こんなことがあって良いはずがない。
こんなに焦って良いはずがない。
アイツが不動に傾くはずがない。
アイツが俺の前から居なくなるはずがない。



何度も何度も自分に言い聞かせても、不安が心を支配するのはどこかにその予感があったから。
今まで何をしようとしても、何を与えても、なまえの笑顔はどこかぎこちなかった。
だがそれに対し、今日見たアイツはどうだっただろうか。


不動と会った後。
なまえのあの楽しそうな顔は。


決して短くない、むしろ長いと言える付き合いの仲なのに、なまえのことをわかり切れていないという事にも気づいていた。
それでもいつか分かる日が来ると信じてやまなかった。いや、そう信じていたかった。
でもそれは、俺たちのこの友人とは言えないが決して恋人同士とも言えない関係に慢心していただけだったのかもしれない。



なるべく早くなまえに会いたかった。
不動が言っていることが嘘であってほしかった。
強固な繋がりのようでいて、俺たちのこの不安定な関係は誰かが疑った瞬間にすぐ崩れてしまう程に脆い。





一瞬だけ、彼女の部屋を前に足が止まる。
何を恐れることがあるのだろうか。彼女から始まってもいない関係の終わりを告げられることだろうか。

少々不躾だと思ったが、ノックもなしにドアノブを握る。
自分でも驚くほど扉を開ける腕が重かった。




「なまえ....」



ギ、と僅かに軋む音を立ててドアが細く開いた。
部屋の中は薄暗く、開いたドアの隙間から入る光が、部屋の床に細長く伸びる。







「豪炎寺くん....?」







呼ばれた名前に全身が硬直する。
聞き間違いではない、別の名前。俺の名前ではない名前。
そして不動でもない名前。
彼女の口から出てくるとは思わなかった名前が、俺の鼓膜に響く。



思い切ってドアを大きく開けて、彼女の部屋に足を踏み入れた。
廊下からの光に、まぶしそうに細められた彼女の目元は赤く腫れていた。
まるで泣いていたかの様に。



なまえのその赤い目を見た瞬間に俺の中で何かが、がしゃんと音を立てて落ちた。






「っ、泣いて...いたのか?」

「あ、れ...有、」

「豪炎寺に泣かされたのか!?」

「ちが...っ!」




ベッドサイドに腰をかけたなまえの姿が。
あの夏の日に涙を流した、幼かった彼女の姿と重なる。



泣かない彼女の涙。

泣きはらしたであろう目元。




なまえの元に歩み寄り、その細い方を掴む。
あまりの力で掴んでしまったために、なまえは痛そうに顔をゆがめたがその事に気を配れるほど余裕がなかった。

彼女が俺の前で涙を流したのも、泣いたそぶりを見せたのも一度きりだけだ。
そのなまえが泣いている。泣いていた。



「っ、有人...!」

「言え。誰に泣かされた?豪炎寺か?なあ!」

「違う....っ!!話、聞い、んッ―――」



真実を問いただすよりも先に、彼女の口を塞ぐ。
我ながら矛盾した行動だと思う。
それでも自分の中の漠然とした衝動と情動を止めることが出来なかった。





(不動だけではなかった)




なまえの足を駄目にしたのはどうあっても俺で、それはもう変えようもない、どうしようもない事実なのだ。
サッカーを取り上げられた彼女の心には計り知れない程の穴が空いてしまった。
俺の責任である以上、彼女を全力をかけて守るのも俺の役目であるはずなのに。
彼女は泣いていた。彼女が涙していた。
チームのエースストライカーの姿が頭の奥でちらつく。
それを打ち消すように、なまえの首もとに勢い良く噛み付くと、彼女の身体がビクン、と跳ねた。



「痛い、やめて有人...!」




無遠慮に押し倒して抵抗する彼女の服をたくし上げた。
脇腹から胸にかけて無数の赤い花がちらつく。明らかに俺がつけたものではないものも沢山あった。
いつもなら僅かに嫉妬の気持ちを湧かせるだけのそれであったが、今の俺にとっては欲望に拍車をかけるものになっていた。



「ゆっ....!」

「...」

「ぁっ、いや...」



服とベッドのシーツが擦れ合う音が部屋の中に響く。
柔らかな彼女の胸に口づけ、舌を這わせる。
赤く爛れたふしだらな痕を刺青の様に刻み付けるも、それだけで自分の稚拙な独占欲が満たされるはずもなかった。




「んっ、んっ....」



何度も口づけては、逃げ回るなまえの舌を強引に絡ませる。
なんとか俺の身体を押し返そうとするなまえに些かいらついて、その両腕をベッドに縫い付けるようにして押さえこんだ。





いつ何処で誤解したのだろう。




思いを告げる事ができなかったのは、サッカーをなくした彼女を束縛したくなかったから。
なまえから拒絶されることが怖かったから。




なまえの自由にさせてやりたいと思っているし、それを誰よりも望んでいたのは自分ではなかったのか。
誰よりもなまえの幸福を願っているのではなかったのか。





なのに心の奥底では、
彼女を独占したくて、縛っておきたくて仕方がない。






彼女の内股に手を添えてなで上げると、ふるふると身体を振るわせた。
熱っぽい吐息を漏らしながら、なんとか声を上げまいと下唇を噛むなまえ。
スカートの中に手を突っ込み、下着に手をかけようとした。





「どうすればいい…」

「やっ、やめてっ」

「やはりお前をここに連れてくるべきじゃなかった…。喩えなまえが馬鹿みたいになろうが、実際そうだろうがそうじゃなかろうが、好きになるヤツが居ることぐらいわかってたはずなのにな」

「んっ、」

「もう、いっそのこと―――」






いっそのこと。
もう俺だけしか居ない世界に連れていってしまえばいい。
豪炎寺にも触れさせず、不動にも会わせず、ただ俺だけに何もかもを与えられる場所になまえを閉じ込めておけば良いのだ。
そうすれば全ての有害なものを彼女が手にしなくて済む。
俺となまえの、理想の空間があれば、葛藤しながらもなまえを他の誰かに抱かせずに済む。
サッカーを目の前にして彼女が苦しむこともない。


欲望に忠実に、それでいてなまえを守る方法はこれしかない。
これしか、ない。






「…ごめんな、なまえ。少し、我慢してくれ」

「え…?ん、ぐ…っ!!!」






なまえの身体を押さえつけてみぞおちに一発。
酷く暴力的な方法だということはわかっていたが、抵抗されずに、それでいて誰にも知られずに彼女を連れ出すには他に方法が見当たらなかった。
空気が詰まるような、濁った音がなまえの喉から漏れ、そして全身の力がガクリと抜けた。
どうやら思惑通り気絶したらしい。
生温い体温を抱きながら、少しだけ首もとに顔を埋める。
なまえの柔らかい、暖かな香りがした。

此の香りを他の連中も体感したかと思うと、無性に腹が立った。
(たとえ差し向けたのが自分だとしても)







だらりとしたなまえの四肢を抱え、立ち上がる。
しばらくぶりに抱えたなまえの身体は妙に軽く、消えてしまいそうだった。






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