士郎は無くすことによって傷つき、苦しんだ。
けれど私には無くすものが最初からなかった。
無くすほどの愛情をかける相手が、私にはいなかった。
士郎の言う"家族"という感覚がほとんど分からない。


私の家族はなんとか集団を形成するという意味では家族として機能しているが、
その実は全くお互いの状況など知らない。
父母ともに離婚もせず、そのくせお互いに思い思いの生活をしている。
母は母で働き、その金は父とは違う恋人の為に使い、その人と住む家さえ持っている。
父に至っては私や母に興味そのものが無いようだ。
お金はあるし、虐待などもされたことがないから生活に困ることはないが、同じ家に他人が住んでいるようなもの。
淡白な生活がそこにはあるが、幸福とイコールで結ばれる家庭いうものを見た事がない。



母は甘えたい人だったのかもしれないと、最近になって思う。
甘えて甘えて、与えられる幸福をただ享受できていれば良かったのだ。
ただ、その幸福を感じられなくなったときにその信頼関係はあっさりと崩れる。
その典型を、父母という形で私は見てしまった。


一応母には、「結婚するかもしれない」と携帯のメールで報告したものの、返事はかえってこなかった。
私が知っている家族は、士郎が言うほど良いものじゃない。



だから、言い方は冷たいかもしれないけれど、死んでしまったからどうなの?と思ってしまう。
たとえ家族が死んでしまっても悲しめたら、それで良かったことだし、悲しめない程希薄な関係しかない家族よりは、はるかに暖かく、羨ましいことのように思える。






走っても走っても、士郎は追ってはこない。
なんて面倒なことをしてしまったのだろう。士郎もきっとあきれているに違いない。
あたりはもう夕焼け色に染まり始めていた。
あれだけ縮まっていた私と士郎との距離が、あっさり開いてしまったようだ。












なまえちゃんが走って僕の前から居なくなった。
将来の結婚相手が、自分から逃げるというのは思ったより深刻なダメージを受ける。
もしかしてなまえちゃんは僕と結婚したくないのだろうか。
思い返してみれば、なまえちゃんの口から、結婚とかの、そういう話題が出て来たのを聞いた事がない。
僕だけが盛り上がって話していたような気がする。


僕はただ、なまえちゃんと一緒にいたいだけなのに。
それが君にとっては重荷だったのだろうか。




「どう、しよう」




すぐに追いかければよかったのに、僕の足はすくんでしまって動かない。
追いかけたとして、もしなまえちゃんに拒絶されたら僕はもう生きて行けない気がする。
僕となまえちゃんの関係は、そんなに脆いものじゃなかったはずだって解っているくせに、疑いたくなる自分が許せなかった。
なんて意気地が無いんだ。



「吹雪?」



呆然と立ち尽くす僕の背後から声をかけてきたのは、幾度も僕を助けてくれた友人だった。
その声に我に返ると、涙がぼろぼろと溢れて来ていることに気がついた。
泣くような年でもないのに、なまえちゃんがいなくなってしまっただけで僕の心はこうもかき乱されてしまう。



「お、おい...どうしたんだよ」

「なまえ、ちゃん、がぁ....」






切れ切れになりながら放つ僕の言葉を、なんとか拾おうとする染岡くん。
先ほど僕となまえちゃんとの間にあった事を嗚咽を混ぜながら説明すると、
染岡くんは鞄の中からスポーツタオルを取り出して、僕の顔にぺしゃりと叩き付けた。




「馬ッ鹿野郎!!!なんで追わねーんだ!テメェの結婚相手だろうが!!!!」

「だっで...!」

「このままで良いと本当に思ってんのか!?アイツが居なくなって一番苦しいのはテメーだろうがよ!!!このまま追ってやらなくてどうする気なんだ、あ!?泣いてる暇があったらアイツがなんで逃げたか聞いてやれ!情けねぇツラ晒してねェで、コレで顔拭いてさっさと行け!!」

「! う、う"ん...!ありがとう、染岡くん」



染岡くんから投げつけられたタオルで、涙塗れになった顔を拭って走り出した。
あたりはゆっくりと暗くなり始めていた。


走れども走れども、大好きな人の姿はまだ見当たらない。






「なまえちゃん...!」







情けなく君の名前を呼ぶ僕を、君は許してくれるだろうか。








走りながら携帯を手にしてなまえちゃんに電話をかけた。
一番かけ慣れたその番号が応答するまでの時間がいやに長く思える。
何処にいるかも解らない、携帯のつながる先を求めて僕は彷徨い続ける。
街はもうちらほらと外灯がつき始めていた。



突然、静かな住宅街に救急車のサイレンが響き渡った。
本当はゆっくりと近づいてきたのかもしれないが、なまえちゃんの事で頭がいっぱいだった僕には聞こえていなかったようだ。
サイレンの音を耳にした後に、ふいに人々ざわつきが耳に入るようになった。




このあたりは事故が多い。







(あの角で、)

(え?マジでー)

(かわいそうに...まだ若いじゃない)

(原付が女子高生に突っ込んだって?)

(意識がないって)

(それってもう――――)








ああ、やめてくれ!やめてくれ!
聞きたくもない不特定多数の声が、携帯をあてて居ない方の耳に飛び込んでくる。
僕が聞きたいのはこんな話じゃない。
僕が聞きたいのはこんな声じゃない。
ただ一人の、彼女の声が聞きたいだけなんだ。彼女を探しているだけなんだ。



だれかも解らない事故の相手を、どうしてもなまえちゃんのことと重ねてしまう。
もしなまえちゃんに何かあったら僕のせいだ。
最悪の結果が脳裏によぎり、ゾッと鳥肌が立った。







『ただいま留守にしております―...』








何度かけても、なまえちゃんの携帯は僕に主が呼び出しに応じないことを伝える。
携帯電話にまで拒絶されてしまった気分だ。
でも立ち止まっては居られない。走って、走って、走って走って走って走って、なまえちゃんを見つけないと。

これほど走るのは、久しぶりかもしれない。
僕の心臓が早鐘を打つのは、何も走っているからだけではない。





僕は今、なまえちゃんをなくすことが何よりも怖い。
なまえちゃんが僕から離れて行ってしまうのが、怖くて仕方がない。










目の前から大切な人がいなくなるなんて、もうこりごりだ。






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