忍術学園を囲う塀の上から、私は落下した。
もう跳躍力も、着地をする力も残っていなかった。
翼をもがれた鴉のように地面に堕ちて、ずるずると体を引き摺りながら自室に入る。
無遠慮に戸を引き開けたせいで、眠っていた伊作と留三郎が飛び起きた。
「…アラシ!?」
二人の声に構わず、押し入れを開け、本を探す。
あの本はどこだっただろう。
「どこだ、どこだっけ」
奥深くに仕舞いこんだ、厚いあの本。
ああ、これだ、これ。
この本。
中を開くと、白い押し花が挟まっていた。
我ながら女々しいとは思ったけれど、これだけはどうしても持って行きたかった。
「アラシ、どうしたんだ? こんな夜中に…実習か?」
「…怪我してるじゃないか!」
留三郎と伊作を無視して、廊下に出る。
すると庭に、利吉さんを始めとした先生方が勢揃いしていた。
まあ、利吉さんも報告に来るだろうとは思っていたけれど、先生方が揃うのは早すぎやしないか。
しかも皆が皆、武器を構えている。
背後には伊作と留三郎が事態を呑み込めずに混乱しているし、先生方は張り詰めているし、ここまでの逼迫した状況があっただろうかと可笑しくなってしまった。
「戻って来るなんて…信じられない」
利吉さんは私を愚かだとでも言うように、おもむろに顔を振った。
私も、そう思う。
頬を緩めて笑うと、留三郎が私の肩を掴んだ。
振り払うと、今度は顔を両手で挟まれて強引に留三郎の方へ向き直された。
至近距離に留三郎の吊り目があって、私の顔が写り込む。
雨で濡れた髪が肌に張り付いて、みすぼらしい。
顔色が悪くて、唇は紫で、ああ、どうしてか悲しそうな顔をしている。
留三郎は心配そうに私の左右の両目を見つめた。
「おい、何かしでかしたのか? それなら、俺も一緒に先生方に謝ってやるから、一体これはどういう状況なんだ?」
「留三郎、離れなさい」
土井先生が留三郎と伊作を牽制する。
でも留三郎の手はむしろ力を強めた。
「先生方が何を怒ってらっしゃるのか、説明しろ、アラシ。一緒に頭を下げてやる。同室じゃないか」
瞼をおろした。
暗い視界の中に、留三郎の言葉が染み入ってくる。
温かくて、熱い言葉だ。
留三郎の手を掴んで、下ろさせた。
「…もう、いいんだ。下がっていてくれ」
「…なに?」
そして私は庭へと躍り出た。
これだけの人数の先生方と戦うほど、愚かではない。
雨の下に踏み出して、両手を挙げようとしたとき、扉が引き開けられる音がした。
「アラシ…? この騒ぎは…」
仙蔵だった。
寝惚け眼の仙蔵を目にした瞬間、ここからの脱出方法が瞬時に計算された。
身体が勝手に動いて、気付いたときには仙蔵を羽交い締めにして、苦無を仙蔵の喉元に突き付けていた。
息を呑んだのは、仙蔵以外の全員だった。
「追って来るような真似はしないで下さい」
言い終えて、咳き込んだ。
仙蔵の肩から胸にかけての白寝巻きに、私の吐血が染み込んでいく。
そこで初めて、仙蔵の顔に焦燥が滲んだ。
「アラシ、怪我してるのか?」
この男は本当に。
何をされているのか、わかっていないのか?
「追って来るなよ」
念を押して、じりじりと後退する。
もう一度咳き込んで、仙蔵の寝巻きをさらに重く湿らせた。
「アラシ、血が…!」
「仙蔵、悪かった。本当に悪かった」
そして仙蔵を先生方へ突き飛ばして、私は塀へと駆け抜けた。
筋力ではなく、生命力を燃やして、とにかく逃げ続けた。
「アラシ!」
「立花くん、君は利用されたんだ。アラシはタソガレドキのプロ忍者だったんだよ」
利吉が、追おうとする仙蔵の肩に手を置いて諭す。
仙蔵がアラシを思っているのは知っている。
口付けをした瞬間を見ていたし、そのときの仙蔵の表情も見ていた。
惚れ込んでいるのはわかる。
だから仙蔵が混乱しているのも、よくわかっていた。
「そんな…じゃあ、今までのは全て…」
「嘘だ」
せめて、さよならを。
欲を言えば、最後まで嘘を。
「アラシ」
仙蔵の呼び声は、雨に消されて届かなかった。
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