少し遠くでサイレンの音が聞こえる。
それはだんだんと近づき、ぴたりと止まった。
ここの近くで事故があったのか、それとも誰かが病気で倒れたのか。
その人の家族は大変な思いをするのだろう。
心配して、焦って、怖くなって悲しんで。
『なんであの人(あの子)が』と、そう思うにちがいない。



私はそういったものは形式的にしかわからない。


私の家族は、私が倒れても心配はしないだろう。
そして私も、私の家族を心配したりはできないだろう。


士郎からすればきっと信じられない感覚なのだと思う。
もういないけれど、暖かい家庭に、仲の良い弟と一緒に生活していた士郎。



仮に、(現段階ではとても仮にだが)士郎と家庭を築いたとして。



私はその感覚を得られるかどうか、全く自信がない。
その、家族を失うかもしれない恐怖や不安を含めたものまで幸福というのならば、私はそこに居る事ができないかもしれない。
私にとっては得体の知れないもの。
士郎と一緒にいられると思うのは嬉しいけれど、それは家庭を築く、という形では反映されない。

得体の知れないものと向き合うこと程怖いものはない。





その恐怖は、幸福という皮を被りながら背後から、
知らない間にヌルリと近づいてきて、何も知らない私の首にロープをかけるのだ。








人だかりを避けるようにして人を探すというのは矛盾した行為かもしれない。
けれども、少なくともなまえちゃんは人の不幸をわざわざ見学するような子ではない...と思う。
それに、その事故に直面した本人ではないはずだ。

そう信じたくて、恐らくまだ生々しさが残る事故現場と、それに集る人々を背にして走り続ける。



僕は、なまえちゃんの家族のことをあまり知らない。
なまえちゃんから家族の話題が出て来たことはあまりない。
最初は家族を失った僕に気をつかってそういう話題を出さないのかと思ったが、それとなく家族の事を聞いてみてもいつの間にかに話題を反らされている。
僕と同じで家族がいないのか、とも思ったがそうでもないらしい。
(なまえちゃんの家に遊びに行った時家族の人数分の食器などがあった。会ったことはないが)

ご両親に挨拶に行くと言ったけれども、彼女は『必要ない』と言った。
どうして、と聞いてみても困ったように笑うだけだったから、それ以上の追求はできなかった。



もしかしたら僕は。
無神経になまえちゃんを傷つけていたのだろうか。



僕は家族の話題に関しては敏感なつもりでいたし、僕自身が子供の頃に遭遇した出来事のために、家族に感ずる話題がどれだけデリケートなものかわかっていたはずだったのに。
僕の家族に関する幸福の話題をしようとすればする程、(たとえそれがなまえちゃんと一緒の未来であったとしても)
なまえちゃんの心が傷ついていたとしたら。





一緒になることは、こんなに幸福なことであるのに...。





僕はなまえちゃんが好きだし、なまえちゃんも僕を好いてくれてる。
それだけは解る。分かってる。
だけどこんなにも不安になるのは、僕がなまえちゃんを好きすぎるせいなのか。
好きな人を好きでいるのはこんなにも苦しいことなのかな。
想い合えることは素敵なことだって思っていたのに。

これじゃあまるで片思いの様で。






走って行くうちに住宅街を抜けて、川沿いにある土手が見えて来た。
そこに、薄い外灯に照らされた、消え入りそうな小さな背中を見つける。











「なまえちゃん!」



聞き慣れたはずの声に、思わずびくりと肩が揺れた。
背後から大声で私の名前を呼んだ主は、間違いなく士郎だ。
でもどうしてここに。
呆れられて当然だったと思ったし、追いかけてくるとは思わなかったから。(たとえそれを期待していたとしても)


振り返ってみるとやっぱり士郎で、その顔は今にも泣きそうな程にゆがめられていた。
よくある映画とかで割と涙ぐむ方だけれど、士郎のこんな表情を見るのは初めてかもしれない。




「士、郎....、わ!」

「よかったぁ...!!」



駆け寄って来た士郎に勢いよく抱きつかれて、バランスを失いかけた。
後方によろける私をしっかり抱きとめる士郎は、やっぱり泣きそうな顔をしている。




「え、と...士郎?」

「よかったぁ、なまえちゃん見つかった...!!」

「ど、どうしたの...」



どうしたの、はないんじゃないかと自分でも思う。
自分から逃げておいたくせに、相手に何があったのか聞くなんて野暮にも程がある。
けれども、士郎が今泣きそうになっていた理由はほかにあったらしい。



「さっき事故があって...、じょし、女子高生が跳ねられたて、聞いだがら...」

「ああ...さっきのサイレン...」

「なまえちゃんだったら"...どうしようっで、思っ、」

「ごめんごめん!私は大丈夫だから、ね?」



もうほとんど泣き始めている士郎の頭を撫でる。
すこし立場が逆転しているような気もするけれど、士郎が追いかけてきてくれたのが嬉しくて、私もすこし泣きそうになってしまった。
夕暮れ時を少し越えた、チープな青春映画のようなワンシーン。




私と士郎は、
もう一度 出会う。










「私ね...士郎の言う幸せが、怖いの」



土手に座り込み、もう乾いた目を瞬きさせて鼻をすすりながらなまえちゃんの話に耳を傾ける。
彼女がぽつりと漏らした言葉は、僕にとっては驚くべき一言だったが
ひとまずなまえちゃんの気持ちを全部聞かないと先には進めない。




