小さい頃。仕事といえど、親と離れ離れに暮らすことに酷く寂しさを覚えた俺は、学校の授業よりも一緒懸命にロシア語を勉強した。


 ロシア語さえ話せるようになったら、父さんも母さんも俺を海外転勤とやらで向かったロシアに連れていってくれる。そう信じていたのだ。


 今思えば、小学校低学年によくある安直な考えだったと思う。


 日本に残された理由なんて全く考えもせずに、一方的に希望を抱いて努力をしたのは俺自身。


だから、両親が俺の努力を誉め讃えようともロシアへ呼んでくれなかったのも仕方がないことだったし、更にはそれで余計に不満や孤独感を覚えても、勝手に期待していたのは俺自身なのだから結局はどうすることもできなかった。


 ――全ては理由を考えなかった俺が悪かったのだ。




 そんな結局は何の意味もなさずに終わってしまった苦々しい語学習得という苦労。それは、皮肉なことに以前ほど多用することのなくなった今でも、俺の中にしっかりと残っている。嫌な思い出と苦い記憶とともに――。
















「またシズちゃん一人でご飯?寂しくないの?」



「消えろ、ノミ蟲」



「やだなぁ。一人ぼっちのシズちゃんが可哀想だなぁって気遣ってやったのに何その冷たい対応。ひどーい!!」



「うっぜぇ…」





 屋上で購買のパン数個とミルク・オレを広げ、一人食事を取る天敵に俺はさり気なく歩み寄った。スリッパがペタペタとコンクリートを叩く。しかし、ある一定の距離まで近づけば、今度はテリトリー内への侵入を許すものかと鋭い視線を送られた。






「おぉ、怖い怖い」






 心にも思っていない言葉を吐きながら、おどけた調子で両手を上げる。しかし、そんな降伏のサインですらシズちゃんには通用しないらしい。じっとこちらの様子を窺う姿に隙なんてものはなく、その眼光はまさに肉食動物のように思えるほど鋭いままだった。



 そんな彼を試すようにジリッと右足を滑らせてみれば、やはりどう頑張っても俺を近くに寄せ付ける気はないらしい。


 「それ以上来んじゃねぇよ」と、冷たく吐かれた拒絶の言葉と共に、シズちゃんは自分のスリッパの片方を豪速球とも呼べる早さでこちらに投げ付けてきた。






「行儀が悪いなぁ」





 ドゴォン、と悲鳴を上げたのは俺のすぐ後ろの壁だった。まさかスリッパなんかでコンクリートが砕けてしまうとは、当時この壁を作った建設業者は思ってもいなかっただろう。見事に風穴の空いた壁は、それはそれは通気性に優れたものになってしまった。






「まだ投げる気?」



「手前がそれ以上近づいてくるんだったらな」






 グルルルル、という声が聞こえそうな程に威嚇をしてみせる。






「何もしないって」



「嘘つけ」



「ホントだよ。俺は食事の時に限り何もしない」



「……やっぱ嘘くせぇな」



「ちょっとは信じてよ」



「手前のことなんか誰が信じられるか」



「………仕方がないなぁ」





 いくら相手が疑おうとも、こちらとしては少なくとも今は喧嘩を吹っかけるつもりがないので、大人しく歩みを止める。


 こういう場合は、無闇に踏み込んではいけないということを数々の人間観察を経て学んできた。相手を尊重し、互いに許される距離を測ること。それが、円滑に交友を深めることに繋がる。


 括弧、ただし食事の時以外はシズちゃんと交友を深めるつもりはない、括弧閉じる。






「まぁ、君が信じるか信じないかはこの際脇に置いといて、俺が気付いて良かったねぇ。いつもいつもこんなところで一人でご飯食べてただなんて俺としては放っておけない」



「気付かなくていいっつーの。放っとけ。むしろどこか俺の目の届かないところにいけ。目障りだ。手前がいたら飯が不味くなる」



「まぁまぁ遠慮しなくていいって」



「誰がノミ蟲相手に遠慮するか」






 ボソリと呟かれた言葉は、この際聞かないことにしておく。


 代わりに、未だじっとりとこちらを睨み続ける男から目を離して座り込めば、なぜだか酷くバツの悪そうに顔が歪んだ。






「何ここに居座ろうとしてんだよ…」





 不機嫌そうにこちらを睨む姿を片隅に捉えながら、俺はゆっくりと運動場へ目を向けた。何となく、ただ何となく一人でご飯を食べるシズちゃんが気に掛かった。ただそれだけのこと。





「ふふふ。言ったでしょ?安心しなって。お昼休みだけ特別なんだからさ。何となく幼い日の自分と重なったから、シズちゃんのご飯が終わるまで一緒にいてあげたいなと思っただけだよ」



「意味分かんねぇよ」



「君は一生分からなくていいの」







 ――きっとシズちゃんは俺とは違って、一人で食事を取ることに慣れてはいないんだろうな。


と、そんなことを一人眉間に皺を寄せながらパンを噛っている姿を見て、そう思った。



 家に帰れば、慕ってくれる弟がいて、そして息子に与えられてしまった特異な能力に少し後ろめたさを抱えながらも、精一杯の愛情を注ぎ続けてくれる両親がいるのだろう。


 決して、両親が海外転勤で不在なわけでも、身内や家政婦が気を遣って世話を焼いてくれるわけでもない。ちゃんと血の繋がった家族と共に、温かい食卓を囲む。そんなまさに普通の家庭でシズちゃんは育ってきたに違いない。



 そう考えると、こればかりは人と環境に恵まれたシズちゃんを素直に羨ましいと思ってしまう。



 少なくとも、俺だったら一人なんかで食べるくらいなら食事は取らない。もしくは、ゼリー飲料系ですますのが常だ。


 なぜなら、一人で食べるご飯が美味しくないことは嫌でも知っているから。




 今でもご飯を食べる度に思い出すのは、一人でテレビと向き合って摂っていた食事風景。


 周りには親はいない。笑いかけてくれる人もいない。いつも両親の代わりに食事を取らせることを義務とした大人が傍に居た。


 面倒を見られている自覚があったから何も言い出せはしなかったけれど、寂しいと感じるのはいつだってそんな時だった。



 だからこそ。あの頃の俺は、一生懸命にロシア語の勉強した。少しでもいいから両親の傍に居たい。結局、その全てが水の泡になってしまったのだけれども、その気持ちだけで頑張っていたのだ。


 あの頃の俺にとって、欲しかったのは友達やおもちゃではない。世話を焼いてくれる優しい他人もいらなかった。俺が欲しかったのは、ただ一つ。両親との、温かい団欒。それだけだった。






「まぁ、気にせず食べなよ。食べたらまたいつも通りなんだからさ」



「……手前はどうするんだよ」



「俺はさっきゼリー飲んだからいいんだよ。ここでぼぅっとしてるから」



「…………」



「俺のことはお構い無く。ほらほら休み時間終わっちゃうよ?ご飯は一人で食べるものじゃないからね。優しい俺がもう少しの間一緒に居てあげる」













自己投影な食事事情
(幼き日の一人の食卓)
















11,07,24(SUN)


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