「生きててくれて、ありがとう」
有人のその言葉に、涙が溢れて止まらなくなった。
だけれど、不思議と悲しくなかった。本当に、最近は泣いてばかりだ。
悲しくなってないて、今は、嬉しくて泣いている。
長かった。
ここまでにくるのに、一体どれぐらいの時間がかかっただろうか。
私たちが空回りした時間は、本当に文字通り空っぽで恐ろしい程空虚だった。
何にも共鳴することのない、真空の、すかすかの日々だった。
だけれども、それも今日で終わったのだ。
「あーーーーー」
明王くんが虚脱したように声をあげた。
その声に合わせるように、結局みんな、座り込んでいる私と同じように床にペタリと腰を下ろした。
この数日、本当に色々なことがあった。
豪炎寺くんにシュートをみられた。
明王くんに抱かれた。
有人に怒られた。
試合に出た。
死にたいと、思った。
そして今。
生きている。皆に、生きることを許されて、私はここにいる。
夕日の中、今まで散々助けてもらった三人に、また助けてもらった。
生きている。
先ほどとの決心とは真逆の位置に、こうして存在している。
「お前さァ、俺の話聞いてなかったワケ?」
「話...?」
「変なこと、考えるなって言ったろうがよ」
「あ、」
「あ、じゃねーよこの野郎!」
私がすっとぼけた声をあげるものだから、明王くんは先ほどとは比べ物にならないほど乱暴に(それでもやさしく)私の髪を両手でわしわしとかき回した。
「わああああ」
「おら、反省しろ」
「ごめ、ごめんなさぁい…」
本当にされるがままで、私の髪はどんどん乱れて行く。
さっきサッカーをしたせいで、もともとあんまり整ってはいなかったけれど、明王くんが手を離すころにはなんだか爆発したようになってしまった。
それでも抵抗しなかったのは、彼の焦りが何となく伝わって来たから。
今、こうして私を罵倒したりせず、ただ優しく諭すようにするその仕草が嬉しかったのだ。
「まあ、なんでもいいや。生きてりゃ」
な、と笑う明王くんに答えるようにして微笑む。
本当に、その通りだと思った。そして、ようやく自然に微笑めるようになった気がした。
結局最後まで明王くんは甘えっぱなしだ。
いつかちゃんと、恩返しをしなければいけないだろう。
いままでやっていた『身体をつかった』方法ではなく、もっと正当に。
明王くんだけではない。
いままでずっと苦しんで来て、一緒にいてくれた有人にも、
そして私をここまで連れて来てくれて、ここに引き止めてくれた豪炎寺くんにも。
「そういえば、みょうじにはまだ名前を呼んでもらったことなかったな」
「え?」
「ちょっと遅ェんじゃねえの、エースストライカーさんよォ」
突然豪炎寺くんが脈略のないことを言い出したものだから、あまりちゃんとした返事ができなかった。そのかわりに、明王くんがからかうようにして豪炎寺君に言葉を返す。
「俺は呼び捨てだぞ」
「鬼道クンはいーの、お前は幼馴染みっていう特典付きなんだろ」
「それだけじゃないさ」
先ほどの焦った表情は何処へやら、有人は得意げに、いつもの自身ありげな表情で二人の間に言葉を投げかけた。
「みょうじ、ちょっと名前で呼んでみてくれないか」
「修也くん?」
「じゃあ俺は明王でいいわ。くんとかいらねェから」
「なまえ、呼ばなくていいからな」
「修也でいい」
「豪炎寺ちょっとだまれ」
勝手に会話をすすめる豪炎寺くんと明王くんに、有人があわただしく返事をする。
緊張感が蔓延していたこの屋上に、一気に和やかな空気が流れ込む。
あのままだったらどうしてもしんみりした、重苦しい空気になっていたかもしれない。そうしないように振る舞うあたり、三人とも、やっぱり私よりずっと大人なのかもしれないと思った。
「ところで、なまえ」
「なに?」
「その、なんだ…」
突然改まって有人が私に話しかける。
何か言いにくそうにしている有人は、どことなく照れているようにも、恥ずかしがっているようにも見えた。
なにより夕日のせいか、顔がうっすらと赤くなっているようにも見える。
「す、…」
「あーはいストップストップ」
「それ以上はさすがに俺も黙っては見過ごせないな」
「お前ら…!」
有人が何か言いかけたとたんに、豪炎寺くんと明王くんの二人がとめにかかった。
遮られた有人はというと、ゴーグルの下から恨めしそうに二人を睨んでいるようだった。
「俺も、好きだよ」
「んな…!」
「豪炎寺、てめェ!」
有人と私の間に入って来た豪炎寺くんが私の両肩を掴んで行った。
それはいつも試合のときにみる豪炎寺くんの表情で、私は思わず背筋をぴんとのばしてしまった。
有人は驚いた表情をしていて、明王くんにいたってはなんだか怒っている。
「どうする、なまえ」
「なにちゃっかり名前で呼んでんだよ!」
「おい、なまえ、豪炎寺はやめておけ。俺は許さんぞ」
「鬼道には賛成だが鬼道に譲るきはねェぞ俺は!なまえ、いいからお前はこれからも俺のユニフォームでも着てろ!」
「言い方がダサい」
「ほっとけ!」
「ふふっ…」
「何わらってんだ、なまえ」
私をおいていく三人の会話に、思わず笑みが溢れてしまった。
やっぱり三人とも凄いんだ。ちゃんと私を笑わせてくれる。
私は生き延びた。
この三人に、そして他の多くの人に、生かされた。
生きなければ。こうして拾ってもらった命は、もう粗末にはできない。
確かに私のこの足では、ピッチで試合を続けて行くのは無理かもしれない。
けれど、今日こうして希望を見いだしてもらったように、まだ何かが出来るかもしれない。
『ありがとう』
私の気持ちは三人に伝わりましたか。
これが精一杯の私の気持ちです。たった五文字かもしれないし、もっともっとちゃんとお礼が言いたいけれど、なによりこの五文字に勝る言葉が見当たらなかったんだ。
三人のおかげで、
有人と、明王くんと、豪炎寺くんのおかげで、私にとっての『これから』が見つかりそうなの。
私はすこしだけ言い争っている三人を背に、2,3歩前に歩み出た。
それからくるりと向き直る。
「あのね」
私の声に三人とも口を噤み、私は三人と目を合わせるようにして見渡した。
不思議と、今日は世界が優しくみえる。
「私も好きだよ!」
あ、という顔の有人と明王くんに、ぽかんとした表情の豪炎寺くんを見渡して、
頬が思わず緩い笑みを浮かべてしまう。
それから有人と明王くんは少しだけあせって私に詰め寄ろうとしたけれど、
私はすっと息を吸って少しだけ大きな声でこう言った。
サッカーがね!
さっきよりももっとあっけにとられた顔の三人を見て、私はついに声をあげて笑ってしまった。すると明王くんがちょっとだけ怒って私を捕まえようとしたけれど、小走りで逃げた。こんどは有人が前から私を捕まえようとして、最後には豪炎寺くんまでが参加してきた。この世界はまだまだ赤い。青くない、燃えるような空に今は包まれているけれど、今日はとても優しく私の傷さえも受け止めてくれるようだった。
地を蹴る私はもう、空を飛びたいとは思わなくなっていた。
Fool Girl