にぎやかな食事が終わった。ゆったりと時間が流れ、あたりはもう薄暗くなり始めている。朝食を終えるというには妙な時間になっていた。
そもそも、夜行性の猫達にとってはそれが適切な時間か、もしくはすこし早いぐらいの食事だったのかもしれないが。



あたりが夕闇に染まる頃、ヤードのはずれでナマエは一人たたずんでいた。探しても見つかりにくそうな、物陰の子供用小さなの靴の傍だ。そこからなら月がよく見える。
まだ明るさがわずかに残る空にぽっかりと浮かぶ月は、丸みを帯び始めていたが完全な満月になるにはまだ数日かかりそうなことを示している。

あと数回か満月を迎えれば、季節も変わり、やがてジェリクルキャッツの祭りが来るだろう。




(あの神聖な舞踏会を、また経験することができるだろうか――)



ナマエは初めてジェリクルボールに参加した日のことを思い出した。
ある種ファナティックな舞踏会と、その後に感じたシンと張り詰めた静寂。
そして、知った。天上へ迎え入れられる猫が居ることを。
選び出された猫は、何の迷いもなく空へ上っていった。その顔はどこまでも清らかで、何の後悔も、恐れもないように見えた。
これほどまでに誇り高く生きる猫達がいたものかと、そのときはただただ圧倒された。

去年の――、二度目の舞踏会では、ナマエもすっかり踊りを覚えていた。
寸分違わず群舞をこなすこともできた。あの神聖かつ情熱的な、まるで猫の生命をそのまま体現したような踊りを、自分も体感したのだ。
ジェリクルキャッツの誇り高さをナマエは心から知ったのである。





月を見ながら思案していると、一匹のクリーム色の仔猫がナマエに近づいてきた。
周囲を囲む電灯がパッと一斉にともりだす。外灯の柔らかい光が、その幼い猫の柔らかな毛並みをぼんやりと照らし出した。
仔猫はふわふわの毛並みをナマエにすりつけるようにして彼女の足下に寄り添う。



「ナマエー!」

「シラバブ!」




ナマエは驚いて足下の小さな猫を見遣った。
今ナマエが居るところは、小さなシラバブだけではおよそ見つけられそうにない場所だった。しかもあたりはもうすっかり暗い。猫は夜行性だが、シラバブのような仔猫はそろそろ眠くなる時間だろう。
それに、仔猫が一匹で出歩くには危険だ。ジェリクルキャッツの縄張りとはいえ、何が起こるかはわからない。そう、なにせジェリクルキャッツの中には、マキャヴィティのような招かれざる猫さえいる。
神出鬼没のあの犯罪王にいつ会ってもおかしくはない。


「もう暗いよ、一人で来たの?」


さすがにシラバブだけで出歩かせているわけではないだろうと思ったナマエは、あたりを見回した。近くに世話見の一匹や二匹は居るはずだ。


「ううん、ちがうよ」


と、シラバブはかぶりをふった。
どうやらナマエの予測は当たったらしい。


「私も一緒なの」


後方からゆったりと落ち着いた、それでいて若く張りのある声が届いた。ナマエが後ろに目をやると、夕闇の中からゆっくりとシルエットが浮かび上がってくる。


「今日は大事な日なのに、この子が来るタイミングが悪くてね。ナマエと席、離れちゃったでしょう。シラバブったら、沢山お話したかったのに、ナマエとちっとも話せなくて拗ねてたのよ」


後から見守るようにして付いてきたのはジェリーロラムだった。
若い猫たちの世話をする姉役の様な彼女のことだ。恐らく拗ねるシラバブを見越して、ナマエが居そうなところまで連れてきたのだろう。

ナマエはジェリーロラムの姿を確認すると、一瞬の安堵を覚えたが、
すぐにまた気を張り巡らせて、どこかに誰かの気配はありやしないかと探りはじめた。



「ジェリーロラムだけ?」

「だけ、って何?」

「ほら、もう暗いからさ。マンカストラップでも、カーバケッティでも、ランパスでも、誰でも良いから力がありそうな猫と一緒にこなかったのかなって。もしジェリーやシラバブに何かあったらと思うと、私は気が気じゃないよ」

