「おはよう...」

「よぉ」





練習が始まる間際になって部屋のドアをノックして来たのはなまえだった。
大方ユニフォームでも借りに来たのだろうと思い、用意しておいた自分のユニフォームの替えを投げて渡す。



「ありがと」

「別に。っつーか何つー顔してんのお前」

「え?」

「目ぇ真っ赤」

「ああ...なんかさ、緊張して眠れなかったんだよね」

「...そうかよ」



眠れなかった、というなまえの目は赤く、目元も腫れている。
寝不足でここまでにはならないだろう。追求はしなかったが、泣いたのだろうということは推測できた。


何か。
泣く程のことが。


鬼道と何かあったのだろうか。
コイツの事だから、最後の最後まで鬼道に試合に出ることは言わないと思うが。
なまえの態度の変化に鬼道が気づいて、何かされたり詰問まがいのことをされたりしたのかもしれない。




「ばんざーい」

「? ばんざーい?」



棒読みで万歳、と言い、自分もそのジェスチャーをするとなまえもそれを真似た。
高く上がった両手が持っていたユニフォームを、もう一度奪い取った。



「あれ!?なんで?」

「いいからじっとしてろ。そのまま手ぇ降ろすなよ」



なまえの為のユニフォームを床に落として、彼女の着ていた服に手をかける。
まるで小さい子供の服を脱がせるようにして、身にまとっていたシャツを抜き取った。
服の下に隠れていたまっさらな身体と胸を覆う下着が姿を表す。
だが、その身体には前日にはなかった赤い痕が複数残っていた。


(やっぱりな)



痕だけでは誰がつけたのかは分からないが、昨晩になってもまだコイツは誰かに食われたらしい。それを拒もうとして乱暴にされたかしたのかもしれない。



「服ぐらい自分で着替えられるよ?」

「俺が着替えさせてやってんだから、そこはありがたく思っとけ」

「はぁい」



努めて明るく振る舞うが、まだ心の内は動揺があるのが見てとれた。
だが、それも普通のことだろう。
故障してサッカーから離れて、2年のブランクをあけていきなり試合に出されれば誰だって動揺するし、
ましてやなまえの場合はいくつか制約がある。
それは怪我のことであり、こいつの幼馴染みのことでもある。
葛藤がない方がどうかしてる。



「ん...明王くん」

「心臓、すげーバクバクしてるぜ?」



両腕を降ろさせたなまえの左胸に手を押し付ける様にして心臓の鼓動を確認する。
普通よりも少し早めに打たれた鼓動は、なまえの緊張や期待、そして不安を露にしていた。
いくら平静を保とうとしたところで、自分の身体に嘘はつけない。



「怖ェか」



なまえの顔を見ながら問う。
困惑の表情が俺を見詰め返してきたが、あえて目線を反らしたりはしない。
端からみれば奇妙な光景かもしれない。
上半身が殆ど裸の女と、その胸に手を当てて立つユニフォーム姿の男。



「...怖いよ」



胸元に押し付けていた手をゆっくりと離す。
掌に伝わっていた体温が消えていく。



「三分だけだけど、それだけでも本当にサッカーができなくなってたらどうしよう....」



ああ。
コイツは。


いつだってサッカーをしたいという願望と、出来なくなっているという現実を突きつけられることを恐れている。足の怪我がなまえの楽しみの大半を奪い、抜き取ってしまった。
その不安そうな瞳が俺を煽る。
普段の掴みどころのないような、馬鹿と言われても仕方ないなまえの姿は何処へ消えた。
今目の前に居るのは、消えてしまいそうな年相応かもしくはそれ以下の表情を見せるただの少女。
なんて儚い姿だろう、と思った。



「...んな顔してんじゃねーよ...」



先ほど床に落としたユニフォームを手に取る。
ばさりと頭からそれをかけてやると、なまえは服の中で両腕を袖に出すようにもぞもぞと動かした。
初めて見るなまえの青いユニフォーム姿は、予想外によく似合っていた。



「悪くねぇな」

「そう?」


そっかぁ、よかった、といつもの調子を取り戻すなまえに背を向ける。
背の後ろでは、着ていたハーフパンツを脱ぎ、渡したユニフォームの下に着替えていることだろう。
布同士が擦れる音がする。



「...靴下どうすんだお前」



試合中はもちろん、なまえがいつも履いているニーハイを着用することは出来ないだろう。
足を保護するためには、やはり俺たちが着用しているような厚手のソックスが好ましいが、
それでは短すぎて、左膝を走る大きな傷痕を隠すことは出来ない。




「サポーター持って来てる」

「...ハッ」

「一応、いつも持ち歩いてはいるんだ」



やっぱりコイツはサッカーをするという願いを諦め切れていなかったんだなと思い、少しだけ笑えた。
諦めたフリをして、心の奥底では深く望んでいたこと。
それは鬼道ではどうしようもないこと。



「やっぱやりたかったんじゃねーか」

「そうだよ?やりたいって、言えなかったけど」



誰に言えなかったのか、と一瞬だけ思ったが、それは多分鬼道の事だ。
アイツはなまえの事となると、度を過ぎたサポートをしようとする。
帝国時代のあの鬼道の過剰さが、そっくりそのままなまえに注がれているようなものだ。
なまえとその足を守るためならば何だってしただろうし、そのためにはいくらなまえがサッカーをやりたいと言ってもそれを取り上げただろう。
...それをなまえのためだとヤツは思っているだろうが、それが自分の願望に基づいているものだということに鬼道は気づいていない。
"なまえを守る"というエゴになまえを縛り付けている事にも。





「...お前は自分が思っているよりもヤワじゃねぇよ」

「...!」

「不安ばっかに向き合うな。やりてー事やって悪いなんてこたねェだろ」

「明王く、」

「但し、お前のやりてえことはお前の責任。けどよ、逆に考えればお前の責任を誰かが肩代わりしたり、感じたりすることは出来ねえんだ。誰かが責任感を感じてたりするのはそいつの勝手な自惚れであってお前の所為じゃない。だから、今日は楽しめ」



いいな、と言い終わる前に、急に背中に暖かさを感じた。
ユニフォーム越しに感じたのがなまえの体温だということに気づくまでに、しばらく時間がかかった。
背後からなまえに抱きつかれている。



「...ありがと、明王くん」

「...うっせぇな。オラ、さっさと出るぞ」



予想外のなまえの反応に、身体の芯が熱くなる。
少しだけ顔が熱くなっているのがわかって、強引になまえの腕をほどいた。




「不安ななまえチャンのためにおまじないしてやるよ」





そのままというのも何か癪に触るので、振り向き様になまえの額にキスをしてやった。
今までの不純な行為から考えればなんて淡白で、それでいてウブな行い。
ちゅ、と軽いリップ音を立てて唇を離すと、なまえの顔もほのかに赤くなっていた。






これから始まる"試合"のために、俺たちは同じ部屋を出る。






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