【約一時間前 九十九屋における状況説明】 (続き) 音だけを聞けば、まるで世界が崩壊してしまうかのように思えた。 「――おっと、」 そんな音に空かさず反応したのは折原の方だった。すばやく上下を見渡して、大きく右へとび跳ねる。そしてバックステップを踏みながら、気に入りのI-Phoneをポケットから取り出した。何をするのか。疑問を浮かべるより早くに、折原はそのままコートのフードをしっかりと頭に被り、口角を吊り上げた。 「何、余裕ぶっこいて何してやがる!!」 そんな静雄の声が掻き消されたのはあまりにも一瞬のことだった。 ――ドドドドッ。 濁流音が一際大きくなったかと思えば、突如、静雄の真横のビルの屋上から嘲笑うかのように水が溢れだした。 その様子はまさにゲリラ豪雨といってもいい。バケツをひっくり返したかのような勢いで降り注ぐ水たちは、あっという間に、下に立っていた静雄の全身を濡らしていった。 どうやら静雄が引っこ抜いたパイプが貯水庫まで傷付けてしまっていたらしい。 「水も滴るいい男?はははは、それだけびしょびしょだとただの濡れネズミじゃん。ばかだねぇ、シズちゃんはさ。引っこ抜く物くらい考えなよ。そんなんだからいつまで経っても単細胞って言われるんだ」 ピロリ―ン、と間抜けな音が辺りに響き渡る。手際良く画像を保存しながら写メールを撮った折原は、今度は声に出してけらけらと笑いだした。 「うっせぇ!!どれもこれも全部手前のせいだ!!」 「何でもかんでも俺のせいにするのはよくないなぁ」 降って来る水をもろともせず静雄が吠えた。ぺシャリと額に貼りついた前髪によって目は隠されている。そんな落ち武者のような格好の静雄を、もう一度携帯のフラッシュが捉えた。それに続くように響き渡る静雄の嫌いな笑い声は止む気配はない。 「このままその短気で被害妄想の激しい性格も洗い流されたらいいねぇ。そしたらもっとこの街は快適なものになるのに」 こめかみや頬に血管を浮かび上がらせながら、静雄はただひたすらにそんな折原を睨みつけた。 濡れたものは仕方ねぇ。 そう割り切らなければと、静雄は奥歯をギリギリと噛みしめる。弟から貰った服は確かに静雄にとって大切な宝物だ。どんなことがあっても大切に扱わなければならない。けれども、それと同時に今の静雄にとって大事なのは、びしょびしょになった服よりも何よりも、次に取るであろう折原の行動だった。 逃げるならば追わなければいけない。もし切りかかって来るのならば、今度こそあの痩身を捕まえるために手を伸ばさなくてはならない。 静雄は分かっているのだ。大体において、こういった喧嘩が中断された後の折原の行動はその二択に絞られることを。そして、『単細胞、単細胞』と罵る本人こそが、喧嘩において、実は静雄と負けず劣らず単細胞であることを、きっと折原本人は自覚してはいない。 「……まぁ、それも今日まで限りさ」 しかし、どうやら今日はイレギュラーの日だったらしい。 ひとしきり笑った折原が、不意にポケットから取りだしたのは、いつものようにナイフではなかった。手のひらサイズの黒い立方体。それはまさに、箱、としか表しようがなかった。 「なんだよ、それは。爆弾か? いつものナイフはどうした」 訝しげに臨也を見つめる静雄の目は鋭い。それは碌な事をしでかさないという直感からくるものでもあった。 「今日はナイフはいらないよ。それにこれは爆弾でもないよ。ただの箱だ」 「ただの箱? 胡散臭いな」 「胡散臭くはないさ。本当にただの箱だよ。なんなら持ってみるかい?」 そう言って、折原は黒い箱を静雄に投げて寄こした。それを静雄が掴み取ったのがまた奇跡とも言える。普段であるならば絶対に手などには触れないだろう。それをしなかったのは、単に折原がイレギュラーなものを喧嘩に持ちだした好奇心からなのか、はたまた別の理由があったのかは分からない。 ――ただ、それが全ての失敗だった。 この時、箱に触れたことで、表情には出さないものの、全てが折原の思惑通りに事が進み始めていたことを静雄は知らない。 「どう、持った感じは」 「……箱っつーか、蓋開かねぇぞ」 「そりゃまだ開かないさ。条件が揃ってないからね」 「条件?」 「そうだよ。条件。事象が起こるために必要な最低限の環境の定義だ。それを話してやってもいいんだけど、ちょっとそんな水塗れの場所じゃ不具合だから、いい加減まずそこから退いてよ」 「誰が手前の言うことなんて聞くか」 「とか言いながら退くあたり、素直じゃないんだか素直なんんだか」 「うっせ」 静雄は箱を耳元で振ってみたり、様々な角度から覗き見たりした。まるで、子供が初めてのものを触るような反応に似ていて、やはりこの男の精神年齢は低いと悟る。 しかし、それも折原にとっては想定の範囲だったのか、やはり表情を変えず、その光景をただじっと見ているだけだった。 「開くのか、これ」 「もちろん開くよ」 「中に何が入ってるんだ」 「見てみる?」 「………」 沈黙は、肯定。それを見届けた折原は箱を自身に返すように要求する。そして、なるべく日向の場所へ静雄に移動することを要求した。 「もうちょっと左にずれてよ。――うん。そこでいい」 そんな指示に静雄が従ってしまったのは、やはり好奇心からだったに違いない。 幾度となく、この手で折原に嫌な目に遭わされてきたというのに学習しない辺りが、実にこの男らしい。静雄は訝しげな表情こそしていたが、すっかり折原のペースに飲まれてしまっていた。 「じゃあ、始めるよ?」 そう言った折原が静雄の足元に跪いた。そして、足元にくっきりと黒く塗りつぶされた静雄の影に、ただただ箱を押しつけた。 「シズちゃんの影、ゲット!!!」 「……は?」 急に張りあげられた無邪気と言える声と共に、静雄の身に起こったそれはあまりにも一瞬の出来事だった。 くらりと目が回り、視界が白ける。 それと同時に、身体の奥から何か粘着質なものがずるずると引き出される感覚がした。ジジ、と地虫が鳴くような音が脳を支配したかと思えば、幽かにその音に混じって『愛してる』という声が聞こえる。この状況が一体何か、そしてどんなものなのかは形容しがたい。静雄に分かったことはといえば、それは今から自分の意識が飛ぶということだった。 * 「……平和島静雄!!」 緊張感を振り払うかのように、突如、折原が静雄の名前を叫んだ。それと同時に箱の蓋を開き放り投げた。もわりと箱から溢れ出た真っ白の霧は、急速的に部屋一体を埋め尽くす。加え、その直後。パリンというガラスが盛大に割れる音と共に、空間が割れたのは一瞬のことだった。 「――な、に?!」 あまりにも不意の出来事に、折原は身を守るため大きく数歩後退した。そして両腕で顔を覆い、机の影に身を隠すために体勢を低くする。 その目は大きく開き、流石に驚きが隠せていない。 『――臨也』 真っ白の霧が立ち込める空間から、どこからともなく聞こえた声は、余りにも折原が聞き慣れた声だった。 「……やぁ、初めまして平和島静雄」 薄く伸ばされた唇は三日月形に弧を描いていた。しかし、その表情はいつもと打って変わって余裕がない。明らかに無理をして強がっていると分かるような声の震えだった。 どうやら裂けた空間から、冷気が流れ込んでいるらしい。部屋の至るところが凍りつき、それでいて折原の唇が紫に変色している。 「いざや」 カタカタと肩を震わすそんな折原とは違い、熱の籠もった声で折原の名前を呼ぶ男の声は甘い。 次第に晴れてくる霧の間。そこから現れたのは、顔こそ同じものの折原に知る静雄をとは全く違う人物だった。 白地に所々青色で彩色された羽織りの中には、白の着物を身に着けていた。