昔一度だけ、なまえが泣いたのを見た事があった。
彼女は強い女だ。小さい頃にどんな横暴なガキ大将が彼女をいじめたって、
サッカーの試合で負けたって泣いた事はなかった。
そのなまえが、一度だけ、俺の目の前で静かに涙をこぼした事があった。
***
相手はラフプレーで有名なジュニアチームだった。
体格の良い男たちばかりで構成されていて、対戦相手になったチームの選手に当たってガリガリ削ってくる。
俺たちも例外ではなかった。
強い力で味方選手に当たられ、何人も怪我をした。
いや...奴らの目的は俺となまえだろう。俺たちはチームの主戦力だったから、当然相手チームにしたらマークしなければならない。奴らは俺たちに当たろうとしたが、なんとか当たられても崩されずに済んだ。その代わりに他の選手に当たってしまうことがあり、こっちのチームは満身創痍も甚だしい状態になっていた。
「...なまえ、気をつけろよ。奴ら俺たちをなんとかピッチからたたき出したいらしい」
「うん、わかってるよ有人。でも、大丈夫。こっちが怪我で退場してる分あいつらもレッドカード食らってるから...」
「ああ...。だが、お前は違う。俺たちは当たられてもいいが、お前は女の子なんだぞ」
「やだなぁ、ピッチの上じゃ男も女も関係ないでしょ。有人が削られたらソレこそピンチだから...。わたしに何があっても、有人だけは行って」
「何を馬鹿なこと言ってるんだ!!お前は―――」
「あがれー!!!」
味方のゴールキーパーの声が俺の声を遮るように響く。
それと同時に彼の足下からサッカーボールが空中へと蹴り上げられた。
敵味方問わず選手たちがそれを追いかけるように走って行く。
俺の足下に落ちてきたボールをキープしながら相手のゴールに向かう。
いつもならこちらをサポートしてくれる選手たちが格段に少ない。やつらの乱暴なプレーで怪我をして退場していったからだ。
ドリブルをしながら走っていると、やはり体格の良い選手たちが俺めがけてタックルまがいのディフェンスをしかけてくる。
(なまえに――!)
なまえにパスを渡そうとして、ふとある考えが頭をよぎる。
もし、このまま彼女にボールを渡してしまったら――?
その時は、あの男達に彼女が狙われてしまう。
いくら彼女がフィールド上で天才と呼ばれていたとしても女は女だ。
身体の大きい、強い男に全力で当たられてしまったらひとたまりもない。
どうすれば―――...
「ッ、有人!!!」
「なっ―――!」
一人で葛藤していたら敵の選手が迫ってきていることに気づかなかった。
よりにもよって相手チームの中で一番体格の良いやつだった。
しかもヤツは巧妙だった。なんとかレッドカードにならないように死角になる位置で削ってくる。
(畜生ッ!!)
一秒にもみたないその瞬間が妙にながく思えた。
このままいけばその選手が俺の身体にダイレクトにぶつかってくるのは間違いなかった。
ボールを取られて、俺は怪我をして退場になるのか?そのまま、チームが負けるのか?
...俺がいなかったら、なまえは、どうなる――?
バキィイン!!!
厭な音が自分の左側で響いた。
が、不思議と痛みはない。衝撃に備えて目をつぶってしまったが、ゆっくりと目を開ける。
もしかすると、酷い怪我をしすぎて、かえって痛みを感じないほどになっているのかもしれない。
だが、目を開けてみると、もっと最悪な状況が起きていた。
「...なまえ?」
「っあ....!!!!!」
時間が止まってしまったような気さえした。
自分の左の足下には、左膝を抱えて踞るなまえの姿と尻餅を付いている相手選手。
なまえの足が妙な方向を向いているのは明らかだった。折れているが、折れているどころじゃないかもしれない。
一方で、当たってきた選手はというとニヤリと、『してやった』という表情をしていた。
しかも無傷で...
一瞬で頭に血が上るのを感じた。
「貴様ァ!!!!」
瞬間的に殴り掛かりそうになるが、俺の理性をつなぎ止めるように、マントを誰かが引っ張った。
「ゆ...と...、だめ....!」
痛みをこらえながら、脂汗を滲ませながらマントを引っ張ったのはなまえだった。
「だが、なまえ...!なまえが...!」
「このままっ...ゆうとが、レッドカードに...退場になったら...だれがこのチームを勝たせるの....!」
「!」
「お願い...勝って...!」
誰かストレッチャーをもってこい!という大人達の声と、周りを囲む選手達の同様する声があがったが、俺にはなまえのか細い声が妙にはっきりと、脳に染み入るように聞こえた。
怪我をしても泣き言一つ言わないなまえの言葉は正論だった。
本来なら、俺が怪我をするべきだったのに。
なまえにボールを渡すことで怪我をさせてしまうのが心配だった。
だが結果的になまえは俺を守って怪我をした。
俺の不注意で。俺の、油断で。
なまえの『勝って』というか細い、痛々しい声が突き刺さる。
「...なまえ!!」
ストレッチャーにのせられて運ばれる彼女の手を両手で握ると、痛みで息も絶え絶えな彼女が目を開いた。
「必ず勝つ!勝って、次の試合でお前の復帰を待ってる!」
「あり、がと...約束だよ...」
するり、と彼女の手から力が抜けた。
どうやら痛みのあまり気を失ってしまったらしい。
彼女の膝を見ると、なんとも痛々しい、赤黒いような色で腫れ上がっていた。
「勝つぞ...この試合」
なまえをのせたストレッチャーがフィールドがら出て行き、手配された救急車にのせられて行くのを見届けると、俺は彼女との約束を果たすためにゴールへと突き進んだ。
彼女が、帰ってくると信じて。