寒い。
川から上がった私がまず感じたのは、肌を突き刺すような猛烈な寒さだった。

空からは雪がちらついている。
道にもうっすらと白く化粧がされていて、吐く息と色が混ざった。

実習だった。
タソガレドキの間者でありながら男を装い、忍術学園の六年生として過ごしているとどうしても授業を受けなければならない。その中にはもちろん実習も含まれていて、私はここから上流にある合戦場で偵察を言い渡されていた。
簡単な実習だったはずなのに。
そこで、私ではない他の忍者が姿を見られ合戦は休止。偵察者を捕らえろと方向性が変わった。

とばっちりを食ったのは私だ。
顔も知らない誰かのせいで逃げなくてはならなくなり、退路を塞がれて仕方なく川を泳いで難を逃れた。流れは急で結局、長い間を水中で過ごした。

川の水は針のむしろのように冷たかった。そんな冷水が服に染み込み、ひたすらに重い。
あれだけ冷たいと感じた川は、だが、それでもいざ岸に上がると気温よりは暖かかったのだと知る。
寒い。
とにかく寒い。
火を起こそうか考えて、辞めた。煙で居場所が知られてしまう。せめて洞窟のような囲われた場所に行かなければ。

走りたいのに四肢の爪先の感覚がなくなって思うように足が動かない。膝が固まって自分の体ではないみたいだった。


「くそ…もっと適当にやっとけばよかった」


偵察など簡単に終わらせて、早く切り上げていればこんな事態には陥らなかったのに。
自分の融通の利かなさを呪う。


「真面目なのがアラシのいいところだよ」


ふと声を掛けられて、振り返ろうとした。
首を僅かに巡らせると、喉元に苦無の切っ先が触れる。
体を動かすのはやめて、瞳だけで相手を見た。


「雑渡さん?」


そこには包帯で片眼を隠した雑渡さんがいた。
しばらく見合うと、苦無を収めながら悪戯が成功したように目を細めて笑っている。


「背中ががら空きだよ」
「すみません。警戒を怠っていました」


目の前に立つ雑渡さんは本物だろうか。寒威に負けた意識が見せる幻なのではないか。
会いたいと願う心が見せる偽物ではないだろうか。

なぜだか不安が拭えなくて、震える手で雑渡さんの頬に触れた。
頭巾と包帯のざらついた感触がある。睫毛をなぞると、くすぐったそうに笑った。


「どうしたの。今日は随分と積極的だね」


本物だ。
本物の雑渡さんだ。


「すみません。自分の目が信じられなかったものですから。雑渡さんが偵察者ですか?」
「いや、尊奈門。見付かったから散って逃げてきた」
「ああ、なるほど。陣佐はいないんですか?」


周囲を見渡す。
誰もいない。
自分の体を抱いて、震えを抑えようとした。全くの無意味だったけれど。
睫毛が凍り始めていた。濡れた髪が肌に張り付いて急速に体温を奪っていく。

だからか、雑渡さんの声が一段、低くなったことに気が付かなかった。


「いるけど、別方向に逃げた」
「そうですか。残念です」
「どうして?」
「久しぶりに会いたかったので」


陣佐は歳上だが、私を女とも扱わず子供とも扱わない実に居心地のいい男なのだ。年下のくノ一を対等の人間として扱ってくれる男は貴重だ。
かつて二人で雑渡さんの命令をどちらが忠実に素早くこなせるかを競ったことがある。もちろん、ほとんどが陣佐の勝利だったが僅差ではあった。時折、私が勝つと悔しがって別の勝負を挑んできたものだ。

ふふ、と頬が緩む。
笑うために息を吸うと鼻の粘膜が痛んだ。
口で息をしなければならないのだが、喋る必要もある。けれど何せ震えが止まらないからまともに話せもしない。奥歯が噛み合う音がうるさい。頭に直接、響いてくる。


「どの口がほざいてるの?」
「え」


問い返すより先に、胸ぐらを掴まれた。
間近で見下ろされると、この人の目は本当に恐ろしい気迫がある。
普段がふざけた調子の口調だから、余計に迫力があるのだ。


「他の男の話なんか聞きたくない」
「…失礼しました」
「うん。言えないようにしてあげる。付いて来て」
「しかし早く忍術学園に戻ら――」
「逆らうの?」


押し黙る。

諦めて嘆息付くと、それを了承と捉えたようだった。

雑渡さんが駆けて行くのを追う。
寒くて体が固まっているうえに雑渡さんが速すぎて距離が徐々に開いていく。
服が重い。足が重い。苦しくて、肺が爆発してしまいそうだ。
次第に私のスピードが遅れて、とうとう立ち止まってしまった。踞る。
手が真っ赤になっていた。
震えて口を閉じていられず、涎が垂れる。滴下した場所だけ、じんわりと雪が溶けて無意識にそれを眺めていた。

雑渡さんが戻ってきた音がした。
顔すら上げられなかった。


「す、すみませ…寒くて…か、体が」


ガタガタとみっともなく震え、ひいひいと情けなく喘いでいる私の背中に、そっと雑渡さんが手を置いた。


「ごめん」


なぜ、謝るのだろう。


「ごめん。意地悪しすぎた。ごめんね」


そんなことはない。
あなたに追随出来ない私が落ちこぼれで悪いのだと、そう言いたいのに喉は呼吸だけで精一杯だった。
そんな私を雑渡さんは軽々と抱き上げた。
濡れていた髪がやはり凍り始めていて、雑渡さんの服と擦れるとシャリシャリと音がする。

そして何も言わずに洞窟へと連れて行ってくれた。
素早く火起こしをしてくれたあげく、私の装束をさっと脱がせる。器用に火の回りに広げて並べ、乾かしてくれた。


「寒いよね。すぐに暖かくなるからね」
「すみません本当にすみません」
「いいんだよ」


そして私を抱こうとしたので、胸板を押して拒否した。


「だめです。雑渡さんまで濡れてしまいます」
「なに言ってるの。服が濡れたら困るけど、素肌ならすぐに元通りだから構わないよ」


見れば、いつの間にか雑渡さんも装束を脱いでいた。
むしろ包帯すらも身に纏っておらず、鍛えた筋肉が炎でゆらめいている。
私を抱き寄せるその力は強いのに優しくて、焚き火によって岩肌に浮き上がる私達の影がひとつになると、ほっと安心した。

雑渡さんの肌にある火傷の感触が懐かしい。ざらついて、でこぼことして、それでいて熱い。


「いじめてごめんね。アラシの口から他の男の名前が出ると、なんだか気に食わない。無性に腹が立つ。だから私の名前だけを呼んでいて欲しい」
「雑渡さ」
「違うでしょ」


なぜ私はまだ震えているのだろう。
捕らわれた恐怖なのか、寒さの名残があるのか。雑渡さんの腕の中で弱小の動物のように小刻みに震えていた。

名を、呼んだ。


「昆奈門さま」


雑渡さんが笑った気がした。
炎の揺れのせいだろうか。
妖しげなその笑顔が本物だったのか、ついぞわからなかった。
名を呼ぶと雑渡さんの体はさらに熱くなって、増大した力で私を抱き締めた。


「うん。いい子だね。あたたかい?」
「あたたかいです、すごく暖かい」


あたたかい。





夢か、現か
(目が覚めたとき忍術学園の門に凭れていた)




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