鯉が泳ぐ池は底まで透き通っていた。
白に赤の斑模様が浮かぶ魚の背を目で追いながら池の回りをとぼとぼと歩く。


「ひとりで寂しかろう」


呟いた。
私の手にある桶には新たに連れてきた緋色の鯉がゆるりと泳いでいる。それ行け、と池に放ってやればよいのだけれど迷ってしまうのは肌の色を異にするからだ。


「厭わないで欲しいなあ」


何を伝え損ねたのか、同じ紅白の鯉を頼んでおいたはずなのに届けられたのは全身緋色の此奴であった。

魚は見た目で仲間を判断するだろうか?
色覚があるのだろうか?

それだけでももう少し学んでおけば良かったと後悔し始めたとき、背後で気配が動いた。

振り返ればそこには腕を組んだ千景が佇んでいる。
いつもの涼しい眼差しで私の動向を見守っていた。


「半刻も何をしているかと思えば。早く放してやらぬか」
「うむ。それは重々にわかっているのだけれど…魚類の眼は色を判別できるのだったか、とんと思い出せなくて」
「何だ、そんなことか。お前は淘汰を恐れすぎるきらいがある。案じることなく放してやれ。そら窮屈で死ぬぞ」


少し活発さの失いつつある緋色の鯉を見下ろして、慌てて膝をつき桶を優しく傾けた。
水飛沫と共に幾ばくかの自由を手に入れた緋色の鯉が身震いするように身体を左右に振るわせると、それからはまたのんびりと水中をたゆたう。

目で追っていると紅白の鯉が新参者に気付いた。
互いに寄って、鼻先を擦ったかと思えばどちらともなく行き先を変えて共に泳ぐ。

ほっと安堵していると、手に持っていた桶を引っ手繰られた。
振り仰げば千景が横にいる。
(気配を消してくれるなと頼んでいるのに)


「まだ過去の傷が癒えぬか」
「私自身としては癒えたつもりなのだけれど…」
「人間共の村に捨てられたお前が悪い。よもや鬼だと知らずに、ましてや鬼の存在も知らずにこれまで生きてきたとは俄に信じがたい濃厚な血だというのに」
「自分では血の濃さはわからないから、そう責めてくれないで欲しい。それにしても、人間はなにゆえ姿形が異なるだけであれほど非情になれるのだろう」


激情して角を出してしまった私を化け物扱いして手錠で杭に繋ぎ、長いこと野晒しにされた記憶が蘇り、ぶるりと震えた。怖気が走る。
私を見下ろす人間のあの残酷に染まった目を思い出すと今でも髪色が変わるほど恐怖してしまう。
案の定、鬼の姿へと変わりつつあったのか千景が背後から私を抱きしめた。耳元で「恐れるな」と囁いてくれる。
そうするとどうしてか髪色が戻って行く。


「愚民の心情など理解しようとするだけ無駄というものだ。現にこの俺が救ってやったではないか」
「村をひとつ消したのは憶えてる?」
「なに、ささいな事だ。鬼を愚弄した罰であるとすれば些か手緩かったかとさえ思っている」
「私と同じ角のある千景を見たとき夢か現か、判断に迷った」
「ほう? ならば俺はあやかしか」
「抱き上げられたとき現実だとちゃんとわかった。千景には感謝しているよ。けれど、なにゆえ鯉の色を間違えたのか。同じ色のものを、と確かに伝えたのに」
「さて、行くとするか。鯉と水の入った桶を半刻も抱えていたのだ、腕が痺れたであろう」


言いながら千景は私の手を取った。指を絡め、しっかりと握る。この男は冷徹非情と名高い割に信じられないほど柔く手を取るのだから不思議だ。
そこで気が付いた。


「わざと緋の鯉を頼んだのか。千景のやり方は回りくどくてわかりにくい。過去など気にするなと言ってくれればいいのに」
「考えた方が頭にも残るであろう。ところで銃を扱った経緯を聞いてやろう」
「不知火から聞いたの?」
「俺の鼻を侮るな」


縁側から屋敷にあがると千景は桶を適当に置いて、敷きっぱなしの布団にごろりと転がった。
傍らに座れば当然のごとく膝を枕として使われる。細い金糸の髪を鋤けばそっと瞼を閉じた。


「お前も眠るのなら隣を空けてやる」
「もう少し起きてる」
「そうか。もう銃など扱うな。射撃の才がありすぎて不知火が不貞腐れていた」
「でも身を護るすべがないもの」
「俺がいるであろう」
「常に傍にいるとでも?」
「違うのか?」
「いいや。千景はそうと思ったらその通りに行動する男だ。私の自由は未来永劫消え去ったのだと肝に命じよう」
「聞き分けが良いと殊更に飼い主から手綱を強く引かれるぞ」
「飼い殺すなら可愛がって欲しい」
「…いいだろう。気が変わった。抱いてやる」


言い終えるが早いか千景はすっくと起き上がって私を押し倒した。
侵すような口付けをされ、感触に溺れる。
けれどそれ以上のことはせずに、私を寝転がりながら抱き締めた。器用に布団を掛け、その温もりにどっと睡魔が押し寄せてくる。


「お前はどちらの鯉だろうな」
「え?」
「仲間を待ち続けた紅白の鯉か、仲間に受け入れられるか案じていた緋色の鯉か」
「千景の好きな方でいい」
「そうか。考えておく」


そうしてお互い同時に瞼を下す。
微睡の中で「決められぬな」と嘲笑混じりの声が聞こえた気がした。





さしずめ貴方は水であろう
(其方がいなければ我は生きることも叶わない)
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