不動明王は不動明王ではなくなった。
いつからか彼は彼という人間ではなく、『望まれた不動明王』として生活するようになった。
彼の父親が社会的地位を失って以来。
彼は母親に望まれた通りの人間になろうとした。



えらく。
えらく。






「明王くんじゃないね」

「うるせぇ」

「君は明王くんじゃない」

「だまれ」

「わたしはそれでも、」

「黙れっつってんだろ!」





「それでもいいよ」






チームメイトからも何を考えているかわからない、不適な存在とされていた彼が唯一恐れる人間と言えばナナシだった。
不動明王でなくなった彼の仮面が唯一壊されるのがナナシの前で、
ナナシを前にしては彼の積み上げてきたペルソナは通用しなくなる。
そこには傲慢で勝ち気で人を見下し嘲笑し陥れる"彼"の姿はなくなり、
ただのサッカー少年である不動明王に戻らされるのだった。


彼女は...――ナナシは不動明王の本質を知る唯一の人物だ。
本来の自分がいかにちっぽけでいかに気弱で影響されやすい人間かというのを必死に隠しているのに、それをいとも簡単に突き崩されそうになる。
いつしか弱さは卑屈さに変わった。
不動明王自身がゆがみ始めたのである。





「なぜそれでもお前は俺に笑いかける」

「それしか方法をしらないから」

「なぜお前は俺を畏れない」

「畏れる理由がないから」

「ふざけるな!」

「ふざけてない」

「なんでだ....なんで俺を赦す...」

「...明王くん、くるしい」




無表情を崩さないナナシと、
その首を締める不動明王の影が夕暮れ時のグラウンドに長く伸びた。
首を絞めるといっても、その力は弱く、少し気道を圧迫する程度だった。
女のナナシでも、振りほどこうと思えば出来た力だった。
それでもナナシはそれをしなかった。
ただ澄んだ目で、夕焼けが反射したオレンジ色の瞳で、不動明王を見つめるだけだった。



(弱い俺を受け入れるな)

(弱い俺を認めるな)

(弱い俺を赦すな)



『俺を』



彼がえらくなる為に考えた方法は、「どんな手段を使ってでも他人を蹴落とし、自分が立っている台に上らせないこと」だった。
彼自身も高みを目指し、同時に高みを目指している人間は
利用しつつも完膚なきまでにたたき落とす。
他人に憎まれ、嫌われることで
彼は彼だけが到達できる孤高へと上り詰めようとしていた。

なのに。



ナナシはそれを赦し、受け入れ、彼が手にする孤高にすんなりと入り込もうとした。
他者の存在は彼に"不動明王"としての存在や、苦々しい過去を思い出させた。
ナナシはその澄んだ瞳と笑顔で彼の望む孤高を遠ざけた。
彼を高みから引きずりおろし、再び"不動明王"としての自分に還元させようとした。

彼にとってナナシは脅威だ。

彼はナナシを拒絶しようとした。時には暴力ともとれる程の行為をした。
自ら進んで彼女から嫌われようとしたのだ。


しかし、



「明王くんの今日のパスはとてもすごかった」



彼女は飽きることなく"不動明王"を褒め、"彼"の行いをものともしなかった。
彼女は彼の確固たる自我を融解し始めていた。








『憎んでくれ』







彼の願い、(もしくは叫び)も虚しく、夕日が沈み切る頃には、
あの深い藍色の夜の中で、ナナシは"彼"の首を締める両手をそっと解き、
"不動明王"は彼女の首もとに顔を埋めて泣くのだった。






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