そして目は鷲色ではなく、海を思わず連想させるような透き通った青をしている。 普段の静雄からでは連想も出来ないような身なり。そんな男の容姿に、折原はまたさらに目を大きくして、驚いた。 「お前が、シズちゃんの影? 嘘だろ?」 「何が信じられないんだ?」 「――もっと獣じみていると思っていた」 「酷い感想だな」 「いや、だって……」 ――なんで俺を目の前にしてそんなに落ち着いてるの。 そう言って口を開いた折原は、珍しく自分の気持ちを素直に言葉に表しているようだった。表情に取り繕いはなく、どこか呆けている。むしろ、男が歩み寄ってきているというのに、ナイフを持ったまま微動だにしない辺り、相当のショックを受けているといってもいいかもしれない。 歩み進める静雄とそっくりな男は、そんな折原に優しく微笑む。 「いつも会えば……、」 「標識やポストを持って追いかけてくる、か?」 「…………」 「あれは、お前が思っている意味とは随分違う」 「意味が、分からない」 「分からなくていい。そのうちきっと分かる」 今は分からなくていい。 まるで子供に言い聞かせるようにひそやかに告げる男の目は、折原から離れない。対する折原も男から視線を逸らすことが出来ないのか、ただただじっと見つめ合っていた。 その間に、青と赤の距離は、次第に近くなっていく。 「寒いのか」 不意に、ゆっくりと、だが確実に、男が折原を腕の中に閉じ込めた。その瞬間、真っ蒼になっていた折原の顔が、今度は死人のように白くなった。 「――いざや」 青と白の羽織が揺れる。それと同じように折原の赤の瞳が大きく揺れた。 「……い、いやだっ」 いつだって世の中には理解できない感情が存在する。それは理屈でも本能からでもない。よく分からない、どこからか突然やってくる感情だ。そのせいで人は想い悩まされる。特に折原のような理屈を通して物事を処理するタイプの人間はこういう事態に陥ったらめっぽう弱い。その証拠に、頬や頭をここぞとばかりに男が愛しむように撫でているにも係わらず言葉が上手く紡げないほど、折原の脳はショートを起こしかけているような状態だった。『逢いたかった、臨也』と呟く甘く声を、忙しく目だけを動かしながら受け入れることしか出来ていない。 「――き、きみはシズちゃんだろ!!」 「俺は静雄だけど静雄じゃない。なぁ、臨也。こっちを見てくれないか?お前の顔が見たい」 頬へ優しく手を添える男に、折原の皮膚が粟立つ。 ――拒絶、拒絶、拒絶。 一目で分かるそれに男は気付いているのだろうか。尚も腕の中から離そうとはせず、触れることを止めようとはしない。 同じ顔。同じ声。男は折原の知っている全ての平和島像と一緒だった。だからこそ、折原はこの男が正しく平和島静雄の影であると認識したといってもいい。けれども、予想だにしなかった甘い雰囲気が、その異常さを全身に訴えてきたのもまた事実だった。 静雄のありのままとは一体何なのか。大嫌いで殺したい相手にまでに優しくすることなのか。それとも、別の何かが理由なのか。 ――【これ】は、誰だ? 折原はその全てが分からなくなる。 「お、おれは……?」 ふいに疑問を覚えてしまったのは現実が受け入れられない故のものだったのだろうか。 折原はピンクの箱の存在を思い出し、どこか安堵した表情を見せた。 使った箱がたまたま壊れていたのかもしれない。だったら自分のもので試してみる価値はあるだろう。そんな都合のいい希望にどうやら縋りついたらしい。 折原は、助けを求めるようにテーブルの上に置いてあったピンクの箱に手を伸ばして掴み取った。そして声を上げて自分の名前を呼んだ。 それが全てを狂わせるとも知らずに。 「――折原臨也!!」 空間が割れる。それと同時にバチリ、という放電音が折原と男の耳を劈いた。 |