない。よし、そうしよう。ちょっとありがちだけれどピラミッドとスフィンクスのうつったポストカードに三行くらいメッセージを書いて、名前に送ろう。



*



 勢い込んで部屋へ立ち入ったものの、名前は花京院の日記がどこに隠してあるのか知らなかった。そもそもこの部屋へ入ること自体久しぶりなのだった。仲良くしているのをからかわれるようになったのが数年前、それからはふと思いだした時に彼を意識したようになって、なんとなく『家へ遊びにいく』とか『一緒にどこかへ行く』と言い出すのが難しくなった(ように、名前には感じられた)。

 どこかへ行ってしまうなら、(一緒には行けなくても良いけれど、)一言なにか言ってくれればよかったのに。無意味に布団をひっくり返してみたり、ペン立ての中を覗いてみたり。迷子のような気持ちになった名前は、不安に慣れてきたせいか怒りを感じるようになってきた。

「……ないじゃん」

 カギのかかった引出も無いし、これ以上あさるのは気が引ける。
 名前は、花京院の母親に一瞬でも優越感を覚えた自分に嫌気が差した。

「(典明は確かにわたしとよく話してくれたけど)」

 日記の場所は教えなかった。どこへ行くかも伝えてはくれなかった。急に典明はいなくなって、わたしは典明のお母さんと少しだけ気まずくなった。全部典明のせい。黙ったままそう思っても、どことなく薄暗い部屋はしんとしたままだった。大きな溜息をわざとらしくついて、名前はベッドへ腰を下ろした。横になりたい衝動をこらえ、今一度あたりを見渡す。

 花京院が死んでしまったような気になっていた名前の目に、茶色い写真がうつった。ベッドの正面の壁に赤い画鋲で貼り付けられたそれは、ピラミッドの写真だった。

 名前はふらふらと立ち上がって、よろよろと写真へ寄っていく。なんとなく心惹かれた写真にはピラミッドだけではなく、スフィンクスもきちんと写されている。じっと見つめているうち、違和感を感じた名前が、画鋲に手を添えた。

 触ってみるとそれは純粋な写真ではないようだった。壁には他にポスターは無い。真っ白な壁の真ん中に、そのポストカードだけがちょこんと貼ってあった。モザイク画の一部のようだ、と名前は思った。試しに、赤い画鋲を丁寧に抜いてみる。

「……ん」

 ボールペンで書かれた几帳面な文字は、見慣れたものだった。 

『名前、そっちはどうですか。このピラミッド、今日直接見たけれど、たぶん君が見たら意外とつまんなかったとか言いそうだな。そんな建物だったよ。でも、とても立派だった。』

 何度も何度も目を通してから、名前はポストカードを綺麗に壁へ戻した。このメッセージに彼の母親が気がつかなかったのは、彼女が控えめであったからだった。息子のものをあまり勝手に触ってはよくないと思ったのだ。唯一彼への手がかりが自分に向けられたものであったことに罪悪感と、もう一度優越感を感じて、名前はうんざりした。どうしていなくなっちゃったの。ピラミッド見てたら、死にたくなったのかしら。そのときだけは、好きだったはずの彼のことがどうでもいいように感じられた。
 落ち込んだまま降りてきた名前に、フローリングに座りこんだままの母親が尋ねる。

「名前ちゃん、どうだった」
「だめみたいです。ごめんなさい、見つかりませんでした」

 母親はがっくりして、ありがとう、と小声で呟いた。ちっとも感謝されていないような気がした名前がもう一度謝ると、いいのよと言って慌てたように笑顔を向けた。

「典明が見つかったらすぐに連絡するからね」

 息子が帰ってくるまでもうここへは来ないでくれ、と言われた(ような気がした)。今日のわたしはひねくれてるな。洋風の小さな門をどけてアスファルトを踏む。さっきの恐ろしい目をした猫が今度はすぐそばの電柱で名前のことを見ていた。


2011/06/01

title:にやり

続きものにしようとおもったけどやめたのであるだからちょっと中途半端なのだ






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