夢の中で走っているようだった。いくら走っても前に進まず、ただもがいてその場で溺れているような感覚を覚える。
心臓が今までにない程早鐘を打っている。




一瞬でも遅かったら―――



夕日の赤を見たせいか、
木からもげて落ちた石榴の果実のようになったなまえの姿が厭にリアルに想像できる。
そんな妄想はあり得るはずがない、と振り払おうとしても、
幾度も幾度もその姿が脳裏に浮かんでくるのだった。



どうして見誤ってしまったのだろう。
絶対に守ると決めたはずの女をいつから離して、そして突き飛ばしてしまったのだろうか。
絶対に死なないという確信が妄信となって俺を盲目にしていたのだろうか。




大丈夫、死んでいない。思いとどまっているはずだ。
そうじゃなければアレはただのパフォーマンスだ。
なまえがそんな軽卒な行動をとるはずがないと知っておきながら、自分を安心させるためにあらゆる可能性を脳が提示していた。

並走する不動は、いらつきとも焦りともとれる表情をしていた。
俺よりもなまえとの付き合いはずっと浅いはずの不動。
なぜ不動に分かって、俺にはわからなかったのだろう。
結局俺は、やはり不動の言う通り『優しさを押し付けて』しまっていたのかもしれない。
それは自分の中でうっすらと気づいていたことで、それでいて決して認めたくないものでもあった。






今までなまえを想ってきたつもりだった。
けれどその思いが変質して、いつの間にかになまえを屋上から突き落とそうとしている。
俺が、



俺が。
殺す、のか。
アイツを。なまえを。




そう思ってしまった瞬間に心臓が大きくドキン、と跳ねた。
今呼吸が乱れているのは、走っているからではない。
言いようもない焦りと、そして恐怖が触手を伸ばすように絡み付いてくる。


ようやく階段の終わりに近づいて来ていた。
それと同時にわき上がってくるのは、一番最悪なイメージだった。


赤いなまえの身体。
彼女自身の体液で赤く染まった。
地面をも赤く染め、最終的に酸化して黒くなってゆく。
見開かれたままの彼女の瞳は、『空を飛びたい』と言っていたときと同じで何も映しておらず、ただぽっかりと虚空へと視線を向けている―――。









「なまえーーーーーーーーーーーー!!!!!!」









頭にぬるぬると浮かんでくるイメージを払拭するように、殆ど体当たりの勢いで屋上の扉を開いた。
重い金属の扉はぶつかった衝撃で派手な音を立て、屋上と屋内を繋いだ。





「あっ....」





目に飛び込んで来たのは赤く染まったなまえの姿だった。
しかしそれは想像した絶望的なものではない。
背景の夕日に染め上げられていたのだ。
目を目を見開いたなまえの目も赤く、てらてらと輝いているのが分かった。



「ほら、な」


赤く染まったなまえを抱き込むようにしていたのは豪炎寺だった。

俺となまえの過去を知った豪炎寺。
しかし、たとえ過去を知っていたとしてもなまえと過ごした時間は俺の方がずっと長いというのに、何故豪炎寺も不動も俺よりも早くなまえの異変に気づけたのだろうか。

豪炎寺は少しだけ眉根を寄せて苦笑いのような表情を浮かべ、なまえから離れた。




なまえは驚いてフリーズしてしまったかのように、目を丸く見開いたまま何も喋らなかった。
その驚きに満ちあふれた瞳と、かちりと目が合った。
想像していたあの虚空を眺める瞳をは全く違う、てらてらと...恐らく涙で艶っぽくなった瞳が俺の目を捉えて離さなかった。




「....」

「....」




俺たちは想像していたのとはかけ離れすぎた、あまりに奇妙な構成に、互いに互いの顔をぐるりと見合わせていた。
どことなく気まずさが漂い、全員が何か言葉にする事に対して躊躇している。







「はーーっ...」





僅かに漂った沈黙を破ったのは不動のため息だった。
不動は強ばっていた表情を緩めて、なまえや豪炎寺と同じように屋上の床にペタリと座りこんだ。



「心配かけンなァ....」

「ご、ごめん、....なさい...」

「ったく...変な事は考えるなって言ったのによー、お前全然言うこと聞かねェんだな。鬼道クンが手を焼く訳だよ」



小気味よくハハッと笑った後で、心底安心し切ったとでも言うような表情を浮かべながら不動はなまえの頭をくしゃくしゃと撫で回した。
なまえが俯いてしまうと不動は『なあ?』と言いたげな顔で俺の方へくるりと振り返った。




「なまえ...」

「!、有...」




顔を上げたなまえに...泣き顔のなまえに全ての言葉をかけてやりたくなった。叱りつけて怒鳴ろうとも思ったし、包み込んで癒してやりたいとも思った。
どの言葉を言いたいのか、かけるべきなのかと逡巡する。


馬鹿野郎、なんでこんなことを、心配させるな、好きだ、愛してる。それから、それから、それから―――。
頭では言葉が溢れてくるのに、喉の近くまででかかると、そこからぼろぼろと溢れてしまった。何一つ音となって紡がれる事なく、その気持ちは胸につかえるように溜まっていった。



ああそうか。
これらは全て愛しさから出来ているのだ。
いままで押さえていた愛しさが怒濤の如く押し寄せてくる。
ずっと溜め込んで来た気持ちがふくらみ、自制の壁が欠壊するのを感じる。




「ごめっ..、!?」

「他に言うことが、あるだろう?」




つい言い慣れたあの四文字の言葉を真っ先に口走りそうになると、豪炎寺が諭すような表情で遮った。
一瞬戸惑ったが、豪炎寺の言わんとすることが何故かすぐに理解できた。
あのままあの言葉をなまえに言うことは、何処にも進めなくなるということなのだ。
過去に縛られて、お互いに抜け出せなくしようとしているのだ。
もしここで豪炎寺が遮っていなければ不動に同じようにされていただろう。
不動も、豪炎寺と同じような表情をしていたから。





俺の時間は、これからゆっくり進むのだろう。
それが風化であっても追憶であっても。
あの夏の、病室で二人で号泣したあの日からようやく抜け出すことが出来る。







それがわかると不思議と、"今の"なまえの姿が見えてきた。
しっかりと、自分の両足で立つことの出来るなまえ。
何処へでもいける彼女。
辛いことも受け入れられる強さも持っているし、指示されなくても自分から選択できる。
それが"今の"なまえだったのだ。



病室で共に泣いたあの日から、俺はその場にとどまり続け、彼女は傷を追いながらも自ら立ち上がろうとしていた。





ああ。ようやく。
漸く彼女がもう病室に居ないことに気づいた。
こんなにも時間がかかってしまった。








「なまえ....」





もう愛しさで迷う必要はない。
彼女を本当の意味で『自由』にしなければ。
今の俺に出来る、最大のことを。
今の俺が注げる、最大の愛情を。



人生で一番守りたいと思った彼女に。
一番愛おしいなまえに。



やっと、言える。












「生きててくれて、ありがとう」









彼女は泣きはらした顔をぐにゃりと歪ませて、情けない笑顔で
涙をこぼしながら笑った。






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