「う…」




カビ臭いような、埃臭いような匂いで目が覚めた。
空気が悪い。ジットリと湿気で満たされ、長時間ここにいたら誰でも病にかかってしまいそうだ。


ゆっくりと目を開けると、見たこともない部屋が眼前に広がっていた。
部屋、というよりは物置とか地下牢に近い気がする。
暗く、そして窓がない。



「ここ、どこ…」



確か私は、自分の部屋に居たはずだった。
豪炎寺くんが傍にいて…、その後有人が来てしまって、
………それで?
ことの発端を順序良く思い出そうとしたが、いまいち頭が霞む。



「有人………??」



直前まで一緒に居たであろう人物の名前を呼ぶ。
きっと有人なら何か知ってるに違いない。有人なら此の状況をなんとかしてくれる。
そういう過信が自分の中にあった。
しかし、その幼馴染みの姿を探している途中で、ふと思い出す。



ここに自分を連れてきたのは、有人ではなかったか―…




確信はなかった。けれども、じわじわと記憶がよみがえってくる。
そうだ、有人が来て、殆ど犯されるようにして乱暴されたんだった――。
その時の有人の顔は辛そうで泣きそうで、いつもなら受け入れてしまっただろうけれども。
その時だけはどうしても、許してはいけない気持ちになっていたんだ。
豪炎寺くんに諭されて、誰彼構わず抱かれるという立場をなんとかしなければと思っていたから。


けれど有人はそれを許さなかった。
正確には誤解していたのだけれど。



保護が過度に働く有人のことだから、ここまでしてしまってもおかしくない。
でも。




「なまえ」

「っ!」




聞こえてしまった声に軽い目眩と絶望を覚えた。
それはやはり想像していた声で、そうであってほしくない声だった。
変声期を終えた少年の声。有人の、声。
こんなことするのは有人にちがいないと思う反面、有人はこんなことしない、という望みがあったのに、そんな一縷の願いはあっさりと壊されてしまった。


カチリ、と音がして間接照明が付いた。
コンクリートうちっぱなしの無機質な壁が照らされる。



「有人、これは…」

「こんなところしか用意できなくてすまないな」



声と表情はいつもの有人で、私は尚更更「やっぱり私をここにつれてきたのは有人じゃないのかもしれない」という思いをわき上がらせてしまう。
けれどその手に持っていた手錠のようなものと鎖を見て、さっと現実に引き戻された。
薄暗いコンクリートで囲まれた部屋に鎖と手錠で想像できることなんて一つだ。冗談でも、冗談じゃなくても。
ベタすぎて笑えないセットに、背筋が凍る。



「近いうちに、ちゃんとした所を用意するから。しばらくはここで我慢してくれないか」

「え、ちょっ…」

「なまえ」

「んっ…」



そう言うと有人はおもむろに私にキスをしてきた。
いつもの慣れた有人からのキスなのに、なぜかとても気持ちが悪い。
厭だ、と思って避けようとしても、私が口を離した隙に今度は舌まで入れられる始末だ。



「ん、ぅ」

「ん」



互いの、くぐもる声が漏れる。
有人の舌に絡められて私の舌は行き場を失い、最終的には望んでいなくても絡み合ってしまう。
唇を離すと、ねっとりと透明の糸が二人の間を繋いだ。それを追うようにして有人の唇が再び近づく。



「や、めてよ!」

「っ…!」



あまりの状況に頭が付いていかず、思わず有人を突き飛ばしてしまった。
手先が震える。こんなことをしたのは初めてだ。
何があっても...口先だけは抵抗しても、今まではこんな風に有人を拒んだことはなかった。
それが、全身が目の前にいる『幼馴染み』を拒絶している。
頭で考えるより先に、身体が動く。
こわい。有人が怖い。

突き飛ばされた有人の顔が明らかに変わった。
怒りも悲しみも喜びや、或は楽しさをたたえた表情さえ見当たらない。
完璧なまでの無表情。
有人の目からはどんな表情も読み取ることができなかった。