「相変わらずね、ナマエって」



そう言うとジェリーロラムはくすくすと笑った。肩をすくめるナマエは、何故彼女に笑われているのかわからず、尚肩をすくめてみせる。



「相変わらずって、ねえ」

「だって、あんまりにも他人の心配ばっかりするんだもの。自分のことはいつも二の次三の次よ。今だって、あなたは一人でいたじゃない」

「私は、」


―――別に、いいんだ



ナマエは口にしかけた言葉を押し込めるように閉口した。



「私は?」

「いや……なんでもないよ」



ジェリーロラムが続きの言葉を促すようにしても、ナマエの閉ざされた口からは続く言葉が出てこなかった。
そういう猫なのだ、ということはだいぶ前から知っていた。しかし、ジェリーロラムはどうしてもそれを寂しく感じてしまう。
三年一緒に過ごしていても、見えない壁が彼女とジェリクルキャッツの間にはあった。
いくら彼女達が『もう仲間だ』ということを伝えても、曖昧に笑ってすっと身を引いてしまう。
その壁が一体何なのか知ろうとしたところでいつだってはぐらかされる。
最初は信頼されていないのか、とも思ったがどうやらそうでもないらしい。
最近ではむしろ、信頼しているからこそ言わないのだ、という気がさえしてくる。
何の心配もない、君たちなら知らなくても大丈夫だ、ということを語外の仕草或は彼女特有の雰囲気から感じ取れる。知ろうとすればするほど、そのメッセージは強く伝わってくる。
しかし、何にせよ、いつでも距離を置かれてしまうのは寂しいことだった。



「ナマエ、何かお話してよう」



無邪気にはしゃぐ仔猫に、応えるようにしてナマエも頭を彼女に寄せた。
その様子はまるで姉妹か、はたまた親子にでも見えてしまいそうだ、とジェリーロラムは思った。


(シラバブもこんなに懐いて、みんなから信頼されても、あなたはあなたの隠しているものを私たちにおしえてくれないのね)


「…いつか、ちゃんと話すよ」

「…え?」



ナマエが、時にはミストフェリーズやマキャヴィティ以上に不思議な猫だということは重々承知していたつもりだった。しかし、こういった局面で、思っていたことを見透かすように言葉を発せられるとドキリと心臓が跳ねる。
奇術や魔術のたぐいとはまた違った、本当に不思議な力だ。
ジェリーロラムが驚いて顔をあげると、何色にも例えがたい、然し美しい色の瞳とカチリと目があった。
結局のところ、彼女には何もかも見抜かれているということを、ジェリーロラムは思い知らされる。


「いつかじゃなくて、今お話するの!」

「うん、大丈夫だよシラバブ。今日はシラバブが寝るまでお話をしようね」

「本当!?」

「本当さ。さあ、おいで」


ナマエの言葉を自分への応えだと取り違え、頬を膨らませて脚にすがるようにして地団駄を踏むシラバブにナマエは優しく微笑みかけ、仔猫を膝に招き入れる。
暖かく柔らかな小さな生き物は、くるりと背を丸めてゴロゴロと喉をならした。
普段ミストフェリーズがしてくるような仕草をシラバブがしてくるので、もしかしたらどんなマジックでもこなす彼もシラバブと大して変わらないのかもしれないとナマエは思う。


「また、ごまかさないわよね?」


ジェリーロラムは、今度はシラバブに聞こえないように、極力小さな…しかしはっきりとナマエに問いかけた。
不安顔のジェリーロラムを見ても、ナマエの表情は相変わらず優しいままだ。


「約束する。大丈夫、ちゃんと話すよ。そうだな…次の、ジェリクルボールの前までには」

「…わかった、信じるわ」


ナマエのしっかりとした語調に、ジェリーロラムは神妙に頷いた。
"約束"とまで言ったのだ。いくらいままではぐらかしていたとしても、それを破るような彼女ではない。



「さあ、今日は東洋に伝わる猫のお話をしようか」



ジェリーロラムもナマエの隣に腰をかけた。
外灯の明かりが遠くで煌々と灯り、そして月が三匹の雌猫を照らし出す。
穏やかな空気が、その空間を包み込んでいた。
語りだすナマエの口調は何処までも優しく、外灯や柔らかな月の光さえも、まるで彼女の口から語りだされた言葉の一部のようであった。




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