ああ、やってしまった。
大変なことになってしまった。







「何をやってるんだ!」





勢い良く開いた扉をくぐってやってきたのは豪炎寺くんだった。
先ほどまで一緒に居て、飲み物を取りに一度この部屋を出た彼。そしてタイミング悪く有人が来て、現在に至る。

なんて間が悪いんだろう。

彼にはいつも見られたくない場面を見られている気がする。



手にしていた、飲み物が入っていたであろうカップを床に落としてこちらに駆け寄る。
そして私に覆いかぶさるようにしていた有人を力づくで剥がした。
有人の瞳はゴーグルで隠されていて、うまく表情が読めなかったが恐らく不愉快な顔をしているのだろう。
この部屋の不穏な空気を物語るように、溢れた飲み物が床にみるみるうちに広がってゆく。




「お前こそ何しにここに来た」



有人は吐き捨てるようにして言った。
眉間の皺が深く刻まれている。ああ有人怒ってるな、久しぶりにこんなに険しい表情を見たかもしれない、なんて場違いにもそう思ってしまう。
ひっぺがされた勢いで、僅かに後方によろめいていた有人はベッドから降りて、豪炎寺くんと対峙するように立つ。
豪炎寺くんも豪炎寺くんでものすごく有人を睨んでいる。
押し倒されたままの体勢だった私までも緊張してしまい、身体を起こしてベッドの上に正座した。
だがそれでも、ちょうど二人の視線が交差する場所に変わりはない。



この険悪な雰囲気から逃れられるなら、もうなんでもいい。





「あの、」

「いい、なまえ。少し黙ってろ」

「お前がそんなこと言えるのか、鬼道」

「なんだと」

「みょうじがどんな状況だったのか分かっててそんな事言ってるのか!?」

「解ってるさ!お前がなまえを泣かせた!それだけだろう!!」

「違う...!みょうじがどんな気持ちだったのか、少しは考えた事ないのか!!」

「やめて二人とも!」



激しくなりつつあるこの口論を、ひとまず大声でかぶせる。
すると二人とも息が詰まったように押し黙った。だが顔はまだ何か言いたげだ。
もう夜も更けてきているから、誰に聞かれていてもおかしくはないというのに。




「有人、確かにわたしは泣いてたよ...でもね、それは豪炎寺くんのせいじゃないの」

「...! じゃあ、誰が...」

「お前以外に...誰が居るんだよ....!!」



豪炎寺くんの言葉を聞いて、どういう意味だ、という顔で有人はわたしを見遣ったが、彼に言葉を返すことができなかった。
有人のせいじゃない、と、言えない。
確かに有人のせいじゃないかもしれない。でも、突き詰めて考えれば有人のせいなのかもしれない。
少しでもそう考えてしまうわたしがいる。
中途半端な顔のまま、有人の顔を見詰め返すと、ゴーグルの奥の瞳がほんの僅かに透けて見えた。
ゴーグル越しに見える赤い瞳がそうなのか、とわたしに問いかける。
先ほどまで怒りで顰められていた眉根が、今度は困惑の形を浮かべた。



「鬼道は..みょうじと長く一緒にいたんだろう...!?なぜわからない!なぜ...みょうじにこんな顔をさせるんだ...!」

「っ...!」

「みょうじは怪我をしてサッカーが出来なくなったんだろう!?お前はそれを知っているんだろう!?それなのに何故...みょうじの気持ちを..考えたことはなかったのか...!?」

「考えなかったことなんてあるわけないだろう!!?」



今度は豪炎寺くんが黙る。
ああ、どうしよう。このままでは有人を追いつめてしまうし、豪炎寺くんは誤解したままだ。
それでも何の弁論も出来ない自分が情けない。
どうしたらこの場を切り抜けられるの。
どうやったらこの二人をうまく落ち着かせられるの。



どうしたら。








「....なまえに怪我をさせたのは、俺なんだ....」







ああ。もう。







「っ違、」

「..なんだと?」


それは違う、と言おうとしたところに、豪炎寺くんの疑問の声が被る。
止めようとするわたしをよそに、有人は話を続けようとする。






わたしにとっても、思い出したくないこと。
有人にとっても、つらいこと。







「俺があの時なまえを守れたら...なまえは怪我なんてしなかったんだ...」

「...」

「....」



一通り話し終えると、わたしたちは皆がそれぞれ口を噤んでしまった。
たかだか十代も前半のわたしたちががこれを話題にするには、重すぎたのかもしれない。



「...それでも俺は...」



重い沈黙を破ったのは豪炎寺くんだった。
真剣な瞳を一度だけわたしに向けて、まっすぐに有人を見詰める豪炎寺君からは、もう怒りを感じなかった。
ただ、静かな強い気持ちがそこにあるだけのような、そういう顔をしていた。



「俺は...理解できない。そこまでみょうじのことを解っているのに...どうしてなんだ...」

「っ、それは...!なまえを――」

「もうやめようよ」



有人が続けそうになった言葉を、今度はわたしが遮る。




聞きたく、ない。
今は、聞きたくない。




有人はずっとわたしに対しての罪悪感に縛られている。その罪悪感から、わたしにありとあらゆる事をしてくれた。
わたしを『誰にでも抱かれる女』にしたのもわたしを一人にしないためだし、怪我や出来ないサッカーのことを考えさせないためだった。

わかってる。
有人がどれほど苦しんでいるかもわかってる。
有人がどれだけわたしの事を考えてくれていたかもわかってる。


でも。



その罪悪感が。




わたしにも苦しい。








やっぱり有人は解ってないと思う。
わたしのことを、誤解しているのかもしれない。
罪悪感が、見えなくしているのかもしれない。


だから、聞きたくない。





「今日は、もうやめよ」

「だが、」

「いいから。二人とも今日はもう部屋に戻って、ね?」




わたしを不安そうに見詰める豪炎寺くんに、強い目線で返す。
これ以上はもう何も言わないでほしいという意味を込めて。

口を開けてまだ言葉を紡ぎたそうな有人の手を握る。
微笑みかけようとしたのに、うまくいかなかった。


「お願いだから」



手を離すと、有人はうなだれて顔を背けた。
私は彼に心の中でごめんね、と言うと二人の背中を軽く押した。



「飲み物..落として悪かったな」

「あ、うん..大丈夫」



腑に落ちないという表情の二人を半ば追い出すように部屋の入り口まで連れて行った。
それに追い打ちをかけるように「明日も練習あるんでしょ?」と言うと、二人とも口を真一文字に結んで部屋の外に出た。


「おやすみ」

「ああ...おやすみ」

「...おやすみ...」



扉を閉めて、溢れた飲み物の近くにしゃがみ込んでティッシュで拭き取る。
スポーツ飲料だったらしく、拭き終わったあとは床がベタついた。
後味が悪いと、象徴するように。







それでもわたしは、明日の朝、不動くんにユニフォームを借りる。



 



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