「僕のお嫁さんになって下さい」





高校卒業を目前にして、士郎は私にそう言った。
士郎とは付き合ってもう長いし、惰性というほど生優しくもない。
特に士郎以外の人と結婚するかと言われると考えつかないから、いつかこういう日が来るだろうとは思っていたけれど。






「絶対に、なまえちゃんを幸せにするよ」







私は、幸せが

怖い















「へぇ、お前らとうとう結婚すんのか」

「結婚式は後になると思うけどね。卒業したらすぐに入籍しようと思ってて」

「式上げるときは呼べよ」

「もちろん!」





旧友たちに会えばこの話題で持ち切りだ。
特に中学時代に共にサッカーをして切磋琢磨し合ったあのメンバーには、あっという間にこの話が広まった。
皆は体よく理解して、祝福してくれる。
士郎の親友の染岡君に至っては既にご祝儀のことまで考えている。(士郎が結婚式のスピーチを頼んだりするからだ...。)

祝福される裏で私は結婚することになぜか拒絶感を抱いていた。
嬉しくないわけではないはずなのに、なぜか釈然としない。
友人からの祝福も、有り難うと言葉では言うけれども、正直に言えばちっともありがたいなんて思っていない。


私は薄情な女なのだろうか。






「なんだみょうじ、あんま嬉しそうな顔してねーなァ」



士郎が他の皆と盛り上がっている間に、あのほくろ付きのガタイの良い彼が近づいて来た。
染岡くんとは士郎を通して仲良くなった。中学の頃は、三人でよく遊んだものだ。
私たちがくっつくのを手伝ってくれたのは、実は彼である。



「やだなぁ嬉しいに決まってんじゃん」

「目が笑ってねーよ、目が」

「そんなことないし」

「テメー、この俺を騙し仰せると思ってんのかよ」

「...」

「...そんな目で見んじゃねぇ」



ジト目で彼を見詰めると、一瞬だけ身じろぎしたようにして言葉を詰まらせた。
どうやら本当に、目は口程にモノを言うらしい。



「マリッジブルーってやつか?」

「えー」

「今はまだ結婚前で色々不安になってるだけなんじゃねぇ?ま、あんま根詰めて考え過ぎんなよ」

「はーい...」



染岡くんは私の肩をぽんぽん、と叩いた。慰めや励ましのつもりだろうか。
マリッジブルーと言われてもピンとはこない。
そもそも結婚する、ということに実感が湧いてこないのだ。

なぜこのままの延長じゃいけないのだろう。
なぜ、幸せなどというものが。



「染岡くん!なまえちゃんと何話してたの?」

「いや、何でもねぇよ」

「いくら染岡くんでもなまえちゃんはあげないからね!」

「わかってるよ、別にお前の嫁さんになるやつを取ろうなんて思ってねぇ!」



二人は仲良さそうに、それこそ睦まじく笑い合う。
親友同士の朗らかな空気は、まるで私を排除するかのように彼らの周りに存在した。
私を抜きにして、私の未来が絡んだ話が始まる。
溜まらなく憂鬱な会話。





私は染岡くんが口にした『嫁』という単語を心の中でそっと踏みつぶした。













「子供は二人以上は欲しいな。なまえちゃんに似た女の子だったらきっとスゴく可愛いだろうし、男の子だったらサッカーやってほしいなあ。喧嘩をしても、晩ご飯までにはちゃんと仲直りして、みんなで食卓を囲んだりしてさ」




士郎の言う"幸福の形"は妙に具体的だ。
それは決まって家族に執着した形で現れる。私は会った事ないし、士郎もあまり語りたがる方じゃないけれど、彼には双子の弟がいたらしい。
居る、のではなく、居た。
双子ともあれば自分の片割れと言っても過言じゃないだろう。けれど、その弟くんはあまりに理不尽な理由でこの世から居なくなってしまったそうだ。
それを考えれば、士郎が家族(それも大所帯の)に固執する理由もわからなくない。

士郎はいつもその理想の家庭像を嬉々として話すけど、私はそれを聞く度に、いつもその理想から乖離していくように感じるのだ。
実感が湧かない、現実感がないからかもしれない。
もしかしたら、私自身が体験したことがないからかもしれないが。


家族がたくさんいることが必ずしも幸福かというと、そうとは限らない。
そのことを私は知ってしまっている。



彼の理想を現実にさせる自信は、私にはない。




士郎と結婚すれば、確実に堅実な、平凡で穏やかな家庭を築けるだろうなと思う。
それは結婚する条件としては申し分ない。
第一、私は士郎のことが好きだし、士郎も私を好きでいてくれるだろう。







けれど。
与えられる幸福というのは。
恐ろしく脆い。




入籍までの期限が迫って来ている。
つまり、高校卒業まで日がカウントダウン出来る程しかないのだ。
それまでに心を決めることは、難しいことのように思えた。




「...もうちょっと、待っててくれない?」

「...え?」

「入籍。今のままじゃ、私、士郎の気持ちに応えられない」

「どうして?」




士郎の愛嬌のある眉毛が垂れ下がる。
不安げな瞳を見ているとこっちまで不安になってしまいそう。
今彼を不安にしているのはまぎれもなく自分であるくせに。なんて贅沢で、疎ましい悩みなのだろう。




「...士郎のこと嫌いで、結婚したくないってわけじゃないの。それだけはわかって」

「じゃあ、なんで今はできないの?」

「...」

「なまえちゃん、」



私の肩を握る、幸せを追求する愛すべき愚か者。
そのまっすぐな不安そうな目線から思わず目を反らす。別にやましいことがあるわけでもないというのに。
そう、ただ幸せが怖い。
幸せが、こわい。


既に人生の苦しみや不幸といったものを背負ってきた士郎にとっては、家庭を築くことと幸福であるということはイコールで結ばれている。
私には士郎の背負って来た苦しみの全てを理解することはできない。




「ごめんね、士郎」

「、なまえちゃ」



まっすぐな目線に耐え切れなくて、肩を掴む士郎の手を強引に払いのけて走って逃げた。
ああまるでこれでは破局みたいじゃないか。ベタなドラマの展開のようで笑えてくる。
けれど現実はちっとも笑えない。笑えたもんじゃない。
士郎の足なら私に追いつくなんて簡単に出来ただろう。
けれど士郎は私を追ってはこなかった。











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