天井の茶色いシミは昨日よりまた少し大きくなっていた。

 どこか、生活用水のパイプのネジでも緩んでいるのかもしれない。ネズミの墓場にでもなってるのかもしれない。こっちへ滴ってくる程ではないが確かに水分を含んで、確実に天井は醜くなってきていた。安い壁紙を安い労働力で貼付けた、(私は見たことがない)真っ白だったはずの天井。向こう端では切れかけの電球がちかちかちかちか目障りなリズムでフラッシュを焚いていた。それと、もう慣れてしまっていたけれど、部屋には微かに鼻の奥を引っ掻くような匂いが漂っている。はずだ。

 『形あるものはいつか壊れる』というどこかで聞いた決まり文句を突然思い出して、見ていられなくなった私は天井から目を離した。ごろりと壁へ体を向けて、胎児のように丸くなって、目を閉じる。暗闇の中で一層、フラッシュの余韻がここぞとばかりに騒ぎ出すのを瞼の裏で見させられてキンと頭痛がした。なんて図々しい。目を指先で軽くぐりぐりとマッサージしてから、無理矢理体を起こした。電球を変えるためじゃあない。ただやり場の無い感情その他諸々をどうにか体で表現したくなっただけだ。が、当たり前のように、そのくらいじゃ発散される事の無かった苛立ちを、中途半端に渇いた喉の奥に溜まっていた唾液と一緒に押し込んで、仕方がないので私は照明のスイッチを押すために立ち上がった。
 ぎし、ぎし、と鳴る床を裸足のまま踏み締めるのは、なぜだか心地が良かった。床は汚いんだろうな。そう思っても少しも後悔しなかった私は、狭い部屋の端から端へ渡ってスイッチを切り、そのまま戻って迷わずベッドに横になった。

 明滅は当たり前だがぴたりと、死んだように止まった。月の明かりさえ入って来ない閉め切られた窓からはほんの少し、酔っ払いが愉快そうに馬鹿騒ぐ声だけが聞こえてくる。それをBGMにして、天井の汚れに目を凝らしてから、真っ暗闇が怖くなった私はやっぱり胎内へ戻った。





 突然意識が再浮上する。汚れた硬いシーツの上で、ふわふわと波間に漂うように瞼がゆっくり上下する。こんこん、と控えめなノックの音が唐突に耳に入ってきて私は慌てて体を起こした。相変わらず裸足のまま部屋を出て、真っ暗な廊下を早足で突き進むと、私が鍵を開ける一歩手前で玄関のドアが開いた。
 メローネは私が寝ているものと思ったらしい。中途半端に差し出された手を、俯き加減で部屋に入るなり少し驚いたように見下ろして、それから口の両端をきゅっと上げて私の顔を見る。共用部分の明かりに背後から照らされながら、メローネは満足げに私の額に唇をつけた。私は手でメローネを追い払った。

