▼門田京平の諸事情


元からおかしかった折原臨也がついに完全に壊れた。まことしやかに池袋の街に広まったそんな噂。その内容は実にシンプルで、しかし折原を知る者からすれば、あまりにも衝撃過ぎるものだった。


――折原がキスを求めてくる。


嘘か真か。正解がどうなのかと聞かれれば、まず間違いなく首を縦に振ることとなるその事実は、それでも確かに池袋の住人たちに混乱を与えた。なぜなら傍観者を好む折原は、人を見ているのは好きである。けれども、その人間たちを自分の内側に入れるのを極端に嫌っていた。それこそ秘書や闇医者くらい親しい仲でなければ折原の治療を受け持つことはできないし、肌に触れることも一切許されないくらいだった。そんな折原のまさかの行動。それはつい一週間ほど前から猛烈な勢いで人々の口や耳を行き交い始め、今ではやれ世界の終わりだだとか、やれ天使が降臨しただとか様々な例えで池袋中を駆け巡っている。人によって言っていることは百八十度違うとはいえど、それでも折原臨也が壊れたという事実だけは池袋の住人だれもが確かに理解していた。
実際、元より折原臨也は壊れている。己の快楽のために人を陥れるくらい、折原臨也の手に掛かれば造作もない。むしろ彼は喜んで人を手のひらで転がすし、奈落の底へと平気で突き落とす。見目美しい男は性格が完全に破綻していた。しかしそんな快楽主義者が、ここ数ヶ月そのなりを潜めだした辺りから、今回の事件は起こった。


――新宿の折原臨也が死んだかもしれない――。


そんな噂が流れるほど、彼は人にちょっかいをかけることのない彼らしくない生活を数ヶ月も過ごしていた。そして月日を越え、代わりと言わんばかりに姿を現した折原はいつの間にか人にキスを求めるようになっていた。そうなった理由は分からない。ただ、男女構わず片っ端からキスをするという事実。それもマウス・トュー・マウスという形で。しかも、それに二度目などなく、初恋のような神聖なキスが一つ落とされるのだけなのだ。



「…………で、何て言ったんだ臨也」


「だからキスさせてよ、ドタチン」



現在進行形で門田の胸の中にすっぽりと収まって上目づかいをしている男は、件の折原臨也だ。いろんな噂をあちこちで耳にしていた門田は、少し動揺しながらもある程度の心構えは出来ている。確かに折原がキス魔になったのは嘘だと思っていた。彼の噂が良かれ悪かれ世間を賑わすことはこれまでにもよくあったことだからだ。しかし、適当に流していた門田に掛かってきた先日の電話。それはこれまた噂を信じていなかったはずの闇医者のもので、そんな彼の痛烈な心の叫びを訴えた長電話を耳にしたらとてもじゃないが門田も噂を信じないわけにはいかなかった。
実際目の前で甘えたように身を寄せる折原はどこか平生とは違う。それは目元を染め、人間であるただの男に期待している眼差しであるとか、君なら絶対だよねと嬉しそうに微笑む幼さであるとか。少なくとも高校からの付き合いを以ってしてもなかなかに見られない折原のその言動に門田は確信を持っていた。
キスをされる。間違いなく。それもこんな公共の場所で。
――嬉しいが、しかし、それは困る。



「なぁ、臨也」


「なぁに?」


「キスをするのは悪いとは言わねぇが、今ここではちょっと止めて欲しいんだが」


「なんで?」


「そりゃ、どう考えても俺が耐えきれ――、」


「イザイザのお持ち帰りフラグきたあああああぁッ!!! ちょっとドタチン、いくらなんでもキスしていきなり突っ走っちゃうだなんてやだ、ホントもう男前!!押し倒す場所はそこの路地裏がいいな! それで熱いキスから始まってさ――、」


