パイプ椅子の上に座るなまえの姿を見て少し驚いた。
今まで練習を見ているときの表情はどこかぼんやりとしていたが、今では一つ一つの動きを逃すまいとしているように、ほとんどに睨んでいるに等しい顔つきをしている。
二度目の休憩時間。
今回の休憩時間は先ほどのものと違って短いものだ。
ただすこし水分補給をするためのもの。
「なまえ」
「ん?」
「水」
「もー...春奈ちゃんに言えば持ってきてくれるのに、なんでいつもわたしをこき使うんだい」
「たまには動けよ、太るぞ」
「わかったよ持ってくるよ!もう!有人のばか!」
けらけらと悪態をつくには無邪気すぎる表情でドリンクを取りに行くなまえは、かつてないほど気分が高揚しているようだった。
いや、かつてないという表現はあまり正しくないかもしれない。
正確には彼女がサッカーをできなくなってから、だ。
こんなに明るい彼女を見るのは久しぶりだ。
「はい」
「ああ...サンキュ」
確かに今までもニコニコとした表情を浮かべてはいたが、ここまで生き生きしていることはなかった。
今日の朝はそうでもなかったから、もしかしたらさっきの休み時間に何かあったのかもしれない。
「うれしそうだな」
「え?そうかな」
「ああ、顔に出てる」
「何もなかったよ?」
「何かあったか、とは聞いてない」
ギクリ、と笑顔を硬直させるなまえ。まったく、コイツは昔から何かをごまかしたり嘘をついたりということが非常に苦手だ。こうしてすぐ表情に出てしまうのだから。
「...不動か」
「なにを、おっしゃる、有人さん」
「俺が見ていなかったとでも?」
片言で弁明するなまえにニヤリと笑ってやれば、彼女は目を泳がせて目線を反らせた。
ニヤリと笑うほどの余裕なんて本当はないが、わざと余裕ぶったフリを見せる。
もしなまえのこの明るい表情を作っているのが不動だとしたら、それはとても悔しいことだ。
俺はなまえが足を怪我してからは、一度もこんな表情を作れた事がない。
せめてなまえの苦しみがなくなるように、楽しみがあるようにと努めてきた。
彼女もそれに応えるようにニコニコと笑顔を浮かべるようになった。
だがその奥にある哀しみや憂いまでを払拭できたわけではない。
長い時間一緒に居るし、なまえのことはよく知ってるつもりでいる。
その俺に出来なかったことを、短時間しか関わりのない不動にやってのけられたら、流石に不快に思う。
俺は、ずっと、なまえが好きだったから。
ずっとなまえを見てきたから。
サッカーが出来なくなったなまえは、ぼんやりとすることが多くなった。
そして空を眺めては独り言のように『空を飛びたい』と言っていた。
空を飛べたら足に負担をかけなくてすむ。
いまもそこまで不自由じゃないけれど、でもサッカーができないなら空ぐらい飛んでみたいのだと、彼女は言った。
そんなことを考えさせないように、暇な時間を与えないように、俺は次から次へと目新しいものを持ってきた。
暇があるから考えるのだ。元来サッカーに打ち込んでいた時間がぽっかりと空白になってしまった。だからどんな突拍子のないことでも真剣に考えてしまう。
しばらく彼女に暇を与えないようにしていたら、空を飛びたいと口走ることは少なくなった。
けれどそれにも限界があった。
中学校に進学し、俺は帝国でますますサッカーに打ち込むようになった。
俺がサッカーをやって、試合がある時にはなまえも一緒に連れて行く。
間近であの熱気を、闘気を見ていればもしかしたら、またあの生き生きとしたなまえに戻るかもしれないと思っていたからだ。
だが俺がサッカーに打ち込む時間と反比例して、なまえには隙間の時間が多くなった。
イナズマジャパンが結成され、世界に挑戦することが決まった時期に。
「空、飛びたいなあ...」
なまえがまた、あの言葉を口にした。
もしここで彼女を置いて行ってしまったら彼女はどうなるだろう。
きっと今以上に隙間の時間が増えてなまえを苦しめてしまう。
どうやってジャパンについてきてもらおうか?
マネージャーになってもらう、とか?
いや、無理だ。
マネージャーといえど体力や運動量が要る仕事だ。
なまえもサッカーをやっていたぐらいだから体力はある。
しかしそれと同時に足に負担をかけてしまう。
その時に考えた苦肉の策だった。
「空、飛ばせてやろうか」
「え?できるの!?」
「ああ...まず馬鹿にならないとな」
「うん...?」
彼女を、抱いた。
「ゃっ....!有人、やめてっ...!」
「考えるな...何も、考えるな、なまえ」
「ふぁあっ...あっ...!!!」
「馬鹿になってしまえ」
「ぁっぁっ、あ、―――――ッ!!!」
「なまえッ....
ごめんな.....!!!」
行為が終わったあとに『空は飛べたか?』と聞いたら彼女は困った顔で微笑みながらうなづいた。
俺に出来るのは快楽で彼女を一瞬でも空に飛ばすこと。ただそれだけだ。
そして。
「....イナズマジャパンに、ついてこい」
「何、言ってるの...」
「選手のために、お前はどんどん馬鹿になれ。そうしたらお前はもっと馬鹿になれるし、空も飛べる」
「...でもわたし、マネージャーじゃないよ...」
「マネージャーじゃなくても馬鹿ならついてこれるだろ。大丈夫、俺がなんとかするから」
「....」
なまえの複雑そうな顔を見て内心は罪悪感でいっぱいだった。
けれどこうでもしないと彼女の空いてしまった時間はごまかせそうになかった。
本当は俺だって、なまえにこんなことなんてさせたくないし、してもらいたいくないんだ。
けれど俺には彼女を束縛しておく資格なんてない。
せめて、せめて彼女を楽に、苦しみを少しでも忘れられるように。
そうすることしか、できないんだ....。
「...妬けるな」
「? なんか言った?」
「何も」
俺が出来なかったことした不動への妬みをわずかに吐露するも、そのつぶやきはなまえには聞こえていなかったようだ。
(その方が俺にとってよかったのだが。)
「...明日は試合形式らしいな」
「‥‥いつもそうじゃん」
「まあな。でも監督直々に言ってたから、もしかしたら何か特殊なことがあるのかもしれない」
「....」
「どうした?」
「ううん、有人はまたすごいプレーみせてくれるのかなあと思って」
「はは、俺にだってどうなるかはわからんさ」
彼女はすこし楽しみそうにそう言った。
だがその言葉がごまかしであったことを、その時の俺は見抜けなかった。