「寝てたのか」
「寝てない」
「へえ、そうか。十回くらい鳴らしたんだが、それじゃあ君は無視してたって事だな」
「……………」
 じゃあもうそれで良いわよ、面倒になった私は頭をがしがし掻きむしって踵を返した。メローネが後ろでドアを閉めるのを聴きながら、殊更真っ暗になった廊下を勘で歩く。
「なんで鍵持ってるのに鳴らすの。起こすの」
 非難がましく言うと、陽気な声色で頭のおかしい回答が返ってきた。
「鍵をなくしたって言えば新しいのをくれるだろ。それを流すだろ。コソ泥が入るだろ」
 ぼんやりと予想はしてた。暗闇に目が馴れる前にリビングの電気をつけながら私ははっきり眉をひそめてメローネを見る。廊下の端で立ち止まったまま、メローネはふふんと笑った。
「あなたさあ、つくづく私に不幸になってほしいらしいわよね。なにか飲む?」
「不幸になってほしいんじゃない。君の命運を左右するような立場になってみたいだけだ」
「紅茶しか無いから紅茶ね」
「アールグレイ?」
「カモミール」
「うん、まあ、ベネ。でもいつから歯磨き粉なんか飲むようになったんだ」
 私が無視してリビングに入ると、ようやくメローネは歩く気になったらしかった。一般人仕様のメローネはマスクを着けていないから、勘違いするとしてもせいぜいちょっと綺麗な顔したバンドマンって所だろう。あれで髪型がまともなら、知的な……知的な、なんだろう。
「ナマエ。聞いてくれよ」
「なに」
 面倒になった。寝起きの頭を左右に傾けながら戸棚を探る。
「今何時だと思う?」
「三時半」
「正確には三時二十三分だ。俺今までそこにいたんだ」
「いつから?」
 しまった、紅茶、きらしてた。メローネの話の腰を折らないようにそれは黙ったまま、私は冷蔵庫を開けた。
「君が連れ込んだ男がすぐ左っかわの頬を赤くして出てきた頃だったかな」
「あんたそろそろ訴えるわよ」
「なんで?」
「人のプライベートに首を突っ込みすぎなのよ」
 水の入った比較的小さなボトルを取り出してコップを探したが綺麗なやつが無かったので、結局諦めてそのままメローネのそばへ近寄った。メローネがソファの上で寛いだまま両手をこちらにのばす。澄んだ瞳がきらりと光った。
「ハグ」
「水とでもしてなさいよ、バカ」
「あいつらとはいつもやるくせに」
「いいからさっさと飲んで。飲んだら私によこして」
「カモミールティーはどうしたんだ」
「歯磨き粉とか言って嫌がってたじゃない」
 うぅん嫌がったわけじゃあないんだがな、と小声で呟いて、腹の上に押し付けたボトルをメローネは何度か手の平で弄んでからまじまじと観察し始めた。初めて水の入ったボトルを見た人間みたいに。私は大きく息を吐きながらメローネの隣に座った。
 喉がさっきから渇きっぱなしだ。
「どうして殴ったんだ?まさかカモミールティーけなされてキレたわけじゃないんだろ」
「違うわよ。なんかムカついたから」
「はは」
 ひたりと首に冷たいものが触れて、一瞬驚いた私の肩がついつい跳ねた。なにせ唐突だったのだ。私にちょっかいをかけるのが趣味のメローネは今、隣でほくそ笑んでるんだろう。悔しさを口に出そうとするより先に、メローネの手が肩に強く触って、それとは対照的に優しく、脂肪の少ない頬が額に触れた。文句を言う形で開いたままの口を、ぴたりと閉じる。こいつ、何してんだ。不愉快なような気がしたけど、今は何故だか怒鳴る気にも殴る気にもならずにそのまま大人しくしていた。
「俺もムカツクかい?」
「…………ムカつくかな」
「曖昧だな。はっきりしないのはあまり好きじゃあない」
「ムカつく」
 鼻で笑ったメローネの吐息が額にかかった。
 目を閉じて、さっきまではっきりくっきり瞼の裏に残っていたはずのあの電球の白い光がまた浮かびやしないかと思ったのだけども、無駄だった。そうだ、だいぶ時間が経ってしまっている。心地の良い人肌の温度に、また意識が濁り始めた。ページをめくるような心地の良い音と一緒にメローネが息を吸って、言った。
「淋しくなっちまって」
「へぇ」
 さもおかしそうに言うものだから、私はまだ片足をどろどろの睡魔に突っ込んだまま、相槌を打った。
「理由はわからないが。そういう時、無いか?部屋が妙に寒く感じて、あと狭く感じて、ああ誰もいないんだって気分にさせられる時。なんでもないただの影が死体に見える時」
 目をうっすら開いてからまた閉じて、私はもう一度唾を飲み込んだ。ぼんやりした頭で、メローネの言葉を必死にかみ砕く。寒くも狭くも感じなかったけれど確かに、今までの自分の人生は全部夢だったんじゃないかと思うようなメランコリックな心持ちになりはした。私は曖昧に頷いた。
「うん」
「こんな事他人に話したのは初めてなんだ」
「あっそう」
「君が優しいのを知っててしてるんだぜ。卑怯だろ」
「……………」
 でも嫌いになんてなれない、のはメローネが一番よく解ってるはずだ。

 形のあるものは周りがいくら悲しもうといつか必ず壊れる。寝室の電球は明日か明後日には点かなくなるはずだし昨日だって唯一お気に入りだったグラスを割った。それなら、形のないものは壊れないのか。どうなのか。メローネが私にストーカーまがいの行為をしているのを知っていて男を連れ込む私の方が何ミリか(いや、もっと)卑怯だし、結局何もせずに勝手な理由で追い出すぶん臆病プラス2って所だろう。似たもの同士だ。物思いに耽る私をメローネが呼んだ。
「ナマエ」
「なに、っげほ」
 水分が圧倒的に足りない喉のせいで、自分でも不思議なくらい声が掠れる。名前を呼ばれたのを一瞬忘れて今は背中の後ろに回っている水を取ろうとするより先に、メローネが強く強く腕ごと私を抱きしめた。のばしかけた腕が腰の辺りに一挙に束ねられて窮屈だ。どうして今日明らかにメローネの様子がおかしいのかはまだ半分寝ぼけた私にはさっぱりだったし、ひんやりお尻を冷やしている水のペットボトルを一刻も早く取りたかったのだけど、人恋しさの抜けない胸がきゅうっと締まったせいで何もできない、何も言えない。メローネはメローネで、私を抱きしめたままぴくりとも動かなかった。こういうのを好きになるって言うのかもしれない、と思いながら、唾だけをまた飲み込んだ。



20090913

タイトルはGO!GO!7188の楽曲から。最初のところとか結構それっぽい感じです
あとイメージ的には「眠りの浅瀬」もちょっと入ってる





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