「狩沢、煩いぞ!!」


「だってドタチンが狼になってイザイザを襲っちゃうんだと思うとホントもうね、GJ!!私シズイザ派だけどドタイザもイケるし、何よりにゃんにゃん啼くイザイザとか想像しただけで、あ、鼻から血出てきそう」



前屈みになりながらも握りこぶしに親指を立て、懸命にドタイザを応援しようとする狩沢に、門田は心の中でだから嫌だったんだと叫んだ。現状を見るに、腐女子が好みそうなシチュエーションだと長年狩沢と付き合ってきた門田はすぐに気がついていた。こんな状況を彼女が放っておいてくれるわけがない。案の定、茶々を入れ、要求までしてきた。門田の予想は一寸も違わずに当たったわけだ。
確かに折原が甘えてくるところを他人に見せたいとは思わないが、門田にとって折原は娘のような可愛い存在に当たる。例え【実】ではないにせよ、門田が折原のことをそう心の底から思っているのだからだから、父娘関係といっても差し支えない。これがつまりどういうことかなんて、感が鋭い人間ならば分かるだろう。
門田は折原を可愛いと思っている。それと同時に同性であるのに、自分のものにしたいと思っている。しかしそれは恋人ではなく、娘として、だ。
そんな可愛い折原とこんな大っぴらなところで近親相姦に手を染めるわけにはいかない。門田の決意は固い。
それこそ、折原が運命の相手を探しているらしいと岸谷から電話を貰った時の心境はまず、全員殺してやる、だった。そして次に感じたのは、運命の相手ではないと悉く断られ続ける哀れな馬鹿どもへの愚かさ、だ。小さくガッツポーズをしたのも記憶に新しい。あんな可愛い折原を岸谷を含めどこの馬の骨とも分からない奴に渡したくないと門田は真剣に思っていた。そもそも何より、あの折原に運命の相手ではないと言われて易々と引きさがる神経を疑うしかなかった。少なくとも門田なら向こうが勘違いするように洗脳を始める。確実に自分のものにするために。



「……俺、襲われちゃうの?」



こてん、と首を傾げる折原に門田はぎくりと身体を強張らせた。こうやって知らない男や女を誘ってきたのかと思うと門田は自分の視界が真っ暗になりそうにな気がした。けれども今ここで倒れるわけにはいかない。どうにか意識を保とうと両足に力を入れる。
こんな可愛い我が子をこのまま野放しにはしておけない。誰にチューすれば運命の相手が分かると垂れ流されたか知らないが、池袋は危険だ。野獣の巣窟だ。その後ろでにんまりと鼻から血を垂れ流した狩沢がノートとペンを片手に何やら走り書きをしているのを確認しながら、ストーカーや勘違い野郎以外にもこうやって折原を頭の中で楽しむ輩がいるのだから護ってあげなくてはと思う。
折原は可愛い、我が子。
門田は頭の中で幾度となく、それこそお経のように繰り返し、何度も再確認する。



「俺、ドタチンが運命の人なら全然いいよ。身体も心も全部あげる。――幸せにしてね?」



死にそうな歓喜に打ち震えながらも、今すぐ押し倒したくなるほどの殺し文句にもぐっと耐えた門田は折原の両肩を取る。きらきらと熱く光るのは狩沢の視線。その眼差しの期待するところを門田は知っている。



「臨也、お前キスしたら満足するのか――?」


「うん。すぐに運命の相手かどうか分かるもん」


「そうか……」



例えその数瞬後で狩沢の血のような叫び声を聞く羽目になっても。例え折原のぷるぷるな唇と蕩けそうな笑顔が目の前にあっても。運命の相手が父親であってはならない。
近親相姦とは悲劇を生む。そうオイディプスでも書かれている。
だから、門田は、揺らがない。



「お前がそこまで言うn――、」


「キス、してくれるの?!」


「え、いや、だから」






折原は、我が子。可愛い、我が子。

門田の決意は、堅く、たぶん揺らがない。







12,07,11(wed)


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