「やっ…!!」




まるで能面のようになった彼は突然、私の身体をコンクリートの床に押し倒した。
急に視界が反転してしまったせいで、自分一体どうなってしまったのか一瞬では判別がつかなかった。






「どいて、有人…お願い…」




自分にかかる影を見上げるようにして言葉を発する。
相変わらず有人の表情は読み取れない。
だが、眉間によった僅かな皺を見て、もしかしたら少し怒っているのかもしれないと急に冷静になった頭で考え始めた。



「ゆ、」

「拒むな」

「え…?」

「俺はお前を守る。今までのように、これからも。なまえには不自由はさせない。苦しい想いもさせない。……だからお前は俺に誓え。俺を拒まず、絶対に逃げないと……!!」




なんて表情をするのだろう。
先ほどまで全くの無表情だった有人は、こんどは苦しげに顔を歪ませて声をしぼりだした。
こんな有人を見るのは初めてだ。苦しそうな彼の姿は何度か見たことがあるけれど、こんなに悲痛な表情は私にはしたことがなかった。
それとも有人はずっと、こんな心でいたのだろうか。
こんな苦しみを、抱えていたのだろうか。



「ゆうと、」

「拒むな」

「あのね、...」

「やめろ...やめろ...!!!」



そんな悲しそうな顔をされたら、一体どんな言葉で逃げ出せばいいのか見当がつかない。
彼が言うように逃げなければいいのかもしれないけれど、そうもいかない。
このままずっと、私がここにいたら厭でも異変に気づく人はいるだろうし、
もしこの状態でみつかったら有人は間違いなく代表から外されるだろう。
それどころかもっと大変な、それこそ新聞にのるようなことになってしまうかもしれない。
この局面でそんなことを考える私も相当チーム馬鹿だなと思って少し苦笑した。
さっきまではコワイと思っていた有人が、突然ひとりぼっちの子供のように思えた。

昔怪我をした左足の傷がじくじくとうずく。
私の怪我と同じ時に有人の心も傷ついてしまった。
今は有人の心もきっと疼いているのだろう。



私はもう駄目だけれど、


「なまえ…!!」







有人にはせめて、前を向いていてほしかったのに。
有人が苦しそうな顔をするから私まで胸がくるしい。







苦しそうな表情の侭、私の首もとに顔を埋めて胸をまさぐってくる。
もう既に部屋着に着替えていた後の、ラフな身体に有人の手が這い回った。
はだけた服の裾間から冷たい手が入ってくる。皮膚に触れられる度にぞくっと肌が泡立った。


「…ぁ、」

「声、出せよ」

「ん、ぅ...」




声を我慢するように唇を噛んでいたら、声を出すように促されて口の中に指を入れられた。
さすがに有人の指を噛んでしまうわけにもいかなくて、私は甘んじてそれを受ける。
服越しにでも目立ち始めた胸の頂を、服越しに噛まれた。
だ液の跡が服に付く。今は、そんなことも気にしていられないけれど。
身震いをする私に構うことなく有人はそれを続けた。



「ふ、ぅっ…」



熱を持った吐息を押さえることができず、口からこぼれ落ちる。
私の身体を押さえつける力はまだあるけれど、拒めない程じゃない。
でもそれをしないのは、




「っ、はぁ…なまえ…」



同情、しているからなのだろうか。




過去のある地点の、有人と私しか体験し得なかったあの出来事。
誰も理解し得ない私たちの関係と直結する記憶。

乱暴を働くその一つ一つの動きが、まるでわたしに助けを求めているようでどうすればいいのかわからない。このまま流されてしまうことは簡単だけれど、そうしてしまったら本当に後戻りできなくなってしまう。



このままじゃどこにもいけないよ、有人もわたしも。
このままとどまっていちゃいけないのに、どうしても足踏みしたままだ。
わたしたちはあの夏の病室からちっとも勧めていない。



わたしの身体をまさぐる有人の姿がかなしくて、
泣かないように扉の見えない壁を見詰め続けた。







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