「士郎はさ、家族といて幸せだった?」

「え...?う、うん。もちろんだよ?」



驚いた。
なまえちゃんが自分から、僕の家族に関することを尋ねてきたものだから。
僕たちは結婚する、という所まできたのに、そういう情報に触れることを避けてきたからだ。
このままお互いに触れずに過ごすのかな、とも思ったけれど、
こういう場面で。こういう事になるとは。
それでも、僕はなまえちゃんのことをもっとよく知りたいし、知った上で大切にしていきたい。
その為には僕自身、僕のことを誠実に話した方が良い。




「私の家はさ、士郎がすごしていたみたいに暖かい家庭じゃないんだ。もちろん、虐待とかはないけど...」



初めてなまえちゃんの家族の事を聞いた。
話を聞く限りでは、彼女は家族という集団の中にいながら、深い孤独を抱えていたのだということを知る。
僕は(仮に家族が今いなくても)、家族というものは無条件に暖かいものだというように思い込んでいた。
理性や知識では、そんな家庭ばかりじゃないことをよく知っていたけれど、
それほど確信していたわけじゃない。
ましてや、なまえちゃんがそんな...家族のような他人の集団の中で生活していたとは思わなかった。



ああ、だから君は。






「士郎の言う幸福が...士郎がくれる幸せが家庭の形をしているのなら、私はそのなかに適応できるかどうか、不安でしかたがなかった。私はね、家族にある幸福を知らない。だから、それがどんなに素晴らしいものかもわからない。わからないものの中にいきなり放り出されるのは、私にとっては怖いことだったんだ」




なまえちゃんは怖がっていた。
何よりも幸福を、家族を。怖がっていた。
僕がいくらなまえちゃんを愛しても、なまえちゃんの過去までかえられる訳じゃない。
なまえちゃんの家族までを変えられるわけじゃない。
僕が具体的な幸福の像を語れば語るほど、なまえちゃんの気持ちにどんどん錘をつけていたようなものなのだ。


自分の無神経さを呪いたくなった。


なまえちゃんのことをよく知っているつもりになっていた。
僕にとっての理想を、なまえちゃんに押し付けていたんだ...。



でも、一つだけ。
なまえちゃんは勘違いをしている。


僕は、僕の幸せは。












一通り喋り終わると、士郎がぎゅうと抱きしめてきた。


土手に座り込む二人の...まだ、少年少女と呼べる自分たち。
傍目には私たちはどう映るのだろうか。ただお互いの愛情を確かめる高校生だろうか。
将来を固めるには私たちはまだ幼く、そして未熟だ。
けれども時間は着実に過ぎていく。

いつまで自分たちを、未熟で幼いと言えるだろうか?
いつか(それはもうすぐ)その言い訳は、使えなくなる日がくる。



「ごめん....」



士郎がぽつりと一言、謝罪の言葉を述べた。
どうしよう。本当は謝るべきなのは私の方だ。
話すことが怖くて、それ自体がもう怖くて、大事なことなのに私は士郎に家族のことを隠していた。士郎も、がんばって自分のことを話してくれたのに。
私は。『士郎のため』なんてちっぽけな理由をつけて、家族のことを話さなかった。
私がちゃんと伝えていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。



「僕、なまえちゃんの気持ち、ちゃんと考えてなかった...」

「士郎、」

「でもね、なまえちゃん」



身体を離して、先ほど...私が逃げる前と同じように両肩を士郎が掴む。
でも先ほどと違うのは、士郎の目が不安や困惑を浮かべているのではなく、ただ真剣に私を見詰めている。
その気迫に、私は僅かに気圧された。





「僕は今が幸せだから。なまえちゃんと一緒にいる今が一番、幸せだから。だからこの先もなまえちゃんと一緒に居たい、それだけなんだ。将来のことは、嘘でもいいし、本当でもいいし、なんでもいい。そういうものだと思えばどんな形にもなれる」





考えすぎて士郎のことを勘違いしていたのかもしれない。
士郎の言う幸せは、ただ家庭の形をしているものだとばかり思っていた。
私だって、士郎と一緒に居る事が、いかに幸せかよくわかっていたはずなのに。
ちっぽけなことで悩んで、逃げて、不安になっていた。
それでも士郎は、私と一緒に居たいと言ってくれている。




これほど愛されたことが。
あっただろうか。






慣れれば慣れる程、毎日が勝手に過ぎて行く中で、自分の暮らしていた環境が、どんなものだったかもよくわかる。
うそ、ほんの少しだけ、やっとわかりそうになったような。


これから何か、人数が増えたりとか。
そう、例えば。
士郎と暮らしたりだとか。



「幸せになることを怖がらないで。僕があげる幸せが怖いんだったら、二人で作っていけば良いんだ。この幸せは僕一人では作れないことを僕は十分知っている。なまえちゃんがいないとだめなんだよ」


どうしても、なまえちゃんじゃないと僕は駄目なんだ―








「僕と、結婚してくれますか?」


「はい...」






私が返事をしてすぐに、(まるでこうなることを知っていたかのように)鳴ったことのなかった母からの着信音が響く。


あれほど私に塗り付けていた幸せの理想像を、士郎はあっさりと自らの手で剥がしとって行った。
こういうところでひょっこりと、幸福の肖像は姿を表すのかもしれない。
私の手を握る士郎の手はびっくりする程暖かくて、私はただ有り難う、と涙を流すのだった。







僕に、君に、最大の祝福があることをここに描こう
















50000 n2の中には純粋でちょっと泣き虫な吹雪と性格の悪い吹雪が存在している